第3話
高級なマンションには共有のラウンジスペースが存在する、ということを設楽は初めて知った。体を包みこむソファは柔らかすぎて居心地が悪い。ガラス張りの窓からは市街地が一望でき、雲一つない青空に遠く山の稜線が見える。光沢のある木製テーブルの脚は太く、重厚感を醸し出していた。部屋の端にはコーヒーマシンや自動販売機が置かれており、住人であれば自由に使用できるのだろう。重苦しい空気の中、設楽は手渡されたペットボトルの茶をあおった。
「君とまさかこんなところで再会するなんてな」
歯切れの悪い言葉に対し、設楽はペットボトルのふたを閉めながら正面に座る男を見る。嫌悪を隠すことなく設楽は吐き捨てた。
「それは嫌味ですか」
苦しげに眉を寄せた男――
*
仙道の顔を知らなかった設楽だが、うつ伏せに倒れた男を見つけ呆然としていたのは一瞬だった。
一目見たときから息がないことは予想していたが、その場にしゃがみこんで男の手首に指を当てる。自分でも呆れるほど冷静に一一〇通報すると、設楽のあまりにも落ち着いた様子に悪戯だと扱われそうになった。
やはり警察は何も変わっていない。反吐が出るほど嫌いな存在に対し、怒鳴るように大声を出すと、警察は初めて事の深刻さを感じとったらしい。「数分で向かう」という返答を得るとすぐ、設楽はぶつりと通話を終わらせて立ち上がった。
怒りに任せて扉を蹴飛ばしたくなる衝動をこらえて死体を再度見下ろした。
倒れていた男は一見してわかるほど大柄だった。正確にはわからないが、一八〇センチ近くある伊良部と同じくらいに見える。ただ、この男の方が筋肉質な分、より大きく感じられた。
後頭部には血液が黒く凝固しており、首から肩、背中にかけても血で汚れている。遺体のそばに落ちていたのはゴルフクラブだ。銀色に輝くヘッドに血が付着しており、男はこれで撲殺されたのだろう。頭の傷以外には目立った外傷は見当たらなかった。他人よりも感情が欠けているという自覚はあるが、遺体を眺めつづけるのは気持ちの良いものではない。
このリビングルームはカウンターを介し、入口手前に位置するキッチンと繋がっている。キッチン側にはダイニングテーブルと向かい合うように二脚の椅子が置いてある。手前では食事や仕事、薄型テレビが壁に埋め込まれた奥側でくつろぐという想定らしい。
奥にあるセンターテーブルやソファはあらぬ方向を向いていた。床のあとから察するに、ひどく揉み合った際に動いたのだろう。壁際に置かれたゴルフクラブスタンドには、色や長さの異なるクラブが十二本立てられており、手前の一ヶ所だけスペースが空いていた。棚の上にあったと思しき置物は床に散乱している。倒れたサイドテーブルの下には血の付着した包丁が落ちており、壁や床のあちこちには血飛沫が飛んでいる。その生々しい凄惨さには目を背けたくなる。
リビングスペースとは打って変わり、キッチンスペースは先刻まで誰かがここで料理をしていたかのように生活感にあふれていた。
キッチンの入口から順にシンク、作業台、そしてIHコンロが二口並ぶ配置になっている。コンロの上には鍋が置かれ、まな板の上には切りかけのズッキーニが散乱していた。銀光りするボウルには色とりどりの野菜が入っており、シンクの三角コーナーには野菜のヘタが捨てられている。磨き上げられたシンクには何も置かれておらず、設楽の顔を鏡のように映し出す。
息を吐き出した設楽はキッチンから部屋全体を見わたした。惨状と言うよりほかない。ふとその目が窓の前で止まる。部屋の一面が大開口窓になっており、カーテンが閉められているため外の様子は見えない。設楽は床に散らばった置物や血痕を踏まないように気をつけながら窓へと近づく。ベージュ色の分厚いカーテンとその手前の床がひどく血で汚れていた。
そこではっと気がつき部屋の隅を見上げると、想像通りエアコンの電源は入っているらしい。カーテンの隙間から目を凝らすと、ガラス戸が開いていることが確認できた。
遠くからパトカーのサイレンが近づいてくる音が聞こえて舌打ちする。部屋を荒らさないようにリビングを出ようとすると、扉のそばで何かが光った。身をかがめ、衝動的に伸ばしかけた手を握りこむ。床に落ちていたものは鍵だった。カウンター近くの床にも鍵が落ちており、そのどちらもエントランスで出会った母娘が持っていたものと同じデザインだ。
