光る鱗の味
@yuki0141
一
あの有明に眺めた朝日の眩さが、大分薄まったというのに、まだあなたに会いに行くことは叶いませんでした。たいへんに麗しゅう魚人を見せて下さるって、仰いましたのにね。だけれども、私あなたを恨んじゃいません。今になったってあなたに懐かしい愛情を抱くことがあって、昔のようではないけれど、あなたの美しかった表情の具合なんかも、思い出すことができます。ずっと若かった頃には、あなたと足並みが揃っているかばかりに気を取られていましたが、私とあなたじゃ向かう方角すらも違うことを知りました。いろんな味わいを経たけれど、私、今、幸せです。
一帯でも有数な名家の洞房に、足繁く通う青年がいた。
青年は、いつ見ても朝まだきの顔で蓬髪を結えており、極めつけに、無尽蔵な地主の安逸を貪り惚けたような、特有の堕落に駆られた顔の子だった。小脇に携えられたキャンヴァスが、黒布を引きずる。掲げられた燭台の灯りが襖に煌々と映し出され、白い面に散った砂子が優美に瞬いた。固唾と共に味わった暫時の寂寞が、襖を弾く音によって絶たれた時、娘の細い声が青年に降りかかった。
「お兄さま、どうぞ中にいらして、今は使いのものが外に出ているの。」
いらっしゃい、そう言って娘の犬歯を照らす控えめな微笑に、青年もどこか罰が悪そうなはにかみを返した。娘の手招きはまるで妖のような儚さを含んでいたが、青年は意にも介さず引き込まれていった。
お香の焚きしめられた少女の部屋は鏡台や文机が小綺麗に並べられており、放たれた格子の窓枠から吹かれた花弁が数枚、畳で頽れていた。そのあたりを数匹の猫たちが徘徊して、もったいらしい声を甘く溢している。青年はできる限り身を縮こめて、恭しい足取りで案内された通りの座椅子に、腰を下ろした。
「ご足労様です。件の物をお渡ししますね、どうぞ。」
そう言って娘は自身の懐で熱をもった巾着を差し出した。青年はその嚢中を漁って氷砂糖だけをつかみ取ると、娘の持つ燭台の火に掲げてみせる。氷砂糖を通じて畳に落ちる光芒の煌めきが、娘の心を擽った。
「今日君が美しさを見出したものは氷砂糖か。」
「ええ、甘いし素敵でしょう。今みたいにきらきらするのはもっと素敵……。日常には本の中のささやかな描写と似た魅力を持つ一瞬一瞬が多くあるでしょう。私はそれにひどく熱を上げていますの。」
娘はそう言って細い首を傾げてみせ、その縁になぞる髪を撓ませた。美しかった。
「お嬢さんは美しい方です。何より尊い物の見方をしてなさる。」
これは青年の本心であった。だが、彼自身は、しかしまあらしくないことを言ってしまったと、後悔していた。彼はもう暫くしたら、屋敷を去るつもりなのだ。その際、情は厄介な枷となる。
本家を訪れる前、青年は画家であった。しかし、生業とは到底名乗り難いほどの利鞘で残滓を種に露命を繋ぐ様な日々だったので、彼は自身の腹を満たすべく、親類を頼って本家の門を潜ったのだ。そしてこの絵画は、ここへ来て久しい青年が、飽食も籠城も極め尽くして暇になった故に、行き着いた産物であった。斯くて、この場にいることに、多少の罪悪感と、自身の僥倖を当たり前とする邪心を、青年は同等に持ち合わせていた。それ故、娘との関係が一段落し、調理場からくすねていた食料の蓄えが一山ばかりに昂ったら、身を引くべきと考えていたのだ。このままでは気が散ると思って、青年は後ろめたさを含んだ手付きで、甲斐甲斐しく、キャンヴァスに掛けられた布を捲り上げた。画中には魚人という妖が、蠱惑的な眼差しで活き活きとした姿を晒していた。青年は魚人の頸を指差した。
「ご覧になってください。昨日持ってきて下さった貝殻はここの色になりましたよ、どうでしょうか。」
青年が節くれだった指を魚人の輪郭に伝わせて訊ねた。その指先には無数の色が迸っており、昨晩も麗しい魚人に手を煩わされていたことが知れる。青年の問いかけに娘が返答した。
「本当ね、あの貝殻と同じ色をしている。気に入ったわ、とってもよ。」
娘が美しいものを渡すようになったのは、青年が魚人の鱗をどうも描くことが出来ずにいたという訳があった。青年は嚆矢がどうであろうとも、描かれる絵に自身の画家としての性分を発揮してしまうような、直向きな男だったのだ。そうして、いつからか魚人の尾鰭に、名状し難い妙なる鱗の重なりという想像を、並々ならぬこだわりで押し付け始めてしまった。そこに、現れたのが娘であった。元は自身に気があることを知った青年が、より良い恩沢を浴さんと近づいたのが始まりだったが、娘の方が上手で、彼の創作までもを呑んでしまったのだった。
