第8話


 父が僕を訪ねてきた翌日の事だ。殴られた所為ではなく、多分長い間雨の中を立っていた所為だと思うが、父は熱を出して僕のベッドで寝込んでいた。


 体温計の数字は三十八度三分となっていた。

 父の歳でこの熱はかなりまずい。僕は医者を呼ぶか迷いながら、とりあえずおかゆを作って、食後に解熱剤を飲ませる事にしていた。


 そこに訪ねてきたのがボブだった。

 彼は見舞い客に付き物のフルーツの入ったバスケットを持って、狭いドアから身を縮めるようにして中を窺っていた。


「お父さんの、お加減は、どうですか?」

 素人役者が台本でも読むような言葉使いで、腰を屈めた彼は僕を上目遣いに覗き込む。


 部屋に招き入れると、ベッドに寝込んでいる父を見つけたボブが大げさにオーマイゴッドと叫んだ。

 違うよ、風邪引いてるんだと僕が説明すると、ボブはバスケットをテーブルの上において、父のベッドに歩み寄った。


 額に手を当てたり、父の目を開かせて覗き込んだりしている。まるで医者のような振る舞いだった。

 すぐに医者に見せたほうがいい。ボブが英語で言う。


 ボブが言うには肺炎を起こしている可能性が高いという事だった。

 それならのんびりおかゆをこしらえている場合じゃない。

 僕が携帯電話を取り出して119にかけようとしていたら、ボブは父に話し掛けていた。


「しっかりしてください。すぐに救急車を呼びます。気を確かに持ってください」

 まるで死にかけているみたいだとおかしかったけど、そのときは本当に危なかったのだという事が病院についてみてわかった。


 肺炎から敗血症を起こす一歩手前だったのだ。


 病院のベッドは清潔な匂いをさせていたけど、四人部屋の他の患者からは病の鬱屈したような匂いが漂っていた。


 挨拶をしても返事をもらえたのは一人だけだった。

 女の格好をした僕を変な目で見る人はいなかったけど、ボブは見ないように目をそらしているようだ。


 ボブは気にしないようにしているが、その黒い肌の下では複雑な感情がどろどろと流れているように思えた。

 父に刺された点滴の液は、ゆっくりした時を刻むかのようにしずくを滴らせている。


「ボブ、ありがとう。もう行ってくれていいよ。後は見ているから」

 そう言う僕の小さな声に、父が反応した。


 微かに身じろぎをして目を開けた。

 父の目は最初焦点を結んでいなかったけど、すぐに僕と、その横に立つ大きな黒い山を見定めた。


「ボブって言うのか。あんた。公彦が世話になっているようだな」

 別に日本語が苦手なボブに気を使ってというわけではないだろうが、父の言葉は時間をかけてじわじわと出てきた。


「昨夜はすいませんでした。勘違いしてしまって」

 ボブが何度も頭を下げながら父に謝っている。


「おまえの恋人か?」

 ボブにではなく僕に父は聞いてきた。


 僕は黙って頷いた。


 ふと父が笑った。他にどうしようもないと思ったのかもしれない。泣く事も怒る事も場違いだ。

 そんな諦めの笑いに見えた。

 点滴の黄色い雫はゆっくりと時を刻んでいた。

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