異変

 数年が経ち、ある時を境に兄は頑なに俺を外に出さなくなった。

 外での狩りや、ナイルへ泳ぎに行くことを何よりの楽しみにしていた俺にとっては衝撃のことであったし、楽しみを奪われてしまった怒りと、その理由を教えてもらえない苛立ちでどうにかなってしまいそうだった。


「何故駄目なのだ!!」


 椅子を力任せに蹴ったら、思いのほかそれは動いて倒れた。

 嫌な音がして、そこから顔を背けて前へ歩を進める。狭い部屋ではすぐに部屋の壁に行き詰まり、身体の方向を変えたら、諭そうとするかのような眼差しがこちらに向けられていた。


「王子」


 倒れた椅子を柔らかな物腰で元に戻すのはカネフェルだった。

 姉がすべてを学び終え、今彼に学ぶ人間は自分だけになっていた。


「兄上は分からず屋だ」


 俺をずっと宮殿に閉じ込める理由を、兄が多忙でついて行けないためと知らされたが、嘘だと気付かない訳がない。

 兄は誠実過ぎることが災いし、嘘が下手な人間だった。

 付き添いなど兄でなくとも良く、以前に兵たちだけをつれて狩りに行ったこともあるのに、今更そんな言い訳で「相分かった」などと誰が頷くと言うのか。


「腹が立つ」


 カネフェルの前で机を蹴りつけて愚痴を連ねても、相手も肩を竦めるばかりだ。理由を教えてくれても良いものを、兄に口止めでもされているのか言ってはくれない。

 はぐらかし、肝心なことを話してくれない、未だに幼子扱いであることを実感して、加えて腹が立つ。


「いっそのこと、一人でここを飛び出してやろうか」


 体裁も何もかも捨てて、好きなだけ、好きなように外を馬で駆けて。

 吹きすぎていく風はどれだけ気持ち良いだろう。

 草花の香りは。ナイルの涼しさは。砂漠の砂は。馬上で浴びる、ラーの黄金の光は──。

 思い浮かぶ情景に酔いしれそうになるが、すぐに自分の置かれた身分が立ち憚り、気持ちが沈んだ。

 十一にもなってここまで過保護にされると煩くて堪らなかった。末子だからと言って、いつまでも子供という訳ではない。兄が俺の年の頃には、父の傍で政の話を聞いていたというのに、自分はこの様だ。


「すべてはあなた様を想ってこそ」


 カネフェルは静かな声音で諭してくる。


「何がだ。何も知らされずに、子供扱いをされて何が俺を想ってのことだ」

「一先ず、気をお鎮めなされ」


 椅子に座るよう勧められ、大きく息を吐いて促されるまま腰を下ろした。

 カネフェルに怒りをぶつけても仕方のないことだというのに、自分は何をしているのだろう。

 兄に言われたことを思い返しては苛立ちを募らせ、それを落ち着かせようともう一度息を吐くと、目の前に腰を下ろす相手が自然と視界に入った。

 物心さえつかない幼い頃から今まで、自分に様々なことを教えてくれた恩師。兄が称賛されるほど立派に育ったのは、この男に師事したからだ。彼が教えを与えてくれたことで、どれだけ自分の見ている世界が広がったことか。


「カネフェル」


 しばらくして沈黙を破った。

 何度も聞いた礼儀正しい返事が返ってくる。


「……お前もここを出て行くのか」


 ぼそりと呟くと、カネフェルの表情が僅かに揺れた。俺が知らないはずのことを口にされて、驚いたようだ。


「兄と話しているのを聞いた」

「盗み聞きとはなりませんぞ。あなたは王子なのですから」


 黙り込んで視線を逸らす。


「堂々と聞いても教えてくれぬだろう」


 自分にどの情報が与えられ、どの情報が除かれるかの判断は兄が握っていた。

 兄が頷かなかったからこそ、カネフェルも言わなかったに違いないのだ。


「まだ先の話に御座います」

「でも、俺を置いて行く。まだまだ知りたいことが山のようにあるというのに」

「私は行かねばならぬのです」


 本人の口から真っ直ぐ聞いてしまうと、覚悟はしていたもののやはり気落ちした。

 言葉を返す気力さえ、どこかへ飛んで行って消えてしまう。

 兄も姉も政務に駆り出されるようになり、兄弟の中で一人、何らかに関して省かれている今、カネフェルだけが唯一話が通じ、教え、話し相手になってくれる存在であり、代わりなどいない相手だった。

 本音が言えた──他に言えないような弱音をも吐けた唯一とも言える相手だったのだ。


「どこへ」


 父に思うように甘えられない時、この人が父だった。この人がいなくなれば、自分はここで一人だ。


「お前はどこへ行く?」


 相手はじっとこちらを見据えた。


「民に。……民の子らに教えを解きに」


 まさか、と思わず声を上げそうになった。

 王宮の家庭教師は国最高の教え導く者であり、最多の知恵を持つ者だ。生まれ故郷へ帰るとなればともかく、それだけの地位を持つ者が民の教師へ身を投じるとは。


「兄上の命だな」


 兄が、カネフェルに命じたのだ。


「何故兄上は、カネフェルを俺から離すのだ。お前が俺に教えることはまだたくさんあるはずだというのに」

「いえ」


 今まで言葉を濁らせていたカネフェルが初めてはっきり答えた。


「あなた様にお教えすることは、もう御座いません」


 はっきりと否定されて驚いて目を見張る。

 カネフェルは静かな面持ちで俺を見つめている。


「私はあなた様にすべてをお教えしました。そして賢いあなた様はすべてを飲みこまれ、今や兄君姉君に並ぶ王家として相応しい知恵と品格をお持ちになられた。あとは如何にあなた様が、それをお使いになられるかです」


