第6話
大学付近のスーパーマーケットで買い出しをすませ、伊良部の部屋へと戻ったときには午後六時を回っていた。すでに交通規制が敷かれており、道幅いっぱいに人が広がって歩いている。
「遅かったね。待ちくたびれたよ」
キッチンをのぞくと伊良部は何やら料理をしているらしい。香ばしい匂いに、腹が空いていることを自覚させられる。腕まくりもせずにコンロの前で立ち、暑くはないのだろうか。
「いろいろあったんで」
「物騒なこともあるものだね」
仙道が死亡していたことは伊良部にもすでに伝え、預かった封筒も伊良部の了承を得て石塚に渡していた。
設楽は買ってきた酒缶やペットボトル飲料を冷蔵庫に入れていく。伊良部は存外料理好きとはいえ、一人暮らしの冷蔵庫はそれほど大きくない。二人分にしてはいささか多すぎるほどの飲み物であっという間にスペースが埋まる。入りきらない分はすぐに飲めば良いだろう。
「すまなかった。君は警察とは関わり合いたくないだろうに」
伊良部の言葉に設楽は動きを止めて目を伏せた。
「別に構いませんよ」
部屋のテーブルを挟むようにして、伊良部と向かい合って腰を下ろす。ビール缶のプルタブを引くと涼やかな音が弾ける。
「じゃあ設楽君、夏の夜に乾杯」
「乾杯」
銀色のアルミ缶同士を形ばかり当てると、ややくぐもった音がする。締め切った窓の外からはずんと腹に響く音が聞こえてきた。
「始まったね」
伊良部の呟きに外へ目をやると、昼と夜の混じった空に大きな花火が上がっていた。伊良部は一気にビールを飲み干して缶を握りつぶすと、酒に口をつけようとしない設楽を見て苦笑する。
「浮かない顔だね」
せめて表情くらいは取り繕おうとしていたが、上手くいかなかったらしい。飄々とした伊良部相手に腹の読み合いは分が悪い。設楽は意を決して顔を上げる。
「伊良部さんに聞きたいことがあります」
伊良部は目を細める。空に上がった花火で伊良部の顔が一瞬照らされた。
「現時点でわかっている内容を時系列に沿って整理していきましょう。七月二十七日深夜、水瀬は仙道の部屋を訪ねた。その際、彼女は仙道が部屋で倒れていることに気がついたと証言していました。怖くなった水瀬はそのまま逃走。良心の呵責に耐えかね、翌日に自ら打ち明けた」
順を追って話していると、曖昧だった考えが残酷なほど整理されていく。
「七月二十八日、午前九時過ぎ。俺は仙道の部屋を訪ねました。エントランスで呼び鈴を鳴らしたが返答はなし。他の住人とともに中へ入った俺は、仙道の部屋の鍵が開いていることに気がついた。そして居間の中央で仙道は頭から血を流して死んでいた」
伊良部は何も言わずに新しい缶を開け、外へ目をやっている。設楽の話を聞いているのかはわからなかったが構わず続けた。
「警察に通報した俺は、現場を一通り見ました。凶器はおそらくゴルフクラブ。被害者である仙道は居間に自分のゴルフクラブを並べていた。犯人はおそらくそれで殴り殺した」
設楽は見えない棒を握って振り下ろす真似をした。伊良部は腕で体を支えながらあぐらをかき、空いた手で缶を回している。設楽は伊良部の方を見たまま指を二本立てた。
「そこで俺が抱いた疑念が二つ。一つ目は撲殺という殺害方法について。女である水瀬が腕力に頼るような殺し方をするでしょうか」
そこで初めて伊良部は設楽を向き、少し眉を上げる。
「人間の衝動的な怒りっていうのは、ときとして絶大なパワーをもたらすことがあるよ。実際、女性でも可能だとは思う」
「仙道は大柄な男だった。そんな男の後頭部を狙うでしょうか」
