第4話

 水瀬百合の事情聴取はマンション内の別の共有スペースで行われたらしい。皮肉なほどに施設が充実したマンションだ。


 水瀬は設楽と同じ大学に通っており、学部は違うが同学年だ。そして何の縁か、彼女もリバーサイドベイラの住人である。廊下ですれ違えば挨拶くらいはするものの、それ以外で関わることはほとんどない。


 水瀬はその端麗な容姿で良くも悪くもとても目立つ。性別問わず誰かとともに行動している姿をほとんど見かけないため、その私生活は謎に包まれている。設楽が水瀬について知っていることといえば、アパートにやってくるどこぞの猫を水瀬が可愛がっていることくらいだ。


 お互い帰宅許可が下りたときには正午を大きく過ぎていた。どこからかぎつけてきたのか、マンションの下にはすでに報道陣が詰めかけていた。設楽と水瀬は警察に誘導され、マンションの住人のふりをして外に出る。


 駅の方角に足は向いていたが、行く当てがあったわけではない。小柄な水瀬と歩いていると、標準的な体格の設楽は自然と小幅で歩くことになる。水瀬は大きな麦わら帽子で顔を隠し、足元を見つめたまま何も言わない。白いノースリーブのワンピースからのぞく手足は傷ひとつ見当たらなかった。設楽はどことなく目のやり場に困り、慣れない歩調と沈黙の気まずさに耐えかねて苦しまぎれに声を絞り出した。


「災難だったな」


 水瀬はようやく設楽の存在を認識したかのように顔を上げた。呆れたようなその顔は青白い。


「よく落ち着いていられるね」

「まさか。動揺はしてるさ。目の前に自分より顔色の悪い人間がいるだけだ」


 軽口を叩いてみたものの、効果はなくただ無神経な発言になったらしい。これでは警察の人間と何一つ変わりはしない。とはいえ水瀬の顔色が悪いことは事実だった。いつ倒れてもおかしくなさそうだ。


「私のせいで、学内で変な噂立てられたらごめんね」


 弱々しい突然の謝罪に設楽は「はあ?」と眉をひそめる。


「だって周りが気になるからきょろきょろしてるんじゃないの?」


 なるほど、ありそうな話だ。だが見当違いも甚だしい。設楽が先ほどから周囲を見回していたのは、休めそうな手頃な場所を探していたからだった。ちょうど落ち着いた雰囲気の喫茶店が目に入る。店の前にはチョークで手書きしたメニューが立てかけられていた。


 設楽はその値段の高さに内心驚いていた。この値段で何日分の食事になるだろう。


 足を止めた設楽に合わせ、水瀬もしげしげとメニューを眺めていた。その紙のように白い横顔を見て設楽はため息をついた。


 水瀬に倒れられると、面倒を見なければならないのは必然的に設楽になる。そんなことは、まっぴらごめんだ。駅に近づけば安いファストフード店があることは知っていたが、落ち着いた場所の方が良いだろう。ガラス張りの店内をのぞくと、他に客はいなさそうだ。


 設楽は面倒くささを隠そうともせず、親指で店の扉を指し示した。


「喉乾いたから入ってもいいか」


 *


 水瀬は壁際のソファに座り、レモンスカッシュをストローでかき混ぜている。向かい合うように座った設楽はアイスコーヒーの苦みに顔をしかめていた。設楽が窓の外に目をやると、プールかばんを持った小学生が二人駆けていくのが見えた。


「設楽は何が聞きたいの」


 設楽が視線を戻すと、水瀬は結露したグラスをコースターの上に置いて設楽をにらみつけた。設楽は水瀬の強い視線に一瞬たじろぎ、今日何度目かわからないため息をつく。


「わざわざ事件に首を突っこむとは殊勝なことで」


 設楽が冷笑気味に言い放つも、水瀬は表情を動かさなかった。


「今さらとぼけないで。噂されているのは知ってるの」

「……何の話だよ」


 少し記憶を辿ったが、全く身に覚えがない。設楽がそう返答すると、水瀬は形の良い眉をわずかに寄せ、かろうじて聞き取れるほどの音量でつぶやいた。


「わたしと、あの男との関係」


 動揺を表に出さないよう意識したつもりだったが、水瀬の顔が悔しそうに歪められたのを見て、その試みが失敗に終わったことを悟る。「言うんじゃなかった」


 ときとして、表情は言葉より雄弁だ。常日頃から相手に弱みや感情を見せてはならないと意識はしているものの、いまだに上手くはないらしい。これまでに何度伊良部に「設楽君はすぐ顔に出るからね」と肩をすくめられたことか。


 脳裏に浮かんだ伊良部の顔に設楽が顔をしかめると、水瀬は設楽の意図を誤解したらしい。


「汚らわしいって思ったでしょう。わたしもそう思う」


 水瀬は開き直ったように笑うも、あまりにも自嘲的すぎる。設楽が答えあぐねていると、水瀬は腕を組んで背もたれに体を預けた。


「今なら何でも答えるけど」


 何でも答えるというよりは、水瀬は誰かに吐露したがっているようにも思われた。強がることで不安を隠しつつも、誰かに助けてほしいと心の中で叫んでいる姿には、吐き気がするほど既視感がある。


