1. コンコンコン

 大学三年生のころです。専門科目の授業数がぐっと増え、大学では授業と図書館での予習復習に朝から夕方まで時間を取られていたし、授業の後に週三でバイトを入れていたので、平日は家に帰ってくるのはたいてい夜遅くになってからでした。マンションにエレベータはありませんでしたが、健康な大学生男子には何の支障もありません。四階までひと息で駆け上がり、鍵を開けて家に入ると、シャワーを浴びて寝る。ときに缶ビールを飲みながらスマホを見たり、大学の図書館で終わらせられなかった課題の続きをやる、そんな毎日でした。


 その日も帰宅したのは夜十時半で、シャワーを浴びるともう十一時過ぎていました。

 部屋への扉を入ると約五畳のダイニングキッチンで、その左手に同じ広さの居間が隣接しています。ダイニングキッチンの右手壁沿いにアコーディオンカーテンがあり、その奥に洗濯機と小さな洗面台付きのバスルームがあるのですが、僕は洗顔や歯磨きはたいていキッチンで済ませていました。

 ダイニングキッチンでスマホを見ながら歯を磨き、シンクの前に立ったとき、壁の向こうから、コンコンコンというくぐもった音がきこえました。シンクに何か軽いものを打ち付けるような音です。ああ、お隣さんが生ごみをゴミ袋に落としてるんだな、すぐ気づきました。今まで上下左右に人が住んでいるなんて気にしたこともなかったので、お隣さんの存在感に僕はちょっと嬉しくなりました。会ったことも話したこともないのに、奇妙な親近感を感じました。


 そのコンコンコンは、決まって夜十一時過ぎに聞こえてきました。シンクの正面に立たないと聞こえないくらいかすかな音で、それはマンションですから、当然かもしれません。人寂しい夜に、静かに響いてくるコンコンコンは、不思議とぼくを慰めてくれました。


 久しぶりに何の予定もない日曜日、朝はのんびり起きて朝食を食べ、たまっていた洗濯や部屋の掃除をすると、昼飯を食べに行こうと部屋を出ました。部屋に鍵をかけるときに何気なく内廊下の右手に目をやりました。薄暗い廊下なので常に小さな灯りがついているのですが、その光を避けるように右隣の403号室の扉が見えました。扉のハンドルに何かかかっています。なぜだかそのとき気になって、目を凝らしました。それはガス栓と水道を閉じているという証明札でした。奇異に思い、扉の横にある電気メータを確認しました。ピクリとも動いていません。


 もう間違いありませんでした。隣にはだれも住んでいないのです。

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