第41話 古びた城

「……寒い」


 丘の上に立つゆうらりと大きな黒い影を見上げながらエレナはぼやいた。外套こそ纏ってはいるが雪が舞い散る中、荒野を横断するのは無茶だったかもしれない。かじかむ指に息を吐きかけながら考える。

 ヒースの荒野に建つ古城までは、町からかろうじて道のようなものが築かれてはいたのだが――歩いても歩いても一向に距離が縮まった感じがしなかった。目で見えるからと言って、近いわけではないという至極当たり前のことを思い知った。馬でも借りてくるべきだったのかもしれないが、あいにくエレナは乗馬に親しんではいない。


 戻ろうか、と後ろ向きな考えが頭をよぎる。


 いまからでも遅くはない、カーライルが待つ宿屋に戻って温かい部屋で手足を伸ばして休むことを思えば気持ちがぐらつきそうになった。そもそも当てつけのように飛び出してきたのだ、深い考えなどあるはずもなかった。

 吹きすさぶ風に揺れる赤いヒースが、城までの道しるべであるかのように城のある丘に向かって群生しているのが見える。なんとか己を奮い立たしてエレナは一歩ずつ足を進めていった。


 苦行ではあったものの、完全に足が凍てついてしまう前にエレナは黒い石造りの城の前に立った。

 廃墟、と聞いていたとおり打ち捨てられて手入れが施されていないのが一目でわかる。枯れた蔦が壁を這い、ところどころ壁面にはひびが見受けられた。壊れた門をまたいで、城壁の内側に足を踏み入れれば鬱蒼と植物が茂り、かつてそこにあったのだろう暮らしをふかく侵食していた。


「ルーヴェン?」


 この場所に本当にいるとも知れない少年の名を呼べば、虚ろな回廊に自分の声が響き渡る。砕けた石柱を避け、床の亀裂に躓かないように気を付けながらエレナは庭を抜け、崩落をしかけてはいたがかろうじて屋根のある城内へと入っていった。


 城の中は薄暗かったものの、大きな窓があるおかげで外の陽光が差し込んで白く溜まっているような場所がある。そこをめがけて慎重に歩いていくとぼろぼろにひきつれた深紅のカーテンがかかっているのが見えた。手で触れただけで引きちぎれてしまいそうだ。

 一歩一歩確かめるように奥へと進んでいくと、廊下の壁に埃をかぶった大きな絵画が掛けられていた。

 近づきすぎていたせいでよく見えなかったのだが、少し離れてみれば誰が書かれているのか一目瞭然だった。


「あ……」


 思わず息を呑んでいた。

 描かれていたのは城主と思われる人物で、眩い黄金の髪に澄んだ空の色を映した双眸を有する美男子だった。

 ただ明らかに絵の中の人物は成年をとうに過ぎており、貴族の夜会などに参加すれば女性たちの視線を釘付けにするのは間違いなかった。


 ――ルーヴェン。


 年齢こそ異なるが、エレナの知る「彼」の面影を絵の中の青年は有していた。



「ようこそエレナ」


 背後から甘い声音が響き、ハッと振り返る。

 そこに立っていたのは、エレナの「ルーヴェン」だった。危険な【薔薇】でもなく、この城の主人でもなく――ただ、あどけない笑みを浮かべた美しい少年だった。胸がどくどくと熱く鼓動する。焦がれていた存在を前にして、言葉を失ってしまう。自分から突き放しておいて、のこのこ会いに来てしまうなんて。エレナはなんて愚かな女に見えることだろう。


「っ、う……」


 それでもルーヴェンを前にすると、呼吸ができなくなるほど愛おしい気持ちがあふれてきて、目の奥がじんと痺れてしまう。力が抜け、座り込んだエレナの前にルーヴェンが立つ。まるで哀れな罪びとに赦しを与える宗教画の一場面のようでさえあった。


「いいんだよ、エレナ。エレナがこうして僕を選んでくれることは最初からわかっていたからね」


 背中に回された手が、温みのないひんやりとした掌がエレナを包んだ。堪えきれなくなった涙がこぼれると、ルーヴェンはそっと目元に唇を寄せた。そのつめたさにぞくりと背がしなる。

 体温を感じない肌。人間ではない――【薔薇】。


『アレは所詮、君のことを血の袋としか思っていない化物だ』


 カーライルの言葉が頭をよぎる。違う、と思いたいのにルーヴェンの眸には渇望が見えた。そしてその渇きの正体をエレナは知っている。

 探るように、じゃれつくようにルーヴェンがエレナの首筋にキスを落とす。それは単なる愛情の表現などではなく、血管の位置を確かめていることにも、エレナは気づいていた。

 愛しているから。


「エレナ……」


 欲望に滾った眼で乞われて、首を横に振ることなどいまの自分にはできやしなかった。ちく、と針で突かれたような点の痛みがじょじょに深い疼痛へと変わっていく。やがてそれが甘美な刺激へと変容していくことが怖かった。初めからこの行為を望んでいたのではないか、と錯覚してしまう。嫌なはずなのに、捧げることで自らの欲望までも暴かれてしまう気がした。


「大好きだよ」


 囁かれたこの言葉がたとえ偽りであったとしても、おそらくエレナは後悔はしないだろう。美しい薔薇に誘われた虫にすぎないとしても、捕食されるときでさえも甘い夢を見ていられる。

 そんなエレナを愚かだと、カーライルは嗤うだろうか。

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