第5話
設楽は水瀬をアパートまで送り届けるつもりだったが、水瀬はそれを笑って断った。
「本当はこれから用事があるんでしょう?」
水瀬は疲れた表情を浮かべていたが幾分落ち着いたらしい。水瀬と店の前で別れ、設楽は忌々しいほど眩しい太陽をにらみつけた。
空には雲一つ見えなかった。天候が崩れることもなく、今晩の花火大会はつつがなく行われるだろう。伊良部から言いつけられた買い出しのことを忘れたわけではなかったが、設楽には今日どうしても行きたい場所があった。それほど時間はかからないので、今から向かっても問題ないはずだ。
炎天下を駅まで歩き、私鉄に乗りこむ。平日昼間とはいえ、それなりに乗客は多かった。ところどころ空席はあったが、設楽は扉にもたれかかる。
流れる景色は速かった。市街地から離れ、田畑や山の割合が次第に増えていくにつれ、乗客はまばらになっていく。電車の揺れに身を任せていると、かつて自分が暮らした地へと辿り着く。ここを訪れるのは一年に一回。毎年花火大会の日だけだ。
設楽が降り立った駅のホームには真新しい鮮赤色の自動販売機が置かれていた。古びた待合室もいつしか改装されていたらしい。見慣れない風景と、記憶に残る匂い。確実に進む時間の中で、設楽だけがいまだあの日に囚われている。
降り注ぐ蝉の声を受けながら駅から歩くこと二十分。頭を焼く暑さと目に入る汗に顔をしかめながら坂を上る。人気のない丘の上には墓石がずらりと並び、日光を反射し容赦なく設楽を突き刺した。何十、何百もの墓の脇を通り抜け、管理事務所の中をのぞくと、初老の男性が鬱陶しそうに顔を上げる。男は「午前中に来い」とでも言いたげな顔で、設楽に手桶と
*
設楽の父親が死んだのは十二年前のことだ。当時小学生だった設楽は今も明瞭に当時のことを覚えている。
事件が起きたのは七月二十八日。その日、設楽は両親とともに花火大会に行く予定だった。待てど暮らせど買い物に出かけた父が帰って来ない。母は何度も父に電話をかけていた。暇を持て余した設楽がテレビをつけると、そこには見覚えのある風景が映し出されていた。市内の飲食店でナイフや拳銃を持った男が暴れて立てこもっており、顔をこわばらせたリポーターが早口で状況を説明する。
「えー、新しい情報が入りました。カーテンの隙間から、男がナイフを拾い上げる瞬間が目撃され、現場には緊張が走ったとのことです。また情報が入り次第、お伝えします」
テレビを見た母はその場に携帯電話を取り落とした。破片が飛び散ったことをよく覚えている。母親の制止を振り切って設楽は家を飛び出した。
「父さんが中にいるかもしれないんだ!」
設楽は何とか現場に近づこうとしたが、規制線に立っていた警察官はいとも簡単に設楽を現場から引きはがす。
「君が不安になるのもわかる。だから安心して警察に任せてくれ」
「嫌だ!」
後から慌てて自転車で追ってきた母とともに帰宅しても、遠くで花火が上がる音が聞こえても、設楽の心は晴れなかった。悪い予感が頭から離れることはなく、長い時間が過ぎた。
血まみれになった父が現場から出てきたのは、日付も変わってからのことだ。連絡を受けた母と設楽が病院に駆けつけると、入口で待っていた警察官が石塚だった。石塚は黙って首を横に振り、深々と頭を下げた。
その場に居合わせた他の客の証言によると、正義感が強かった父は他の客を守るために勇敢に立ち向かったそうだ。父がナイフを拾い上げたのは、犯人から叩き落とした凶器を再び奪われないようにするためだったという。
不幸なことに、先に逃げ出してきた客が証言した「眼鏡をかけた中年の男」という条件に父は完璧に当てはまった。警官が突入したとき、眼鏡をかけていたのが父だけだったことも災いした。父が犯人と揉み合った際、犯人の眼鏡が割れたためだ。多くの警官は父を取り押さえるべく向かい、一人の警官が無防備にも真犯人に近づいた。父は周りを押しのけ、そして文字通り身を盾にしたのだという。
話を聞いた母は「あの人らしい」と力なく笑った。
「石塚さんたちは仕事をしただけのことです。主人も疑いが晴れて喜んでいると思います」
「設楽さんはこれをお持ちでした」
石塚は遺留品とともにビニール袋に入ったレジャーシートを差し出した。受け取った母はそれを見てはっと口をつぐむ。父は出かける前に押し入れからレジャーシートを出していた。穴が開いていることに気づいた父は「新しく買ってくる」と言っていた。
石塚は憔悴しきった母に手を伸ばそうとする。しかし設楽はそれを許さなかった。設楽が石塚の手を強く叩くと、石塚は信じられないといった表情で設楽を見下ろした。
「だって、あの日、父さんと一緒に花火を見るって約束してたんだよ! 僕との約束は絶対に守ってくれてたんだ! だから、そんなことするはずなかったんだ!」
