顔は、逆光でよく見えなかった。
相手は細くこけた輪郭をゆっくりとこちらに向け、その大きな手を差し出す。
「──息子よ」
空気に溶け込むような低い声が響き渡り、自分のどこかが悟る。
この人が自分の父である、と。
何の恐ろしさも感じることなく、俺は差し出された手を取った。
大きな父の手はこちらの小さな手を軽く暖かく、その柔らかさを確かめるように握り、引いて、光ある方へ歩き出す。
父と自分が向かう先は知らなかった。
白い通路がずっと先まで続き、向かうその先に白い光が溢れて、俺たちの影をこれでもかと黒に塗り潰している。通路の両端にはハスの彫刻が成された柱が一定間隔で延々と並んでおり、柱の下から伸びている長く黒い影が行く手に倒れていた。
柱一本一本の前に、兵士らしき者たちが無表情で佇んでおり、こちらが擦れ違うと同時に膝を折って頭を下げる。
己のいる場所は、知っているようにも知らないようにも感じられる不思議さを湛えていた。まるで夢を見て、その夢の中の架空の場所が実在する場所であると錯覚するかのように。
「父上」
咽頭を越えて父を呼んだ自分の声は、ひどく高く、幼かった。
「どこへ行くの?」
こちらが走らねばついていけないほど、父の大きな足は大股で白い地面を進んでいた。
「ねえ、父上」
呼んでも、父は答えない。振り向くこともしてくれない。吹き抜ける風のせいで声が聞こえていないのだろうか。
不意に何か恐ろしいものが向かう先にある気がして、俺は父の手を両手で強く掴み、進む方とは反対方向に全体重を掛けて引っ張った。
「どうした」
父はようやく逆光で見えない顔をこちらに向けてくる。
俺は父を縋るように見上げて、首を何度も横に振った。
「いやだ」
父の行こうとするその先の白さがあまりに恐ろしかった。
まるで骨のような不気味な白さだ。あそこに行ってしまえば、自分たちも溶けていなくなってしまいそうだ。
「そっちはいやだ。怖い」
「トゥト・アンク」
突然横から声が飛んできて、右に顔を向けると兄がいた。
普段は「アンク」と呼ぶくせに、自分の名の意味を思い知れとでも言うかのように叱る時だけアンクの前にトゥトと付ける。
そんな兄が自分を見下ろしていることからすれば、自分が八つにも満たない子供であると知った。
「進め。父上の手を煩わせるな」
顰められた兄の顔からは「父の言うことに従え」という威圧が含まれている。
仕方なく肩を竦めた俺の手を、父はまた優しく握った。
見えない顔は、何故だか慈愛に満ちた微笑が浮かべられているようでならない。父の表情を確認したくて目を凝らすのに、光は父の顔を真っ黒に陰らせてしまって、そのこけた輪郭以外を一向に明らかにはしてくれなかった。
「アンケセパーテン」
俺が進むことを了承したのを確認した兄が、後ろから遅れてついて来ていた少女を呼んだ。
物悲しそうな眼差しであたりの柱を見渡していた姉は、兄に呼ばれて弱々しく微笑んで首を傾げる。幼さがあっても良い年頃だというのに、瞼に塗られた鮮やかな緑と、澄ました表情、気高い金色で着飾った姿のせいで随分大人びて見えた。
「早くここへ」
兄に急かされた姉は足を早めて兄の傍、俺の右後ろにつく。父の子ら三人が並び、父の進む方へと揃って歩いた。
兄と姉も無言で、父も無言。誰も喋らない。四人の足音だけが疎らに白い世界に響き、あまりに静かすぎて脳内に反響するほどだ。
なんて得体の知れない所を歩いているのかと、怖さと不安だけが自分の中に募っていくのを感じていた。
どこまで行くのだろう。
いつまで続くのだろう、この道は。
ただただ連れて行かれているだけで何も知らされていない俺は、身を竦めながら耳を澄ませ続けた。早くこの異様なところから出たくて堪らなかった。
すると、微かに、自分たちの足音以外の音が聞こえ始めたのに気付いて顔を上げた。
──声だ。
わっと舞い上がった人々の声に、沈んでいた気持ちが一気に上昇する。肌が沸き立ち、思わず身震いした。
自分たちの向かう先に何が待っているかが分かって兄を振り返ると、兄は少し緊張を混ぜた面持ちで笑ってくれた。
