残り香

安崎依代@1/31『絶華』発売決定!


 美咲ミサキさん、と。


 義姉の名前を初めて口にしたのは、兄の七回忌の席でのことだった。


 法事が始まる前。まだ仏間には僕と義姉しかいない。


 真夏の蒸し暑い座敷。その暑さを物ともせず、真っ黒な着物に身を包んで背筋を伸ばして座った義姉は、美しかった。


 初めて出会った時から、ずっと、ずっと。


 この女性ヒトは、いつだって、凛と美しい。


「もう、僕で手を打ちませんか」


 そんな義姉に向かって、僕は初めて手を伸ばす。


「なぜ、僕ではダメなのですか?」


 頬に添わせるように手を伸ばしても、義姉は身じろぎひとつしなかった。


 だが彼女が僕を受け入れたわけでないことは、彼女の瞳を見つめていれば分かる。


 しんと凪いだ、吸い込まれてしまいそうな深い漆黒の瞳。


 真っ直ぐに僕に据えられた瞳には、何の感情も宿っていない。そうでありながらその視線には、ありありと僕を拒絶する強さが宿っていた。


亮司りょうじと同じ顔で。同じ体で。同じ場所に暮らしていて。同じ飯を食って。同じ仕事をして。……もう僕も亮司も、同じようなものではありませんか」


 誰もが、僕と亮司を見間違えるのに。区別なんかついていないのに。


 見間違えてほしい唯一の人だけが、僕と亮司を見間違えてくれない。


「残り香が違うと美咲さんに言われてから、亮司と同じ煙草を吸い始めました」


 双子の兄の嫁。僕の初恋をさらっていった女性ヒト


 彼女だけが、出会った時から今まで、一度たりとも僕と亮司を見間違えなかった。


「もうきっと、纏う香りも一緒です」


 そしてきっとこれからも間違えることなどないのだろうと、これだけすがっていても分かってしまう。


「ねぇ。亮司の代わりでいいんです。僕に幻想を重ねてくれていいんです」


 ポツ、ポツ、と。畳の上に雫がこぼれていくのが分かった。


 それでも義姉は、眉ひとつ、視線のひとつ、動かしてはくれない。


「僕を選んではくれませんか」


 そんな義姉が唯一動かしたのは、まぶただった。


 ツイッと狭められた目が、揺れることなく、変わることなく僕を射抜く。


誠司せいじさん」


 紡がれる声は、凛と。


 初めて声を聞いた時から、変わることなく強く。


「それでもやはり、残り香が違うのです」


 式を挙げた翌日に夫を亡くした彼女は、六年の歳月が過ぎても変わることのない想いを口にした。


「亮司さんと同じ顔で。同じ体で。同じ場所に暮らしていて。同じ飯を食って。同じ仕事をして。同じ煙草を吸っていても」


 蒸し暑い座敷の暗がりで。たった一人、花に埋もれた仏壇を背にして。


 汗のひと粒も浮かべることはなく。まるで時に置き忘れたかのように。


あなたは亮司さんではないのですあなたの残り香は亮司さんとは違うのです


 六年経っても変わることのない静かな拒絶を、僕に突きつける。


 ……本当は、分かっていた。彼女のこの言葉がくつがえることなど、天地がひっくり返ってもあり得ないのだということを。


 それでも僕は、憎らしい。


 同じ顔で。同じ体で。同じ場所に暮らしていて。同じ飯を食って。同じ仕事をして。同じ煙草を吸っても同じにならない、亡き双子の兄の残り香が。


 僕は義姉の頬に片手を添わせたまま、ただ静かに泣いた。


 僕を静かに見つめ続ける義姉からは、この六年でその身に染み込んでしまった、線香の香りがくゆっていた。


【了】

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残り香 安崎依代@1/31『絶華』発売決定! @Iyo_Anzaki

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