第5話
「いつまでそこに居る気? 帰るお客様に御挨拶しなさい」
しゃがんでアルバムを眺めていた僕を、部屋のドアのところに立った母が見下ろしていた。
恥ずかしい思い出に浸っていた事がばれたかのように頬をほてらせて、僕は立ち上がる。
階段を下りて行くと、トイレから出てきた雄介おじさんが僕を見上げていた。
雄介おじさんの手が急に伸びてきて僕のスカートをめくり上げる。
突然の事に僕はどう反応していいかわからなかった。周囲には人はいない。
結局僕は止めてくださいの一言も言えずに横を逃げるように通り過ぎた。
「色っぽい下着だな。本物の女みたいだ」
少しろれつの回らなくなったおじさんの声に、ピシリという音が重なった。
振り向くと、母がおじさんと対峙しているのが見える。
頬を抑えて唖然としてるおじさん。そして、飲みすぎよという母の声が聞こえた。
翌日の火葬場に、辰夫が現れた。
白いレンガを積み上げたような建物の中庭で、父の骨を拾って骨壷に入れている時だった。
僕と母と雄介おじさんの三人で無言の作業を続けているとき、駐車場の方から歩いて来る辰夫を最初に見止めたのは母だった。
陰気だった顔つきが少し明るくなった。
「あら、辰夫君じゃないの。わざわざ来てくれたの」
辰夫はよく僕の家に出入りしていたから、母も辰夫のことはよく知っているのだ。
もちろん僕と辰夫の関係が、少し異常な友人関係だった事までは知らないが。
「すいません。昨夜行こうと思ってたんですけど、ちょっと仕事が終わらなくて……」
深々と辰夫は礼をした。そして骨を拾う箸を持って、灰の中から白いかけらを用心深く掬い上げて、光沢のある緑色の骨壷に丁寧に落とし込む作業に加わった。
辰夫は父を不幸にした張本人と考えても不思議ではないのだけれど、その時の僕にはそんな考えは浮かばなかった。
辰夫はただのきっかけに過ぎなかったのだ。
もともと僕の中に有った素質を、ほんの少し早く開花させたに過ぎない。
悪いのはやはり僕自身だ。
あらかた作業が終わってふと眼を上げると、辰夫が僕を見つめていた。
何か言われるかと思ったけど、辰夫は無言だ。
かえって気まずかった。
骨壷を持って帰る段になって、辰夫が母に言うのが聞こえた。
「公彦を借りてもいいですか?」
母は僕を見て、じゃあ送ってもらったら? 私達は先に帰ってるから。との言葉を残して、葬儀屋が用意した真っ黒い車に雄介おじさんと二人で乗り込んでいった。
「久しぶりだな」
はじめて辰夫が僕に向けて言葉を放った。高校を卒業してからずっと会っていなかった。
「こんな風になった僕を見るのは初めてなんだよね辰夫は。驚いた?」
辰夫の車に向かいながら駐車場を歩いているとき、風が吹いて髪が乱れた。
「ああ、きれいになったな。驚いた」
何の気負いも無い辰夫の言葉はむしろ僕をがっかりさせた。
自分の所為で一人の少年をこの道に追い込んだという自責の念なんかが少しはあるかと思っていたのに。
「辰夫は、彼女できたの?」
いるのが当然の年頃だけどあえて聞いてみた。
「いや。いないよ。あんまり興味湧かなくてさ。仕事も忙しいし、まあ乗れよ」
辰夫の車はマツダの赤いロードスターだった。二人乗りのオープンカーだ。
「しゃれたのに乗ってるんだね」
助手席に乗りながら、さてどこに連れて行かれるんだろうと思った。
場所は一箇所しか思い浮かばなかったけど。
山手のワインディングロードに辰夫は車を向ける。
タイヤが軽く泣く位のスピードで、ロードスターは軽快にコーナーを切り返して登っていく。
ハンドルをもった辰夫の左手が離れてカーオーディオのスイッチを入れると、走行音に負けない程度の音量で澄んだギターの前奏が流れ始めた。
「この曲知ってるか?」
かすれた男の声が憂いを含んだメロディーにあわせて歌いだす。
「スティングだね。フラジャイル。僕も好きな歌だ」
「鉄の刃で傷ついた俺の体から流れ出た血は夕陽に乾いていく。その血は翌日の雨に流されて跡も残らないが、俺の心に深くついた傷は消え去ることはない。そんな意味なんだよな」
辰夫の真意がわからなかったから、僕はふーんと気のない返事で答えた。
行く先は僕の考えていた通りのようだ。
所々に、植えてあるのか自生しているかわからないが桜の樹があって、早咲きのものはすでに五分咲きの状態だった。
日当たりの加減で変わってくるのだろう。
あの展望台の周囲にもたくさんの桜が植えてあったはずだ。
辰夫と二人でゴミ箱に隠れたときは夏だったから、桜の樹なんて意識もしなかったが、今頃はピンク色の粒粒をいくらかつけている頃だろう。
急に対向車がはみ出てきたりして、危ないシーンもあったが、辰夫のドライビングは確かだった。
余裕を充分にとって飛ばしているのがわかる。
時刻は三時を少し回っていた。夕暮れまではまだ二時間は有る。
あの日の夕暮れを再現しようとしているのだろうか。父の骨を拾ってきたばかりだというのに。
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