 そんなはずはない、と首を振ったが、彼は自分の意見を決して曲げることは無かった。

 自分が兄や姉に匹敵するものを、もうすでに手にしているなど信じがたいことではあった。特に兄には足元にさえ追いついていない。そう考えてしまうと、自分には根本的なものが欠けているのだとどうしようもない悔しさに叩きのめされる。

 拳をこれでもかと握った。あの兄には、敵わない。


「それに、今回のことは、私自身が望んだことでもあります。民の声を聞き、王宮へ伝えることも出来る。私は決して王宮から離れる訳ではないのです」


 民の声を直に聞ける──王家にとってはこの上ない良い話だ。

 分かる。分かっている。俺が自分のことしか考えていないことは。

 それでも止められない。


「……カーメスも家に帰るかもしれぬと聞いた」


 カネフェルに続け、兄の傍に仕え続けている彼も、宮殿を一端出るという。

 彼らのいなくなった宮殿を脳裏に描いてみると、それはとてつもなく物寂しいものになった。だというのに、俺は外に出してもらえることなく、一人で宮殿の中で過ごせと言うのか。拷問でしかない。


「あの者は貴族の出ですから、心配なのでしょう」

「何故、心配になる」


 繰り返し、口調を強めて尋ねても、カネフェルは何も教えてはくれなかった。


 部屋を出て、廊下を兵をつれて歩いていた。

 自分のサンダルが鳴らす音が嫌に耳の奥に響いている。

 足元から伸びる自分の影は時間に従い、その濃さを増しており、ふと足を止めて太陽が傾く西に目を向けた。


「いかがなさいました、王子」


 途端に立ち止まったために、背後の兵が不思議そうに声を掛けてくる。


「……このまま、本当に外に出てしまおうか」


 相手に聞こえないほどの声で呟く。聞き返されても言い直すことはしなかった。

 口にするほどに冗談が本気へと変わっていく気がする。

 あと数刻もすれば夕暮れだ。ここにいても息を呑むほどに美しい夕陽が拝めるだろうが、外に行けばこれ以上のものを目に出来るだろう。

 夕陽の下で、生き生きとした民たちの姿に心を震わせた時の記憶は鮮明だった。王宮の壁のない、ナイルの風を一身に受けられる大地、笑い声の響く温かな街。


 見に行ってしまおうか。このまま。

 馬に跨り、外と自分を隔てる壁を越えて。この息苦しい場所を飛び出して。


「アンク」


 名を呼ばれ、懐かしささえ覚える声に振り返った。

 姉だった。後ろにネチェルを連れ、俺を顰めた眼差しで見据えている。


「何を、考えているの」


 随分久しぶりに会う姉は前回目にした時よりも大人びていた。

 自分の身長が伸びたのか、以前は高かった姉の視線が近くに感じる。

 嫌味な挨拶でもしてやろうかと思ったが、そこまでの気力もない。


「何も」


 素っ気なく答えて、また太陽に目を向けた。


「何か、悪いことを考えているのではないの」


 詰め寄るようにして、姉は問い質してきた。

 父が正妃であるネフェルティティのもとへ通わなくなったこともあり、唯一の王家の娘である姉がいつ父の妻となってもおかしくなかった。

 だからこそ、数年前から姉に香油を付けてもらうこともなくなったし、気安く語りかけることもなくなった。

 兄にしてはいけないと止められたからだ。最早姉でも妹でもない。義理とは言え、母になる身なのだと。

 そもそも、姉に香油を付けてもらおうと思うほど自分はもう子供でもない気がした。


 そうだ。父が姉を妻にするかもしれぬと周りが言い出した頃から何かが違い始めてしまった。変わるはずがないと思っていた、不変であると思い続けていたものにひびが入った。

 だが、過去を悔いた所でどうかなる訳ではない。王家の娘が王である父の妻になることは古から続いていたことであり、姉と父の婚姻もまた必然だった。

 変わってしまうのも起こるはずのことだった。俺が、何も知らなかったに過ぎない。


「父の妻になる方がこのようなところにいて良いのか?」


 振り返って相手を嘲笑したつもりが、姉は表情を変えなかった。

 唇を引き結び、俺を真っ直ぐ見つめている。案じているような眼差しでもあった。

 姉の目は兄に似ている。父に似たのだろう。澄んだ黒、濃淡とでも言うべき色が真っ直ぐな瞳を覆っている。祖母に似たという自分の目とは違った。

 自分だけが違う気がして、咄嗟に目を逸らせて姉の横を通り過ぎようと足を踏み出した。


「どこへ行くの」


 知らない。この宮殿以外、行く宛などない。


「外ね?外へ行く気ね」


 追ってくる姉の声は、さっきまで頭を過っていた考えに的中していた。

 そんなことにさえ、煩さを覚えてしまう。


「駄目よ。許しません、アンク」


 姉の手が腕に触れ、勢いよくそれを払って足を早める。振り返ることもしなかった。


「アンク!!」


 姉がどんな表情で自分を呼んだのかは分からなかった。

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