第2話

 歩道の信号が青になるのを待ちながら、設楽したら文也ふみやは自転車のハンドルを指で叩く。大学に入学したタイミングで購入したので設楽が酷使したのはかれこれ三年と数ヶ月だが、元々中古だったこともありあちこち錆が浮いている。脇の街路樹からは蝉の鳴き声が降り注ぎ、白いTシャツの下は汗が滝のように流れていた。ようやく信号が変わったのを見て、太陽に目を細めながらペダルを踏みこむ。


 大学の前期試験は全て終わり二ヶ月もの長い夏休みが始まっていた。ゼミに顔を出さなければならない日もあるとはいえ、そこまで拘束時間は長くない。設楽は複数掛け持ちしているアルバイトに精を出す予定だった。早速の早朝バイトを終え、スマートフォンの電源を入れるまでは。


 おびただしいほどの着信履歴は、全てアパートの大家・伊良部いらべ邦久くにひさによるものだった。大家といっても、同じ大学の博士課程に所属する学生なので年はそう離れていない。伊良部の呼び出しに応じるのは端的に言って億劫だが、設楽は家賃を滞納しがちの身。逆らえるはずもなく、あれこれ手伝いを言いつけられるのはいつものことだ。


 午前中ながら気を失いそうになるほどの猛暑の中、自転車を飛ばすこと約十分。川のそばに立った古い鉄筋コンクリートのアパートこそ、設楽と伊良部が住まう『リバーサイドベイラ』だ。


 駐輪場に自転車を置き、目をつむっても歩けるほど勝手知ったアパートの中を突き進む。伊良部が住まうのはアパート最上階の五〇五号室だ。扉の横には音が鳴るだけの呼び鈴がついているが、以前から壊れている。伊良部は大家として住人の部屋の不具合は対応してくれるが、自分の部屋に関しては無頓着だ。修理したり交換したりする予定は今のところないらしい。


 設楽は相変わらずの呼び鈴を見てため息をつき、扉を拳で数回叩く。


「伊良部さん、来ましたよ」

「設楽君?」


 扉が開き、ひょろりとした長身の大家が胡散うさん臭い笑みをのぞかせる。清潔感はあるため世捨て人のような雰囲気はないものの、細い体躯や薄い顔立ちといい、その一挙手一投足はどこか仙人のように掴みどころがない。この暑い日に長袖の黒シャツを着ているなど、見ているだけで暑さ極まる。実際、伊良部も額に大粒の汗を浮かべていた。


「いい加減、エアコンも修理したらどうです」


 設楽は靴を脱ぎながら呆れて言った。伊良部が修理をしていないものは呼び鈴だけではない。部屋のエアコンもそうだ。


「あんた、そのうち熱中症でぶっ倒れますよ」


 伊良部は設楽の頭を手でわしゃわしゃと撫でて破顔する。設楽はその手を払いのけ、皮肉っぽいと自覚する表情で伊良部を見返した。


「エアコンを買う金と、入院費用を考えたときに、エアコン買う方が安上がりですよ」

「工事費用を含めればとんとんじゃないか?」

「健康な体をもってして、一日フルで働けばプラスになります」


 現金な設楽の物言いに伊良部は苦笑する。「座ってて」と言い残し、伊良部はキッチンへと消えていった。


 伊良部の部屋は物が少ない。ラグの上には背の低いテーブルと座布団が一つ。すだれのかかった窓の前には扇風機が置かれているが、冷たい風を感じることはない。隅にはベッドと本棚が置かれているだけだ。押し入れにもある程度収納しているのだろうが、設楽の部屋よりひと回り大きい程度の間取りなので、そこまで広いわけではない。まるで生活感がなさすぎる。


 伊良部は設楽が訪れる直前まで勉強をしていたらしい。テーブルには凶器になりそうなほど厚い本とノートが広げられている。ノートの上に置かれたシャープペンシルを見て、伊良部も同じ学生なのだと気がついた。学部生と院生ではあまりにも生活が違いすぎるからだ。


 設楽はラグに直接あぐらをかいて座る。Tシャツを指でつまんで風を送りこもうと試みたが、体の熱は一向に冷えなかった。直射日光が当たらないだけ、外よりはまだ良いだろう。


 キッチンから戻ってきた伊良部は左手に冷茶の入ったガラスコップ、右手には茶の入ったピッチャーを持っていた。設楽がグラスを受け取って一気に飲み干すと、体に水分が染みわたっていく。人心地ついたところでコップをテーブルに置くと、手のひらが結露した水で濡れていることに気がついた。設楽は自身のズボンに手をこすりつけてから伊良部に向きなおる。


「それで今日は何です? 真夏のクソ暑いときに草むしりだけはやめてくださいよ。さすがにもうこりごりです」


 アパートの共用部の掃除程度であれば構わない。データ整理や研究の手伝いをさせられることもある。面倒なのは伊良部以外の他の人間が絡むときだ。住人のトラブル対応や、どこから持ってくるのかわからないような面倒事。犯罪とまではいかなくとも、グレーゾーンに足を踏みいれることも少なくない。


 しかし、顔をしかめたくなるものほど時給も弾む。家賃の支払いが迫っている場合はほとんど手元に残らないこともあるが、設楽は都合のつく限り伊良部の仕事を手伝っている。


 設楽は伊良部の手からピッチャーを奪い取る。設楽がコップに二杯目の茶を注いでいると、伊良部は不思議そうな顔をした。


「何って、前々から言ってたじゃないか。今日は花火大会だろ」


 一瞬動きを止めた設楽を見て、伊良部はにやりと笑う。


「そういえばそうでしたね。こちとらテストで頭がいっぱいだったんですよ。伊良部さんはテストなんて関係ないでしょうけど」


 伊良部は設楽の精一杯の皮肉程度で動揺する男ではない。いけしゃあしゃあと肩をすくめてあしらわれる。


 毎年七月二十八日は隣接市との境界の河川敷で花火大会が行われる。元はと言えば市の何かしらの記念行事だったらしいが、もはやその意味は無いに等しい。両岸から多数の花火が打ち上げられる一大イベントとして毎年賑わいを見せている。規模もそれなりに大きく、市外からの観客も多い、らしい。


 らしい、というのは設楽が過去三年間一度も観客として参加していないからだ。大規模な花火大会ともなれば、当然その近辺の飲食店は稼ぎ時だ。設楽が働いている居酒屋では、花火大会の日は時給が上がるので毎年好んでシフトに入っていた。


 今年もその予定だったが、それに待ったをかけたのが伊良部だった。何でも、伊良部の部屋からは花火がよく見えるらしい。川沿いの納涼床ならぬ、納涼アパート。給料は飲食代と花火。渋る設楽を動かしたのは、「川沿いに設置される有料席よりよく見える」という伊良部の文句だった。


 設楽が首を横に倒すとごきりと関節が鳴った。テスト勉強とレポートで体は凝り固まっている。テスト明けの打ち上げのような解放感に心が躍らないと言えば嘘になる。


「買いに行けばいいんですよね。酒は……ビール、チューハイ、日本酒くらいですか。あとはソフドリとつまみ。焼き鳥は絶対に塩ですよね。他に何かご注文は」

「設楽君が欲しいものを買えばいいよ。あと、日本酒は要らない。家にたくさんあるからね」

「すみませんね、酒の味がわからない人間で」


 花火大会の時間が近づけば、この辺りも車両規制され観客でごった返すことは間違いない。個人的な都合で他に行きたい場所もある。外は灼熱地獄だができるだけ早く行った方が良いだろう。設楽が伸びをしながら立ち上がると、伊良部に呼び止められた。


「買い物ついでに、これ持って行ってくれない」


 設楽は手渡された白い封筒と伊良部の顔を見比べた。


「何ですか、これ」

「見たまんまさ。手紙。封書」

「そういうことを言っているんじゃありません」


 伊良部が相手を苛立たせるような言い方をするときは、触れられて欲しくない内容のときだ。煙に巻こうとしているのだ、とこれまでの経験から知ってはいるものの、毎度毎度してやられている。設楽が伊良部をじっとりと睨みつけると、伊良部は諦めたように息を吐き出した。


「親の仕事の関係で、ちょっとね」


 苦みをにじませた伊良部を見て、設楽は内心舌打ちしたくなる。


 伊良部の家は、この辺りでは有名な『伊良部不動産』を経営している。設楽たちの住むこのアパートが『リバーサイドベイラ』というふざけた名前なのも、おそらくそこに由来しているだろう。賃貸運営だけでなく、前市長と協働し駅前の再開発を主導した実績もある。地元住民からの信頼も厚い企業だ。


 だが大家である伊良部邦久は、どうやら家族との折り合いが悪いらしい。伊良部は自分の家のことに話が及ぶといつも言葉少なになるため、設楽が知っていることはそう多くない。はっきりと聞いたことはないが、博士課程に進学したのは家業を継げと言う父への反抗心からだと予想している。


 それについては設楽も深く踏みこむことはしなかった。設楽自身も自分の過去には触れられたくないため、一定の同情はできる。その方がお互い気楽な関係でいられると知っているからだ。


 設楽は伊良部への気まずさを吹き飛ばすようにからりと尋ねる。


「わかりました。誰に持って行けばいいんです」


 深入りはしないという設楽の意図が伝わったのか、伊良部はほっとしたように表情を緩める。


「本当に助かるよ。最近は暑くてたまらないからね」


 *


 気が遠くなりそうなほど暑い日に外を出歩く人間はまばらだった。あちこちで大きなカラーコーンを運んだり、貼り紙をしたりしている人がいるのは花火大会の準備だろう。


 設楽に指定された場所は駅近くの高級マンションだった。訪問先である仙道という人物は伊良部不動産の財務部に所属する人間らしい。設楽が逆立ちしても縁の無さそうなこのマンションから察するに、それなりに地位のある人間だと予想できる。


 瀟洒しょうしゃなエントランスにひるむことなく足を踏みいれる。部屋番号を押して呼び出すも、反応はなかった。


 それにしても、いかんせん暑すぎる。腕で額をこすると大粒の汗で腕が光った。どうせ短時間だと思い、タオルを持ってこなかったことが悔やまれる。


 ふと視線を感じて後ろを振り向くと、幼い女児の手を握った女性が立っていた。多くのマンション同様、訪問客は部屋番号を入力して住人に解錠してもらうのに対し、住人は集合器に鍵を差しこむことで解錠できる仕様になっている。彼女たちは設楽が陣取っていたせいで中へ入れなかったらしい。


 ファッションやブランドに明るくない設楽にはわからないが、女性の着ているジャケットやズボンはそれなりに値が張りそうだ。一方、白いTシャツに黒いハーフパンツ、グレーのボディバッグという設楽の格好は、このマンションにそぐわないことは明白だった。


 女性に眉をひそめられ、設楽は会釈しながら横にずれる。リボンで髪をまとめた女児は、設楽の方を振り返って下まぶたを指で押し下げた。女性にたしなめながら中へ消えていった後ろ姿を見送り、設楽は盛大に舌打ちする。


 伊良部から託された手紙は仙道に直接手渡すように言われている。設楽が伊良部の部屋を出る際、彼は仙道に連絡しておくと言っていた。つまり設楽が仙道の元を訪れることは了承されたものだと考えてよいだろう。


 勝手な理屈に納得しながら設楽が閉まりかけの扉に近づくと、自動扉はあっさりと開きはじめた。エレベーターを通り過ぎ、内廊下を進んで目的の部屋を探しあてる。表札が出ていたので間違いないはずだ。


 呼び鈴を鳴らすも、やはり返事はなかった。苛立ちが募って力任せに扉を引くと、想像していたような抵抗はない。予想外の軽さに目を見開いた。


 不幸なことに、昔から設楽の悪い予感はよく当たる。部屋に入った方が良いと設楽の第六感が告げていた。もし仙道が部屋にいるのであれば、無礼を詫び封筒を押しつけて退散すればよいだけだ。もとより面識はないので設楽にとって不都合はない。都合が悪いのは無礼な配達人を送りこんだ伊良部だけだ。


 設楽は大きく息を吸いこんで扉を開いた。

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