「水瀬さんは仙道と距離を取りたかったから、リーチの長い凶器を選んだのかもしれない。被害者が倒れた瞬間を狙ったのかもしれない。そうすれば体格差は問題にならない。いや、殺意すらなかったという可能性もある。仙道が近づかないように手近にあったものを振り回していたところ、偶然頭に当たっただけかも」
伊良部は一気に言い終えると、疲れたように息を吐き出した。
「設楽君、君は自分が思っているよりも優しい人間だ。だから知り合いが殺人を犯したなんて信じたくないのかもしれないけど、君の疑念は水瀬さんが無実であるという証明にはならないよ」
伊良部は目を伏せる。設楽は伊良部の横顔を見ながら再度口を開いた。
「二つあると言ったでしょう。もう一つ、こちらの方がより直接的です。包丁について」
窓の外では相変わらず花火が上がり、電気を消したこの部屋も時折明るく照らし出される。薄暗い室内では伊良部の表情を見て取ることはできなかったが、設楽にとっては都合が良い。これは暗い室内でしかできない話だからだ。
「仙道の死体には、頭の傷以外に目立った外傷は見当たらなかった。つまり、仙道はゴルフクラブを用いて殺されたのであり、ナイフではない。ではなぜ包丁に血が付着していたのか」
口の中が乾いて仕方がなかったが、目の前にあるビールに口をつける気にはなれなかった。さっと視線を走らせると、伊良部が「取ってきなよ」とうなずいた。妙な察しの良さは今に始まったことではないが、さすがに今日はきまりが悪い。設楽の話が行き着く先も概ね予想しているだろうが、あえて話させるなんて意地が悪すぎる。
冷蔵庫から二リットルサイズのペットボトルのミネラルウォーターを取り出し、流しの横に伏せて置いてあったガラスコップを二つ掴む。伊良部にコップを一つ差し出すと、伊良部はそれをテーブルに置き、返事をするように酒缶をあおった。伊良部はとことん酒を飲むつもりらしい。
設楽がペットボトルの蓋を開けてコップに水を注ぐと、勢いよく水が跳ねた。一気に水を飲むと、喉から胃へと水の冷たさが移動していくにつれ、自分の体が火照っていたことに気がつく。
「俺はこう考えています。その包丁は犯人が使ったものじゃない。仙道が使ったんですよ」
伊良部は体の向きを変え、窓の方へ長い足を投げ出した。
「コンロの上には鍋が置いてありました。まな板の上には切りかけの野菜、シンクには野菜のヘタ。でも、そこにあるべきものがなかった」
「それが包丁だと?」
伊良部は彩られた夜空を見つめたまま聞き返す。
「おそらく部屋の中で犯人と仙道はひどく揉み合った。ソファーやテーブルは本来の場所から動き、部屋には物が散乱していた。しかし、キッチンは整然としていた。まるで、つい先ほどまで誰かが料理をしていたかのように。これが何を意味しているか。仙道と犯人はキッチンでは争わなかった。もっと言えば、仙道は犯人と争いになる前に包丁を手に持ったということになる。先に手を出したのはおそらく仙道でしょう」
設楽は唾を飲みこんで続ける。
「そう考えると鍵の件も説明がつく。犯人は部屋の鍵を使って仙道の部屋を密室にしなかったんじゃない。できなかったんです。内廊下を通って外へ出ようとすれば、必ずエントランスの監視カメラに引っかかる。部屋に入る姿が一度も映っていない人物が突然現れたとすれば、それは自白しているも同然でしょう。被害者である仙道こそが犯人を窓から招きいれたからです。カーテンや窓付近の血痕は、おそらく逃げようとした犯人のものでしょう」
その続きを口にするのは勇気が要った。もう、後戻りはできない。
「違いますか、伊良部さん」
設楽の静かな問いに、伊良部がゆっくりと顔を向ける。華やかな花火に伊良部の顔の左半分が照らし出された。伊良部は穏やかな笑顔を浮かべている。
