夕陽を追いかけて

放射朗

第1話 


 お父さん、僕は今まで幸福でした。そしてこれからも幸せに生きていきます。

 それだけを書いた真っ白な便箋を、棺の中に横たわる父の白い着物の胸元に忍ばせた。


 正座をして線香に火を灯す。一本の白い煙が、僕と父との超えられない壁を示すようにまっすぐ上がっていった。


 父は僕を許さなかった。 死ぬまで、僕を拒否していた。


 僕の背中側から聞こえる言葉の中には僕をあからさまに非難する声もあったが、それらを無視して僕は手を合わせた。


 横須賀の店に父が現れてから、ちょうど一年が経っていた。

 あの頃も随分老けていたように感じたが、すでに死の病の前兆が身体を蝕んでいたという事なのだろうか。


「公彦、ちょっと手伝ってくれる?」

 目ににじむ涙を感じながら振り向くと、青白い顔をした母が無表情に立っていた。


 僕は小声で返事をして立ち上がった。

 黒い薄手のスカートの裾がふわりと揺れて、まき起こった風が滑らかだった線香の煙をばらばらに乱した。


 母も僕を恨んでいるのだろう。


 父を死に追いやったのは僕だと思ってるかもしれない。


 これ持っていって、と母は僕にイカの輪切りのから揚げがいくつかのった盆を差し出した。

 黒い漆塗りの盆に五つの皿がのせられている。

 それを母から受け取ると、親戚や父の知人達の待つ酒席に運んで、挨拶をしながら適当に並べた。


「やあ、公彦君か。話には聞いていたが随分美人になったな。おじさんは、君の生き方には賛成もしないが反対もせんぞ。まあ、誰でも好きなように生きる権利があるからな」

 母の弟に当たる雄介おじさんが、僕の手を引いて隣に座らせようとした。


 他人の好奇の目には慣れていても、親戚や知人達の前ではあまり目立ちたくなかった。

 でもむげに拒否するわけにもいかない。仕方なく紺色の分厚い座布団に正座した。


「ええ? この娘、公彦君なの? じゃあ清二さんの一人息子の……」

 始めてみる顔のおばさんだ。たぶん遠い親戚なんだろう。驚きの表情を隠そうともしない。


 白髪を染めてから日がたつのだろう。額の生え際が白くなりかけていた。頬が少したるんでいる。

 40代くらいの女だ。


「聞いてなかったのかい。高校卒業して女になったんだよ。清二さんも最初ずいぶん悩んでいたが最後は吹っ切れたようにしていたよ。公彦の幸せが一番だって言ってさ」

 聞かれたくない言葉が部屋の中に大音量で広がる。


 偏見を受けるのには慣れているが父の亡骸の横では言ってほしくない。


「でも、本当に女らしいわね。全然男に見えないわよ」

  二人の会話で他の関係の無い他人の視線が集まってくるのがわかった。


「何せ年季が入ってるからな。利佳子姉さんに聞いた話じゃ、高校を卒業する頃にはこの道に入ってたそうだから」

 短く刈った頭をなでながら、雄介おじさんは酒で赤くなった顔をにやけさせる。


 席を立つタイミングをはかって立ちあがろうとしたが、やはり無理やり手を引かれてまた座らされた。


「まあ、飲みなよ。久しぶりに会ったんじゃないか。ゆっくり話そう」


「そうよ、あなた今どこで働いてるの? 何か困った事でもあるんじゃないの」

 女もそう言いながら僕の隣に席を移してきた。

 雄介おじさんと女にはさまれる形になってしまった。


「いえ、別に困ってなんかいませんから」

 答えながらも進められた日本酒を一口飲み込んだ。


 喉から大手メーカーのまずい酒が滑り落ちていく。

 胃の中にろうそくの火みたいな小さな火が燃え出した。


「でも、何でまた、女になろうと思ったの?」

 これまでに何度も聞かれてきた不躾な質問がまたここでも繰り返される。


 殺意に似た感情をもって女の胸元に視線を移す。

 金色の細いネックレスが紺のワンピースの襟元から覗いていた。


「理由なんかありません。おばさんが自分を女だと思ってるのと同じことだと思います」


「そんな事はないわよ。物事には道理とか理由というのがはっきりあるんだから。男に生まれたのが自然の摂理なら、それを外れるにはそれなりの道理がないとね」

 しつこい女だ。


 どうして他人の事なのに放っておいてくれないのだろう。


 あなたに何か迷惑かけましたか、と怒鳴ってやりたかった。

 しかし、この程度で切れていてはニューハーフはやってられない。


「普通思春期に何かあるのよね。こんな風になる子って」

 女は僕を素通りして雄介おじさんと話し始めた。


 僕はまずい日本酒をもう一口飲むと、女の言葉に反発を覚えながらも、あの夏休みの夕暮れ時のことを思い出してしまった。

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