兄のこと


 文字の読み書きや、外の国の言葉を教えてくれたのも兄だった。

 父がつけてくれた家庭教師カネフェルから教わったものを、その後に兄が復習として試してくれるという方法で、外の国の言葉でしか会話をしないと決めつけられることもあった。

 得意な言語ならまだしも、苦手なものだと、「発音が違う」、「言い方がなってない」と厳しく注意して来る。いちいち突っかかってくるものだから、俺は腹を立てて兄に食い下がった。


「兄上は厳しいのだ。ちょっと間違えるとすぐに注意する。細かいことにぐちぐちと。これくらいならばよかろうに」

「他の王族に会った時、恥をかくのはお前だぞ」


 そう言われてしまうと、返す言葉がなくて黙り込んでしまう。

 兄が時折第一王子として近隣諸国に赴いているのは知っていたし、自分もいずれはその役目に就かねばならないことは以前から耳が痛くなるくらい聞かされていた。

 この役目からは逃げられず、他国に行き、その国の言葉をまともに話せない自分があまりに簡単に想像できてしまうのもまた悔しい。悔しいながらも仕方なく頷く俺を見て、兄はおかしそうに笑って、もう一度言ってみろと俺に促した。


 数学などの学問においては姉と並んでカネフェルに習っており、姉が懸命に俺とは違う勉学に励んでいるところを、俺は兄への愚痴を零し続けていた。姉は自分の手元に目を落しながらも面白そうに笑っていたが、俺としては愚痴を言わなければやっていられない。


「アンク、それはお兄様があなたを想ってこそのこと」


相手はようやく顔を上げて八の字にした眉のまま、軽く肩を揺らす。


「でも姉上にはそうでなかったのだろう?現に姉上は俺よりも自由にやっている」

「私は女だもの、王になることはない。けれどあなたは違う。王になる可能性は少なからずあるの。だからお兄様はあなたに厳しくする。立派な王になるには、時間がかかる……大変なことなのだから」

「でも父上の次は兄上だ。兄上さえまだ王になっていないというのに、何故俺がやらねばならない」


 姉が少し悲しそうに肩を竦めるのを見逃さなかった。

 どうしたのかと聞こうとも思ったが、あまり聞いては行けないような気がして開きかけた口を噤む。


「姉上、俺は……」

「アンク、『俺』じゃないでしょう」


 変なところを突かれて、思わずきょとんとした。


「何度言えば分かるのかしら。……本当に、どこでそんな言葉を覚えたの」


 さっきの話題を続けたくないから妙な部分に突っかかってきたのだ。

 それはそれでうんざりした。ますます反抗したくなる。


「兵が言っていたのだ。わたし、など言っていられぬ。こちらの方が強そうだ」

「呆れた。兵と王家は違うのよ?それなりの気品がなくては」


 ぶうっと頬を膨らませて拗ねて見せると、姉は小さく溜め息をつく。

 表情に笑みは無かった。


「とにかく、お兄様の言うことは聞きなさい。すべてはあなたのためなの」


 自分のため、と言われてもあまり納得がいなかった。

 四つの時から始まった勉強尽くしの生活はともかく、いちいちやってくる兄の説教を思うとただただ辛いだけで、兄と姉の気持ちをちゃんと分かることが出来なかったのは、おそらく俺が幼すぎたからなのだということさえ、分かっていなかった。


「姫君、王子」


 その時カネフェルが帰って来て、与えられた課題が出来たかどうかを尋ねてきた。


「姫君は素晴らしい、多くの国の言葉を覚えられましたな」

「ええ、もうどの国の方と謁見があっても大丈夫よ」

「さすがです。さて、王子は」


 愚痴ばかり零していた俺はひとつも解けておらず、はっとして課題と向かい合う。

 カネフェルと姉がくすくすと笑っているのを傍で聞きながら、慌てて解く有様だった。


 姉より遅れてすべてを終らせ、乳母と共に部屋の方へ向かっていると、兄が姉と深刻そうな面持ちで話している姿を見つけた。

 あまり自分が入ってはいけないような雰囲気があり、兄の表情が怖くも感じてその場に立ち竦む。


「おお、喋り虫が戻ってきたようだ」


 けれど、そんな表情を見せたのも一瞬で、俺を見つけるなり、兄は笑って俺をからかった。

 姉に先程の一部始終を聞いたのだろう。


「そんなんじゃない」


 けらけらと姉と一緒に笑いながら、兄はおいでと手招きをしてくれる。


「遅かったな、アンク」

「カネフェルが出した問題がちょっと難しかったからな。手こずったのだ」


 やれやれと大げさな素振りをしていると、姉がまた笑い声を立てた。


「嘘ばっかり」


 年よりも大人びた姉の声だ。


「嘘じゃない!姉上はどうしていつもいつもそうだと決めつけて物を言うのだ」

「だって、そうでしょう。アンクはずっとぐちぐち喋って課題を解くのを忘れていたの」

「違う!」


 むっと姉を見返した俺に、兄が庭の方を示して、にやりと口端を上げる。


「アンク、兄と共に弓でもたしなむ元気はあるか?それとも姉と口げんかを繰り広げ続けるか?」


 ぱっと顔に熱が上がり、兄を振り返るとぶんぶんと横に首を振った。


「当然!兄上、勝負だ!」


 すかさずカーメス持ってきた弓をそれぞれに受け取り、兄の手を掴んで庭へと飛び出した。


 兄は、いつも俺の前にいた。

 人望も厚く、優しく正義感があり、必ず弱い者の立場になって考える、雄々しく王家に見合う人間。王の世継ぎに相応しいと、一体何人の者たちが口にしただろう。

 異論はない。いつも自分の前を行き、何よりの憧れで、自分の何よりも目指すべき人物が兄だった。

 兄が王となるのなら、自分はその支えになれればいい。兄の抱く理想の土台に自分がいることができるのなら本望だった。


「アンク」


 大らかに笑い、優しい眼差しを向け、おいでと手を伸ばしてくれる兄を目にするほどに、侍女たちの話し声が脳裏に甦る。


『──兄君様のご持病が再発しなければ良いのですけれど』


 赤ん坊のころから身体が弱く、何度命を落としかけたか分からないという話だったが、兄のそういう姿を見たことがなかった俺には兄に持病があるなど、にわかには信じられなかった。

 兄が生まれて物心つくまでの間に持病の発作が酷かったことを聞いてはいるが、兄のそのような姿は見たこともなかったし、姉も、兄自身でさえも、持病に関しては口にしたことが無い。

 それどころか、兄はこれでもかと勇猛果敢な王子時代を過ごし、弟であった俺にあらゆることを教授していたから、侍女達が病は治ったのではないかと口々に噂するほどだった。

 俺も、そうだと信じて疑わなかった。

 兄の病は治ったのだ。治ったに違いない。

 治らない方が、おかしいのだ。


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