最終話

 肘が何か固い物に当たる感覚があり、設楽は重いまぶたをこじ開けた。すぐ目の前にテーブルの脚が迫っている。


 昨晩、花火の後も伊良部と飲み続けた設楽は、そのまま伊良部の部屋で寝ていたらしい。ザルと言っても良いほど酒に強い伊良部とは違い、設楽はそれほど強くない。缶ビールとチューハイを一本ずつ、あとは水を飲んでいたはずだがその記憶も曖昧だ。尋常でなく速いペースの伊良部と一緒だったため飲み過ぎたらしい。吐き気がするほどではなかったが、頭はひどく痛む。


 床に手をつき、やっとの思いで立ち上がる。よろめきながら壁に手をついて洗面台へと辿り着く。ねばついた口の中を水でゆすぎ、顔を洗い、ようやく頭の中がクリアになってきた。手を振って水を飛ばし、顔を腕で拭いながらはたと気がつく。


「伊良部さん!」


 慌てて部屋を見回すも、伊良部の姿はそこになかった。そして空き缶やつまみの袋であふれ返っていた机や床も片づけられている。部屋の隅に置かれたごみ箱の中にはビニール袋すらなかった。


 その代わりに、机の上に白い封筒が置かれていることに気がついた。横書きで「設楽君へ」とだけ書かれた表面をそっと指で撫でる。風に流れる柳のような字は、何度も手伝いをさせられたときに見たものだ。逡巡したのち、設楽は封のされていないそれを開いた。


  *


 設楽君へ。君がこれを読んでいるということは、もう目が覚めているんだろうね。そしてその頃には僕はそこにいないだろう。悪く思わないでくれ。君に薬を飲ませたことも、君が眠っている間に僕が勝手に出て行ったことも。


 事の次第は全て君が推測した通りだ。揉み合った末に仙道を殺してしまってね。すぐに通報すれば良かったんだけど、どうしようかなあと思っていたところに水瀬さんがやって来た。とっさに隠れたから水瀬さんはそのことを知らないだろうけどね。


 僕が疑われるのは別に構わない。もとより逃げおおせるなんて考えていないよ。でも水瀬さんは別だ。警察は水瀬さんと仙道の繋がりに気がつくだろう。水瀬さんはまず間違いなく疑われるし、根掘り葉掘り尋ねられて傷つくかもしれない。


 そこで僕は水瀬さんを君に託すことにした。設楽君はこれまで僕の無茶ぶりにいつも応えてくれた。きっと今回もそうだろう。頭の回る君なら水瀬さんを救えるに違いない。優しい君なら彼女の味方になってくれるに違いない。そう思って設楽君を巻きこんだ。すまなかった。


 聡い君のことだから、最初から逃げも隠れもせずに通報して自首すれば良かったと言うかもしれない。僕だって逆の立場ならそう言うさ。でもね、設楽君、僕は殺人犯の立場になって初めて知った。人はそこまで合理的には動けないらしい。ときに矛盾した行動を取ってしまう。警察に任せておくべきだと言いながら、頭を巡らせた君も同じだろう?


 ねえ、設楽君。僕は君に糾弾されながらどんな気持ちだったと思う?


 半分は恐れだった。自分の悪事が露見してしまうという恐怖。君は僕のことを人でなしとみなしているところがあるけれど、僕だって血の通った人間なんだよ。


 そしてもう半分は安堵と解放感だった。水瀬さんへの疑いが晴れたことは当然だ。そして、心のどこかでどうせ引導を渡されるなら君が良かったと思っていたからかもしれない。君にはいろいろ無茶なことを頼んだけど、大家と住人という関係以上に、この数年間とても楽しかったからね。


 でも、それももう終わりだ。君は学部で卒業するみたいだし、僕は君の優しさに免じて自首しようと思う。


 君と楽しく過ごしている裏で、僕は親の会社の不正に加担させられていた。いや、責任転嫁は良くないな。気持ちはどうであれ、加担していたのは事実なんだから。


 伊良部不動産は多数の建築会社などから不正に資金を得ていたんだ。横領した金を表面上合法化するために、このアパート運営に資金を投入していた。いわば僕は資金洗浄と帳簿の誤魔化し役ってわけ。


 それを指示していたのが財務部の仙道だ。もちろんその上には僕の父もいる。でも父は家業を継ごうとしない僕に興味がないからね。都合の良い駒としか見ていないだろう。だから僕も無知を装って従い続けた。仙道と仲を深め、証拠を手に入れたところでいつか告発してやると思ってね。でも、いざデータを手に入れたところで仙道にバレたんだ。父親と違って、僕のことを警戒していたらしい。僕としたことが、抜かったね。


 あとは想像の通りだ。ナイフで脅され、抵抗したら殺されかけた。はっと気がついたときには、頭から血を流している仙道が倒れていて、僕は血まみれのゴルフクラブを手に持っていた。君は軽蔑するかもしれないけど、倒れた仙道を見下ろして、一瞬気持ち良かったことは白状するよ。君に託した手紙の中身は帳簿に関するデータだ。警察が調べれば、きっと上手くやってくれるだろう。


 設楽君、ひょっとして責任感じてる? だとしたら完全に筋違いだよ。君は警察を信用していないけど、彼らだって優秀だ。僕が殺したことくらい、ものの数日で突き止めただろう。そうなれば僕は仙道を殺したことだけじゃなく、知っている全てを話すつもりだったんだからね。


 ありがとう、設楽君。三年と数ヶ月このアパートに住んでくれて。ありがとう、設楽君。僕に勇気をくれて。


 同封した金は今回の報酬と、だいぶ遅くなった内定祝いだ。受け取ってほしい。


  *


 封筒には万札が数枚入っていた。設楽はそれを取り出してため息をつく。


「こんな依頼を受けた記憶はないんですけどね」


 声に出して呟くも、それに答える声はない。封筒の中に手紙を入れ、札束はテーブルの上に置いた。すると床に落ちていたスマートフォンが震える。


「はい、設楽です」


 設楽はスマホを耳にあて、努めて平静な声を出した。


「石塚だ。今ちょっと話せるか」

「ええ、どうぞ」


 設楽は立ち上がって窓へ歩み寄る。白い入道雲が設楽を睥睨するように立ち上っていた。

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花火の下で 藍﨑藍 @ravenclaw

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