 設楽は嫌な記憶を飲みこむように、苦いコーヒーを一口吸いこんだ。


「水瀬は事件の何を知っているんだ」


 設楽がそう尋ねると、水瀬はほんの少し表情を緩めたように見えた。一瞬にして真顔に戻り、低い声で訥々とつとつと話し始める。


「昨晩わたしはあの男の部屋を訪ねた。そのときにはすでに、あの男は」


 水瀬は仙道との関係を終わらせるつもりだったこと。死体を見つけて通報せず逃げ出したこと。そして今朝、気になって仙道の家を見に行くと警察が来ているのを見つけたこと。


 水瀬は語り終えると大きく息を吐き出した。


「警察があの男の携帯を調べれば、わたしとの関係は一発でばれる。どうせわかることなんだから、自分から伝えておいた方がいいでしょう?」


 水瀬はあっけらかんと言い放ったが、その表情は暗い。


 はたして水瀬の話がどこまで本当なのかは疑わしい。設楽は水瀬が仙道の部屋を訪れた場面を想像する。水瀬は自分が死体を見つけたと言い張っているが、自作自演の可能性もある。普段から仙道の部屋に出入りしていた水瀬であれば、部屋に凶器となりうるゴルフクラブがあったことは知っていただろう。話を切り出した水瀬に仙道が逆上し、反撃のために衝動的に殺してしまった、という筋書きも容易に思いつく。


 そこまで考えたところで設楽は顔をしかめる。警察とは関わらないという己の信念がすでにぶれていることを自覚しつつ、設楽は水瀬に淡々と尋ねた。あくまでもこれは、水瀬の話を聞くための行為だと言い聞かせながら。


「水瀬が部屋に入ったとき、部屋は涼しかったか」


 設楽の唐突な質問に水瀬は訝しげに眉を寄せた。


「いきなり何? それが関係あるの」

「さあ。俺が部屋に入ったとき、エアコンがついているにもかかわらず窓は開いていて違和感があった」


 水瀬は記憶を辿るように宙を見つめる。しばらくした後、一度小さく、そして確信を持ったように大きくうなずいた。


「うん、クーラーは効いていたはず。とても寒かった」


 設楽は脳内で整理しながら質問を続ける。


「部屋の入口付近に鍵が落ちていた。あれは水瀬が持っていたものか」


 普通、合鍵は目のつく場所に置きはしない。鍵が二つあれば、片方は別の人物のものだと考える方が自然である。


 水瀬は驚いたように目を見開いた。


「そう。それを使って中に入った。……まさかそんなところに落としていたなんて」


 当然ながらその鍵も調べられるだろう。状況から判断するに、水瀬は限りなく黒に近い。警察が黒と言えば全てが黒になる。設楽は嫌というほどそのことを知っている。もしそうなれば設楽にできることは何もない。


 喉の渇きを感じてコーヒーを口に含む。氷が溶け始めているのか少し薄まっていた。半ば諦めの気持ちで、コーヒーをかき混ぜながら水瀬を見る。


「最後に一つだけ聞かせてくれ。水瀬がやったのか」


 水瀬はストローから口を離して動きを止める。何を、とは口にしなかったが設楽の言わんとすることは伝わったらしい。


「現状、わたしが一番疑われていることは知ってる」「そういうことじゃない」


 設楽の返答に水瀬は目を伏せた。


「設楽は伊良部さんに頼まれてはいろいろやっているんでしょう。それこそ探偵の真似事みたいなことも」

「心外だ。ただの割の良いバイトだよ」


 設楽が間髪入れずに訂正すると、水瀬は目を細める。


「わたしも同じ。何かを差し出し、その対価として金を受け取る。設楽は技術や労働力を売った。私は体を売った。何も変わらない、至極当たり前のこと。ビジネスライクな関係ってそういうことだと思う」


 どこか突き放したような冷ややかな物言いは、湧き上がる激情を抑えているようにも感じられた。少し迷った後に口を開く。


「うなずかなくていい。俺の質問に対し、肯定ならただ目を閉じるだけでいい」


 設楽の提案に水瀬はうなずく。「わかった」


「水瀬は仙道が恐ろしかった」


 彼女は静かに目を閉じて開く。


「水瀬は仙道を憎んでいた」


 彼女は強く目をつむる。


 設楽は一呼吸置いてから口を開く。黒くまとわりつく感情をはねのけるように、静かにはっきりと問う。


「水瀬は……仙道を殺したかった」


 ぐっと音がしたのは気のせいだっただろうか。水瀬は堪えきれなくなったのか、両手で顔を覆った。設楽は何も言わずに無意味にコーヒーをかき混ぜ、水面にできる渦を見つめる。そうすれば水瀬を見なくてすむからだ。自分だったら、泣く姿なんぞ誰にも見られたくはない。ましてや、常に虚勢を張りながら生きている人間であればなおさらだ。


 しばらくして顔を上げた水瀬の目元は赤かった。しかし、設楽を見つめる水瀬の視線は覚悟を決めたようにまっすぐだった。


「信じてもらえるとは思ってない。それでもわたしはやってない。……設楽は、どう思う」

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