外へ
ぐったりと寝て、同じようにぐったりとした重みと共に朝を迎えて瞼を開けた。
身体を起こすと、侍女が顔を出して支度を整え、朝食へと進む。
兄と姉が多忙のせいか、3人で取っていた朝食もいつからか一人で取るようになっていた。
誰かにこの蟠りを吐き出してしまいたいものだが、あのカネフェルが兄に止められているのであれば、蟠りも聞きたい答えも、もう誰に何を言っても得られない気がした。
兄が干渉できない唯一の存在は父だ。昔なら父に気兼ねなく話すことが出来たが、体調を崩してからは父に心配事はかけられなかった。
兄が代理を勤めなければならないほどになったのだ。仕方のない事だった。
食事を終えると、今日は何をして時間を過ごしたものかと立ち上がった。
誰かに弓や剣の相手を頼もうとも、兄との時のような張り合いがない。強者を呼びたくとも、今はどこかに駆り出されてしまい王宮内にいなかった。
そんなつまらないことをしているくらいなら、父の側室たちのところへ遊びに行ってしまおうかとも考える。
──いや。
ふと立ち止まり、首を横に振った。
側室の本来の意味を考えたら、父の側室のもとにその息子が遊びにいくべきではない。
幼い頃、父にそれが許されたのは、実母を知る人々がいたからだ。母のことを聞けるよう、母を知らない我が子を哀れみ、愛しみ、そうしてくれたのだ。最早幼子ではない自分が、暇つぶしに行って良いところではない。
行く宛も無く廊下を歩いていたら、背後の兵が小さく声を発した。大勢の気配を感じて顔を上げると、大勢の塊がこちらに向かって歩いてきているのが見える。その先頭を行く姿に息を呑む。自ずと身体に力が入った。
兄だ。ナルメルやカネフェル、他の大臣十人ほどを背中に連れだって向かいから歩いてきている。今は体調を崩した父の代理を立派にこなしている、優秀な、偉大なる我が兄。
以前は共に弓を持ち、馬に跨り狩りに出かけたと言うのに、いつの間にこれほどまでに会わなくなってしまったのか。
あれほど楽しかった日々が、これほどまでに遠いものになるなんて思いもしなかった。遠い過去があまりに虚しい。兄上、兄上、と繰り返し呼んでいた幼き日の自分が、憎たらしくさえ思えてしまう。
兄の理想の土台にいたいという気持ちは今も変わらない。人間として兄を越えたい気持ちはあるが、兄と共にその理想を追えればいいと願っていた。
だというのに、兄はそこから俺を弾きだしたのだ。越えることはおろか、共にという道さえ絶ってしまった。この理由さえ教えてくれない。それが憎かった。
「元気そうだな」
目の前に来ると、変らぬ表情で兄は笑った。よくよく見れば疲労の色が見え隠れしている。
「調子はどうだ。カネフェルから色々と聞いたが、カネフェルを困らせることはするな」
カネフェルの心配そうな表情が兄の肩越しに見える。ナルメルは澄ました顔で王家の兄弟の様子を眺めていた。
「外へ行く」
長くとも思えた沈黙の後に自分の口から発せられたのは、兄の問いかけへの答えではなかった。兄の顔に湛えられていた微笑が一瞬にしてなくなる。
「駄目だ」
兄の傍を通り過ぎようとした俺の肩を、兄が掴んだ。
「離せ。何を言われようと、俺は行く」
何故こんなにも自信過剰なことを言えるのか、自分でも不思議なくらいだった。
兄に逆らいたくてどうしようもない。確かに外には出たかったが、逆らってまで叶える欲求でもないというのに、兄が一番禁じることをしたくて堪らなくなった。
「危険だ」
「危険?」
鼻で嗤って、肩にあった兄の手を振り払い、身体を相手に向けて相手を見上げた。
「父上の治められる国であるのに?自分が一番誇りだのなんだの弟に教えたことを忘れたか。父の治められる国が、どうして危険になる」
「トゥト・アンク」
兄は一層顔を顰め、声を低めた。
「それが兄に物を言う態度か」
以前は無理にでも俺を外へと連れだした兄が、こうやって駄目だと一点張りになる。