「我が国の民だ。目に焼き付けなければならぬ」
耳の奥がじん、として、咄嗟に父に繋がってない方の手で片耳を抑えた。進めば進むほどに胸が高鳴って仕方がない。
延々と続くように思えた柱の廊下を越え、ついに視界が大きく開けた。一瞬太陽の光で白かった視界はやがて晴れ、そこに広がる光景を浮かび上がらせる。兵や神官、女官がこれでもかと長い列を成し、現れた王族に対して、敬意の眼差しを向けていた。俺たちが進むと、まるでナイルの波のように膝を折り、次々と滑らかな仕草で頭を下げていく。
向かう先に一人の女性が立っていた。
兄と姉の間の年齢の、父の正妃。ミタンニの血を引く美人と評判の若い妻──俺たちの形ばかりの義母。名も、「美しき人来たり」という意味のネフェルティティだった。
父が目の前に来るなり、美しい黄金に着飾った彼女は膝を折って深く礼をする。父は俺の手を離すと自分の正妃に労いの言葉を掛け、頭を上げた彼女の手を取って共に前へと歩んだ。
父の子を初めて身籠った彼女の腹は、目に見て分かるほどに膨らんでいる。
自分の腹に手を当て、慈しむように歩を進める彼女の姿を、幼いながらに美しいと思えた。
並べばまるで父と娘のような年齢差だが、ネフェルティティが深く父を愛していることは離れている自分たちにも十分なくらい伝わってきた。普段、誰よりも気高くあるはずの表情は、父の前では頬を紅潮させ、屈託のない微笑みを向けるのだ。
その二人を中心に、父の子である三人の王子王女は民の前に姿を現した。
──我ら、神なる王家である。
父が大きく手を天に掲げると、人々の歓声は天を貫くほどに大きくなった。
兄は胸を張って民に微笑み、姉は澄ました表情でありながらも口元を緩めて侍女から受け取った花を胸に抱いている。
幼さを隠し切れず、自分の眺める立場にはしゃいでいたのは自分だけだったかもしれない。
これがテーベからアケトアテンに都を遷してから初めて民と言う存在を目にした瞬間だった。
父が神を変えたのだということの事実を、幼い俺はよく分かっていなかった。だからこそ、姉と兄の不安も感じずに無邪気でいることが出来たのだ。
先程まで抱いていた得体の知れない恐れなどどこかへ吹き飛び、ただただ眼下に広がる、父が守ろうとした国の姿に興奮し、感じるもの全てに身を震わせた。顔を真っ赤にして下を眺め、姉に手を握られながら凄い、凄いと騒いでいた。
「アンク、少し落ち着け。見っとも無い」
「でも!でも!兄上!」
興奮が冷めやらぬ俺は、兄の手も掴んだ。
「そうだな、凄いな」
民たちを眺めながらそう呟いた兄の表情は何故か固い。
その理由を、俺は知らなかった。
歓声の中に怒りや非難が含まれていることなど。何も。
何も、知らなかったのだ。
切れ目のない縁があった。
姉の隣には偉大なる父。輝かしい太陽を背にして、偉大でありながら優しい雰囲気をまとい、俺の名を呼んだ。兄は慈愛に満ちた表情で俺を眺め、くすりと笑った姉は小首を傾げて、おいでと手招きする。
彼らの優しい眼差しを一身に浴び、その暖かい感覚が嬉しくて、頬を紅潮させて俺は駆け出すのだ。兄が抱き止めて、強く頭を撫でてくれる。姉は走っては転ぶだろうと俺を困った顔でたしなめ、父は「男子たる者、冒険は大事なのだ」と大らかに笑う。
次期後継ぎとしての風格を露わにしつつあった兄は、父と並んで政に携わった。
兄は力強く大地を踏みしめ、胸を張って、太陽を仰ぐ姿は勇ましく、父と同じくらい絵になった。兄弟で似ていると言われた己の鼻元が、唐突に嬉しくなるほどだ。
兄が次期王になるのなら、それで良いのだと思っていた。問題ないと幼いながらに国の永遠の安寧を感じていた。いつも前を見据えていた兄が誇りだった。
そして、自らに威厳を保ち、国を守らんとした背中の大きな父が何よりの憧れだったのだ。
自分が幼く、背が小さかったと言う所為もあったのかもしれない。
ただただ大きい二人が、何よりも輝いて見えて仕方が無かった。
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