力の限り叫んだ設楽の腕を掴み、母は泣きながら石塚から離れた。母に引きずられながら振り返ると、石塚は何も言い返さずただ目を伏せていた。
霊園の端にある蛇口を捻ると勢いよく水が出てくる。水というより湯に近い温度で、想像していたような涼を感じることはできなかった。汗まみれの腕や顔を洗ってから軽く振ると、周囲の砂利に水滴が飛ぶ。貸し出された手桶に水を張ると透明な水面が揺れた。
暑さで揺らめく石畳を歩く。広い霊園の中で、父の墓石を見つけることは容易かった。もう何度も来ているからだ。かつては母とともに訪れていたが、母が体調を崩してからは連れだって赴くことは大きく減った。大学に入ってから一人暮らしを始め、アルバイトを掛け持ちしているせいもあるだろう。いや、設楽自身が父について母と話すことを避けていると言ってもいい。
手に持っていた荷物を足元に置き、墓前で手を合わせて目を閉じる。
風が吹き、山が揺れる。遠くから聞こえるのは鳥の声だ。
「今年も花火大会の日が来たよ」
設楽の声に答える者は当然いない。目を開いた設楽はその場に屈みこみ、ショルダーバッグからビニール袋を取り出した。砂利の隙間から伸びる草を素手で引くと、小さな痛みが手のひらに走る。
「父さんも逃げれば良かったのに」
設楽は今朝見たマンションの構造と地図を思い浮かべる。表の通りから一階の住人の部屋は見えなかった。水瀬の聴取を待っている間に確認したところ、一階の部屋の窓の先は中庭になっていた。木々や花が咲き、小さな人工池までしつらえられている本格的なものだ。おそらく人目にはつきづらい。ましてや、多くの家がカーテンを閉める夜であればなおさらだ。監視カメラもなく、塀を乗り越えれば中庭を通じてマンションに出入りすること自体は可能だろう。窓を割るか、あるいは住人に窓を開けてもらえばの話だが。
実際、犯人は窓から逃げることができた。だがあの部屋には鍵もあった。それを使えば部屋の鍵を閉めることもできたはずだ。何か理由があるのだろうか。
設楽は頭を巡らせながら手桶と柄杓を手に取った。墓石はそれほど汚れていなかったが、柄杓を用いて上から水を何度もかける。つるりとした石の上を流れる水が眩しく光る。
あの日以来、設楽は警察を信用していない。警察だけでなく、周囲の人間を信じられずにいる。
当然ながらあの事件は大きく報道された。被害者の名前も報道され、珍しい苗字であるため設楽の血縁者であると周囲にもばれた。報道機関にも、近所に住む人間にも、クラスメートにも無神経に問い詰められた。設楽が荒れると、皆口をそろえて「ただ聞いただけなのに」「心配しているのに」と言う。純粋な好奇心という名の免罪符。弱った人間につけこむ同情心。それら全てが
感情を爆発させた設楽の代わりに母が頭を下げるたび、設楽は心が冷え切っていくのを感じていた。それ以来、設楽は他人と距離を置いて付き合うようになった。――ただ、伊良部だけを除いては。
設楽は酒に酔った勢いで、一度だけ伊良部に父親の話をしたことがある。設楽の話を聞いた伊良部は、ただ一言「ふうん」と返しただけだった。思い返せば、伊良部から妙な手伝いをさせられるようになったのは、それ以降のことだ。
墓前に供えるものを何も持ってこなかったことが悔やまれる。しおれた花をビニール袋に入れ、花立ての水をその場に捨てる。不格好だが仕方がない。設楽は再度手を合わせる。
かつて自分が子供だったことを差し引いても、父は頭の良い人間だった。少しの変化から物事の裏側まで見抜く人間だったと思う。父であれば今回の件はどうするだろうか。
水瀬百合が逮捕されようがされまいが、設楽には何の関係もない。同じアパートに住んでいるというだけで、特別親しいわけではない。そこまでする義理もない。石塚の言う通り、警察に任せておけば良いのだろう。あのマンションには監視カメラがある。令状を取れば携帯電話やパソコンの通信履歴等も洗い出せるはずだ。十二年前のような一分一秒を争うような事件ではなく、設楽が何もしなくともいずれ真実は明らかになるだろう。
これまでそうやって割り切って生きてきた。でも、設楽の頭から水瀬の顔が離れなかった。理由はわかりきっている。自分の過去の姿に似ているのだ。
誰からも信じてもらえず、孤立無援で、審判を待つことしかできない姿。助けを求めても誰からも振り向いてもらえない痛みを設楽は知っている。
信じてみても良いのではないだろうか。水瀬のことを。過去の自分を。そして、今の自分を。
今日の出来事を余すところなく全て思い返す。疑うためではなく、信じるために。
「俺は周りの人間を信じたかったんだな」
設楽の呟きは夏の空に吸いこまれて消えていった。
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