「知らぬ」
兄は俺の様子に少し驚いたような顔をしたが、すぐに目を細めた。
「何も教えてくれぬ、兄弟であるというのに、何も話してくれぬではないか。何が兄だ」
もういい。出て行ってやろう。この宮殿を飛び出してやろう。
駄目だと言い続けるものを破ってやる。
「アンク!!」
兄に精一杯の睨みを聞かせて地を蹴った瞬間、兄の声が俺を呼んだ。
姉の呼び声に良く似ていた。
そこからはもう勢いだった。
口にした以上、それを実行しない道は無い。
後ろに控えていた兵も、追いかけてくる兵たちをも振り抜き、宮殿中を走り回って追手を巻くと、そのまま馬の世話場に向かった。
この時間帯では人も少ない。馬の世話人が数人、そして一頭の立派な馬を表に出そうとする兵の姿があった。
「王子」
カーメスについていた兵の一人だ。
名は知らなくとも、顔は知っている。カーメスが一時的に実家に帰ってからどこに行ったのかと思っていたが、ここにいたのか。
「その馬を貸せ!」
馬の手綱を掴んでいた兵は目を瞬かせて俺を見る。
王子の命に逆らう訳にも行かず、それでも馬を貸すことを躊躇い、一瞬宙に視線を彷徨わせた。
「王子、ご命令とあらばお出ししたいのですが、こちらは兄君の御馬。私がカーメス殿から頼まれたもので御座います。兄君以外の御方を……」
「構わぬ」
兄のものであるなど一目瞭然だ。だからこそこの馬を選んだ。丁度の前に来たのは運が良い。
「その馬で行く」
乱暴に兵を押しやって、素早く馬に跨った。
馬に乗る際の自分の身体は翼が生えたかのような軽さを覚えた。
「上着は無いか」
さすがにこのままの姿では出られない。
身体をぐるりと包めるような、出来れば黒いものを、と探していると、兵が自分の上着を腕にかけていた。問答無用でそれを取って、素早く身につける。
「どこへ行かれるのです」
「この壁の外へ」
外に行ける興奮がどこからともなく湧き上がり、それを抑え込もうと深く息をついてから、己が跨る馬を見回す。
兄のために用意された馬ということもあって、準備はすべて整えられ、用心のための弓矢も備え付けられている。狩りに行くには少々少ない気もしたが、自分の腕を思えば困る本数でもない。十分だ。
「まさかお一人なのですか」
なんということだと顔を真っ青にさせる兵は、周りを見回した。誰かいないかと探しているようだった。
「兄君はこれをお許しになられたのですか」
「案ずるな。お前に非はない。兄も、俺がこういう性格であることは知っている。咎は下らぬ」
「そういう問題では御座いませぬ」
他に兵を呼ばれたら厄介だ。
俺を連れ戻せという兄の命を受けた兵たちに追いつかれる前に、ここを出てやらなければ。
遠くから声が聞こえる。俺を探し、呼ぶ声に違いなかった。
「お一人でなど以ての外。私がお供致します。少々お待ちください」
「供は無用だ。出てくる」
相手が世話人たちに別の馬を用意させようとするのを振り切り、手綱を握り、馬を蹴った。
馬は宮殿と外を隔てる門に向かって走り出した。馬で駆けてくる俺に、止まる様子がないことを悟った門番たちは慌てて門を開く。こちらが止まらず、門に衝突して怪我を負わせることほど恐ろしいことはないのだ。
こうなることが分かっていたから速度を緩めることはせず、開いた門の間に滑り込んだ。
驚く顔たちを傍目に飛び出した外は、気持ちが良かった。これほどまでの清々しさを感じるのはいつぶりだろう。
兄に言い過ぎたかと若干の後悔を抱きつつも、父から聞かされた美しい地平線が頭の中に消えず、青い空と父の守ろうとする民の笑顔をこの目で直に見て見たい気持ちが徐々に勝っていった。
いつもなら色々と文句を言ったり、行動を制限したりする付き添いもいない。振り向いても、横を見ても自分だけ。
どこまでも自由だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます