花火の下で

藍﨑藍

第1話

 大学へ続く大通りから外れると、辺りは一気に暗くなる。この辺りは街灯が少なくとても静かだ。がさりと何かが動く音がして、水瀬みなせ百合ゆりは慌てて後ろを振り返った。街灯に照らし出されたのは一匹の黒猫だ。塀から飛び降りる際、木の枝に当たって葉が音を立てたらしい。水瀬は胸を撫で下ろしたが、じっとこちらを見つめる金色の目はどこか不気味だ。


 盆地特有の湿った空気は肌に執拗にまとわりつく。汗でべたつく肌を不快に感じながら、水瀬は髪を耳にかけて人気ひとけのない細い道を進んでいく。


 駅へ近づくにつれ、立ち並ぶマンションはこぎれいに、一軒家は大きくなっていく。学生たちの住まう北のエリアと比べ、市の中心部である南へ下るにつれて家賃も上がるためだ。


 ご多分に漏れず、水瀬も大学の北側に住んでいる。そんな水瀬が夜更けに南下しているのはアルバイトのためだ。肩にかけたトートバッグの中にはほとんど何も入っていないが、ずっしりと重く感じられる。


 今晩こそ、ケリをつける。今日で全てを終わらせる。そのために、歯を食いしばって耐え、戦えるだけの証拠も手に入れた。


 駅にほど近い、一際目を引く大きなマンションが目的の場所だ。水瀬は周囲を用心深く見回しエントランスへと踏み入れた。床には灰白色のタイルが敷き詰められ、壁は一面大理石でできている。誰もが羨むような輝く建物も、水瀬にとっては嫌悪を搔き立てられるものだった。


 マンションはオートロック式で、カメラ付きの集合インターホンが設置されている。これまで何度も繰り返してきたはずなのに、ボタンを押す水瀬の指は震えていた。


 何も悪いことはしないのだから、堂々としていれば良い。部屋の主である仙道せんどう雅彦まさひこが応答するのを待ちながら、そう自分に言い聞かせる。


 水瀬がふと顔を上げると、天井の角に設置された監視カメラと目が合った。エントランスを出入りする人間はこのカメラに必ず捕捉される。終始監視されているというのは気分の良いものではなく、水瀬はついと視線を逸らせる。


 仙道が返事をしないことは珍しいことではない。表向きの仕事内容は家事代行業のため、水瀬は合鍵を渡されていた。それを使えば家の中に入ることは可能だが、毎回インターホンを鳴らすのは自分の心の準備をするためだ。相手の機嫌の如何はインターホン越しの声で予想がつく。返事もしない今日はどうやら風向きが良くないらしい。よりによって、水瀬が覚悟を決めた、今日に限って。


 これから起こるであろうことを想像し、水瀬は唇を強く引き結ぶ。手汗で湿った鍵を穴に差しこんで右に回すと、機械がうなる音とともに滑らかに扉がスライドした。


 仙道の部屋は一階にある。共用の内廊下を進むと水瀬のヒールの音がくぐもって響く。最奥で立ち止まった水瀬は腹に力をこめてインターホンに指を伸ばした。


「こんばんは。水瀬です」


 通常であればすぐに家主が顔を見せるはずだ。押し損なったかと思い、再度押してみる。


「仙道さん、こんばんは。水瀬です」


 水瀬の脳内で警鐘が鳴り響いた。何かがおかしい。仙道の機嫌が悪いときほど、間髪入れずに部屋に連れこまれ、ベッドに押し倒されるのが常だった。しかしいくら待てど仙道は姿を現さない。


 言いようもない不安が体を駆け上がっていく。鍵を開けて扉を引くと、あっけないほど簡単に隙間が生まれる。勢いよく全開にすると、玄関とそこから伸びる廊下の照明が即座に点灯した。靴を脱いで廊下を進むも、仙道を呼ぶ水瀬の声はか細くなっていく。そして廊下を進んだ先にある扉を開くと、それは倒れていた。 頭から血を流した仙道が目を見開いたまま固まっている。


 うつ伏せで倒れ顔を横に向けた彼がすでに絶命していることは、火を見るよりも明らかだった。


 声を出さなかったことは奇跡に近い。持っていた鍵を放り出し、とっさに両手で口を押さえたからだ。震える足に力を入れて後ずさり、そっと扉を開けて外に出る。


 周囲を気にする余裕もなく、マンションの外へ飛び出した。逃げるように外を走り、貧相な自室のドアを閉めると力が抜けた。震える膝を両腕で抱き強く目をつむる。それでもあの死体の姿は明瞭にまぶたに焼きついている。


 彼はなぜあそこで死んでいたのだろう。脅され体をもてあそばれ、殺したいほど憎んでいたが、いざ目の前で死んでいる姿には動転するより他なかった。


 何度も深呼吸を繰り返しているうちに、通報しなかったことに思いいたる。トートバッグからスマートフォンを取り出すも、震える指では指紋認証が失敗するばかりだった。やっとの思いでパスコードを入力し、電話をかけようとしたところで気がついた。


 今ここで通報すれば、確実に疑われるのは自分だろう。でも通報するべきだ。


 夜道を疾走したこともあり、混乱と葛藤が入り混じった水瀬の体は火照っている。立ち上がることもできず、水瀬の意識は深く沈みこんでいく。


 市内某所、学生の集うアパート『リバーサイドベイラ』にて。夜は静かに更けていく。

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