第42話 蜜月と変質

 打ち捨てられ朽ちかけた城であるはずなのに、深部に行くにつれてかつての居住空間などがしっかりと残っており、そこでルーヴェンは暮らしているようだった。古びてはいるが質のいい家具がそろえられ、暖炉はぱちぱちと薪が爆ぜている。室内は砂埃もなく清潔に保たれており、窓からは燃えるように咲くヒースの丘が一望できた。


「わあ……」


 雪の舞い散る荒野を見下ろし、エレナは息を呑んだ。歩いてきた荒野の最中にある町がぽつんと小さな点のように見える。よくもあそこからこの城まで歩いてきたものだと思う。半ば意地のようなものだったのかもしれない。


「気に入った?」

「ええ――とても!」


 エレナの反応を見てルーヴェンが微笑む。


 荒野にひっそりと建つ古城はエレナとルーヴェン、ふたりだけで完結した世界だった。

 大きな寝台の上で好きなだけまどろみ、気が向けば起きて、手を繋いで城の中を探検する。何をしていても飽きることはなく、日々は穏やかな川のように流れていった。次第にエレナは空腹を感じなくなっていたが、その代わりにふかく満たされた感覚が全身に行き渡っている。それを不思議と思いはすれど、まあいいかと思いつつあった。


「さあおいで」


 ルーヴェンが自らの影の中から呼び出したのは真っ黒な仔犬だった。眷属、といってルーヴェンの影からつくられた使役獣なのだという。すぐにエレナになつき、ぺろぺろと顔を舐めた。


「まあ。可愛いわね、ふふ」

「ねえエレナ――僕のことも構ってよ」


 じゃれつく仔犬を床において、ルーヴェンの金色の髪に触れてそっと撫でるとくすぐったそうな表情かおをした。


「どうしてかな。エレナに撫でられると嬉しいのに、胸がきゅっとする……」

「ルーヴェン……」


 ねえ、と甘く囁く声音で乞われてエレナは自ら手を差し出した。うやうやしくエレナの手を取ったルーヴェンはエレナのシャツの袖のボタンを外す。捲り上げると、真白い腕に頬擦りをする。つめたい唇が肌のうえを滑った。


「大好きだよエレナ」


 だから許してね、と囁いてルーヴェンはエレナの肌に牙を立てる。鈍い痛みがはしった。


「あ……」


 あふれてきた血を丁寧に赤い舌が舐めとるさまをエレナは目の当たりにした。首を噛まれるとよく見えないのに、こうして自分の目の前で行われるがいかに背徳的かを思い知って頭の芯がぐらりと揺れた。

 それでも熱心に血をすすり、吸い上げるさまは赤子にも似て――ルーヴェンのことをいっそう愛おしく感じてしまうのも事実だった。




 エレナが気が付いたのは、寝台を抜け出してひび割れた鏡を眺めたときだった。


 吹きすさぶ風は相変わらず冷たかったが、荒野にも春が訪れていた。つま先立ちでひんやりとした床の上を小走りで壁際のドレッサーまで歩き、大きな鏡に自らの姿を映す。


「……えっ?」


 くうん、と甘えたような声で黒い仔犬がエレナの足首にじゃれついてくる。それに構っていられないほどに、エレナの視線は鏡の中に釘付けになっていた。


 ――これは……鏡に映っているのは誰?


 まじまじと鏡を見つめ、茫然とした。

 地味とはいえど濃い暗色だったエレナの髪は、白銀に。

 そして瞳は濃い紅に。


 髪と目の色が変わっただけでここまで容姿が変貌するものなのか、と驚く。鏡に手を這わせ、エレナは変質した髪と目をなぞった。鏡の中にいる誰かを、紛れもない自分であることを確かめるように。


「エレナ」


 とす、と軽い衝撃が背中にあった。ぎゅっと腕を回され、抱きしめられる。強い力だった。ぎゅうぎゅうと骨が軋みそうなほどに。


「ルーヴェン、これは……何?」


 自分でも気づかないうちに声が震えていた。自らの身に起きた事象が信じられなかった。白銀の髪、紅の眸――これではまるでカーライルとおなじ……そこまで考えたときにハッとした。いままで意識的に考えないようにしてきたこと。


 ルーヴェンは【薔薇】で、エレナは彼のためにその身を捧げた贄にすぎないということを。自らこの城にやってきた時点で否定しようもない。自分は、カーライルではなくルーヴェンを選んだのだ。


「……これはね、エレナが僕のものだっていう証なんだよ」


 ルーヴェンは拘束を強めながら口にした。子供の力とは思えない腕の強さに身じろぎすることも出来なかった。


「ルーヴェン……」

「【薔薇】に血を与え続けるとね、身体が作り替えられていくんだ。視界にいないと不安になるし、片時も離れがたく感じるようになる――村では、余計な邪魔が入ったせいでそこまでエレナから血をもらえなかったから」


 ふいに力が緩まり、振り返るとルーヴェンは微笑わらっていた。まるで絵画に描かれた天使のように。


「これでずっと、エレナは僕と一緒だ。嬉しい? ずうっと、あの博物館にいた頃から見ていてくれたもの、嬉しいよね。エレナの視線は渇望していたから、こっちを見て、気付いて、って叫んでいた――それが僕も嬉しくて、心地が良かったよ」


 ルーヴェンはすっかり力の抜けてしまったエレナの身体を正面から抱きしめ、少し背伸びをした。いつのまにか、ルーヴェンとエレナの身長の差が近づいていたことに気付いた。


「大好きだよ、エレナ」


 つめたい唇が頬に触れ――唇に触れる。エレナはそれをじっと受け容れていた。

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薔薇と硝煙 鳴瀬憂 @u_naruse

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