設楽は少し迷ったのちに首を振る。パトカーが数台マンションの前に止まり、数名の警官が中へ入ってくる姿を想像する。物々しい雰囲気に、通行人は遠巻きにそれを眺めるかもしれない。だが所詮他人事だ。対岸の火事の前で、多くの人間は何もしない。警察に関わり合いになろうとする人間がいるとすれば、それはただの野次馬か自己顕示欲が強い人間だろう。設楽はそのことをよく知っている。
*
警察が到着するとすぐ、設楽は現場から離れるように言われてこのラウンジへと連行された。令状もない今はあくまでも任意の事情聴取とのことだが、実質取り調べだ。
設楽が面識のない仙道のもとを訪れ、遺体を発見するまでの流れを話しおえると、石塚は少し黙りこんだ。
「部屋の中で死んでいた男はやっぱり仙道だったんですか」
設楽が無愛想に尋ねると、石塚は苦々しい表情のままうなずく。
「仙道雅彦。四十六歳。あの部屋の住人であることはすぐに判明した」
「身元が割れるのが早いですね」
「それは嫌味か?」
眉を吊り上げた石塚は、口元だけで笑う設楽を見てため息をつく。
「マル害……被害者が身元を示す物を身につけていたからだ」
「被害者ってことはやはり他殺なんですね」
間髪入れずに切りこんだ設楽に対し、石塚は顔をしかめる。
「やはりっておまえさんな。現場をしっかり見たんだな」
今度は設楽が舌打ちする番だった。石塚に話す際、部屋の中を軽く検分したことについてはあえて触れなかったのだ。遺体を見つけた時点で、無断で住居侵入したことは明らかだが、可能な限り伏せておきたい話ではあった。
「文也君が仙道の部屋を訪れた理由は」
状況だけを見れば、第一発見者である設楽は重要な容疑者である。設楽は自分が無実であることを知っているが、疑われて良い気はしない。警察に不信感を抱いているのでなおさらだ。
隠し立てするようなことはないため手短に説明する。持参した封筒をボディバッグから取り出すと、石塚はうなずいた。
「なるほどな。筋は通っている」
石塚がそれに手を伸ばそうとしたのを見て、設楽は即座に封筒をかばんに戻す。またしても顔を歪めた石塚に対し、設楽は冷笑することでそれに応えた。
「仮にも他人から預かったものですよ。俺も中身は見ていません。どうするかは伊良部さんに連絡してから決めます」
石塚の苦々しい表情に形勢が逆転したことを見てとり、設楽は一歩踏みこんだ。
「撲殺、ですか」
「捜査情報を漏らせるわけがないだろう」
石塚は鼻を鳴らす。設楽は少し前に体をかがめ、膝の上に肘をのせて指を組む。目だけを動かし、石塚の顔を下からのぞきこむようにしながら静かに尋ねる。
「凶器はゴルフクラブで間違いないですか」
石塚は胸ポケットから煙草を取り出す。口にくわえた煙草にライターで火をつけようとしたところで、天井のスプリンクラーの存在に気がついたのか舌打ちをして箱の中に戻す。石塚は額のしわを一層深めて言った。
「たぶんな。鑑識に回しているのでそうと決まったわけじゃない」
「ナイフはどうなんです。遺体には」
重ねて尋ねようとすると、石塚は「あのなあ」と遮った。
「そういうことは俺たちに任せておけ。お父さんだって、おまえさんがそんなことに首を突っこむことを望んではいないだろうさ」
石塚のたしなめるような物言いに頭に血が上る。怒りに駆られ、机を手で叩いて立ち上がる。テーブルを挟んでいなければ、石塚に食ってかかっていただろう。
「おまえさんが俺たちのことを一ミリも信用していないのはよくわかっている。でもな、文也君を巻きこむわけにはいかねえんだ。おまえさんは一般市民だ」
石塚は設楽を怒鳴りつけることはしなかった。むしろ、静かに諭すような言い方に設楽は舌打ちするよりほかなかった。
「それは……警察として、ということですか」
「もちろん、それもある。でも、おまえさんが設楽さんの息子だからでもある。あの人に顔向けできねえからな」
「俺が殺したようなもんだからな」という石塚の呟きを、設楽は聞こえなかったふりをする。
何を今さら都合の良いことを。 おまえたちは一般市民を守れなかったくせに。 おまえたちは何かあってからしか動かないくせに。
設楽が思いつく限りの罵詈雑言を浴びせようとしたところ、ラウンジの扉が開いた。若い警察官が慌てた様子で中へ入ってくる。設楽の存在が気にかかったのか、一瞬視線を向けられた。
「係長、事件について証言したいことがあるという人物が来ています。どうしますか」
「誰なんだ、それは」
「水瀬百合という女子大生です」
居心地の悪い設楽は窓の外を見ていたが、思いがけない名前に振り返った。「水瀬?」
石塚たちの視線が設楽に集まった。
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