「なぜそれを僕に?」
なおも白を切ろうとする伊良部を前に、設楽はちらりとベランダに目を向けた。予想していた通り、物干し竿には何もかかってはいない。さすがに血で汚れた衣服を干すようなことはしないだろう。
「伊良部さんが長袖のシャツを着ているからです」
伊良部の笑みが一層深まる。
「今日水瀬はノースリーブのワンピースを着ていました」
「よく覚えてるね」
「別に水瀬の服の趣味に興味はありません。重要なのは、彼女が手足のどこにもあざ一つなかったという点です。先に襲われたのは犯人だった。だが水瀬に傷はない。すなわち、水瀬は犯人ではない」
設楽はそう言い切って大きく息を吐き出す。伊良部は出来の悪い子供を諭すように口を開いた。
「でも、それは全て君の憶測だ。証拠などありはしない」
立ち上がった伊良部の肘を反射的に掴む。振り向いた伊良部は「何さ」と笑った。
「そうです。証拠の有無なんて、どうだっていい」「開き直るね、名探偵」「証拠を集めて真犯人を逮捕するなんて、警察の仕事でしょう」
自分でも強引だと感じる部分もある。だが元はと言えば、設楽が知り合いである水瀬の無実を信じたいがために始めた推論だ。
「君がそれを言うと、究極の皮肉に聞こえるね」
設楽は自分の横に落ちていたスーパーの袋から塩焼き鳥のトレーを取り出す。輪ゴムを外し、伊良部との間に黙って置いた。すぐさま手を伸ばそうとした伊良部を手で制する。
「伊良部さん。この部屋暑くないですか」
「なんだい、藪から棒に。今に始まったことじゃないだろう」
「この部屋のエアコンは壊れている。こんなに暑いのに、伊良部さんはどうして長袖を着ているんですか。それもそんな暑苦しい色のシャツを」
伊良部は猫のように細い目で笑みを浮かべたままだ。
「暑いんですから、脱いだらどうです? それとも伊良部さんには長袖のシャツを脱いだりまくったりできない理由でもあるんですか」
花火大会のクライマックスが始まったのだろう。花火が連続して打ち上げられ、夏の夜空は昼のように輝いている。一つ花が散っては、また二つの花が咲き誇る。
知らず知らずのうちに息を止めていた設楽が息苦しさを感じ始めた頃、伊良部は笑って言った。
「派手に転んでね。恥ずかしいから見せたくないんだよ」
「じゃあどうして伊良部さんは仙道に連絡しなかったんですか」
設楽の必死の追及に、伊良部は悲しそうに目尻を下げるだけだった。
「俺が仙道のもとへ向かうって連絡したんですよね。繋がらなかったなら俺に教えてくれてもいいでしょう。繋がらないと知っていた。返事がないとわかっていた。すでに仙道が死んでいると知っているなら、それは」
犯人以外あり得ない。設楽はその言葉を告げることができなかった。その代わりに口をついて出た言葉は笑いたくなるようなものだった。
「転んだことは本当で、ただ連絡し忘れただけなんだって言ってくださいよ!」
設楽が叫ぶように言うと、伊良部は初めて目を見開き、そしてすぐに目を伏せた。
伊良部は人を煙に巻くのが得意だが、嘘をつくのはそこまで上手くない。何年もともに過ごせば、彼が嘘を言っているかどうかは見分けられる。
「これは俺が自己満足で始めたゲームです。証拠も何もない。穴だらけの推測です。俺が水瀬を信じたくて始めたんだから、伊良部さんのことも疑いたくはないんです。だから、論破してくださいよ、伊良部さん」
懇願するように絞り出した設楽の声は震えていた。伊良部は安堵したように笑う。
「もうすぐ花火大会が終わる。まずは夏の風物詩を楽しもうじゃないか」
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