二人で紡いだ色彩の数々を見つめて、娘は問うた。
「それよりね、私きちんとあなたの創作を手伝えているのかしら……。私、あなたにまだ美しい物というのを心から伝えられていない気がするの。」
青年が視線を落とすと、彼女の睫毛の震えを伺うことができた。
「お嬢さんは十分に私を助けてくださっていますよ。毎晩毎晩、素敵な鱗一片一片を準備して、私のことをまっていて下さる……。」
青年は内心慌てていたが、こともなげな顔をして、娘を宥めるように言った。
「ですけど、私が幾つ鱗の代わりを差し上げたって、鱗が描かれたことはまだないでしょう?それってあなたの中で納得がいってないってことの表れじゃない。」
「お嬢さん、この絵が完成しないというのは私たちの仲がずっと続くということでもあるんですよ。どうでしょう、さほど悪くはないでしょう?」
青年の提案に、娘はその俯いていた顔をあげて見せ、続けた。
「私もずっとこの絵を作り続けていたいわ。そしたらきっと、美しさの極限を見ることができると思うもの。」
下げられた娘の眉が、喜哀どちらを表しているのかなど、青年に解く術はなかった。
「そうか、嬉しいですね。あなたはこのキャンヴァスに画讃を連ねる人であって欲しいのです。」
青年は小粋に告げて、娘の赧顔を誘おうとした。そばで腰を下ろしている娘の顔を流し目で伺う。その様を面白くみたのか、娘は笑みをこぼし、彼の思いに答えたくて青年を見つめ
「それは嬉しい言葉です。」
とだけ残した。すると、我に返ったのか、青年の方が恥じらって見せ、古袷の袖を顔に引き寄せた。娘は青年の精悍な顔立ちの中に、仄かで頑是ない人としての美が保たれているのを、著く見て愛おしく思った。
とある春の有明、青年は自室から持ち出したキャンヴァスを手元に、回廊を進んでいた。
咲きそろう花圃の眺めが素晴らしく、心地の良い日和であった。この日、青年は屋敷を後にする思いでいた。しかし心は晴れやかで、切なさも悲しみも蓋の下に寝息さえすれど、その頭角を覗かせる素振りはなかった。女中の面々もまだ起きぬ静かな朝、辿り着いた娘の部屋を前に、少しばかり立ち休らう。青年はキャンヴァス上の色彩達を、在りし日の記憶と共になぞった。長嘆息を吐く。もう行こう、そう思った。
「これはあなたの物ですから。」
青年はそう言い残し、襖の袂にそっとキャンヴァスを立てかけた。踵を返す。
「お行きになるのですか。」
望んでいたようで、恐れていた者の声。自身の背後で、娘の声がした。青年は、定めていたはずの歩の行方を、喪失した思いになった。彼女は何処から戻ったのか、回廊の角で青年の前に憚った。青年は俄然瞠目した後、彼女の手に金品が握られているのを見て、実情を悟った。乾いた口を開く。
「お嬢さん……。申し訳ありません。私は行かねばならないのです。帰属という呪縛から、抜け出して、生きていたいのです。どうか、どうかお許しください。」
青年は泣いていた。どうしようもなく、自分に泣いていた。濡れそぼった頬を、これではいけないと思って拭う。娘は、確かな悲しみの湿りを孕んだ声で言った。
「何故……あなたがお泣きになるのですか?」
「わかりません、それは私さえも知り得ないのです。私は……、私が嫌いだ。」
朝靄に浮かぶ娘の白い顔、それが青年を覗いた。青年はそれを避けるように、木漏れ日でぬくい床にまろび込んだ。追って、娘もへたと床に落ちる。そうして襟元から覗ける青年の、背骨のなだらかさが、娘を恐怖させた。
ああ、これが生きる人。
私が彼の芸術の根幹を損なって仕舞えば、彼は本当に立てなくなるのだろう。
娘は何か決心したように、
「行ってしまって。私を置いていってしまって。」
と呟いた。そうして青年を床に残したまま、つと立ち上がり言い放った。
「ですがこれはいけませんよ。この絵までを置いていってはなりません、だってまだ完成していないでしょう。この絵を置いていくのだけは勘弁ですからね。」
娘は青年に立ち上がるよう促し、キャンヴァスを拾って、その手に握らせた。
「私、世界で最も美しく尊いのは、私自身だと思っていますの。ですからね、私の分身とも言える物をさしあげます。今まで、鱗の色ばかりに囚われて、眼中にはなかったのですけど、こちらです。」
そう告げる娘の顔は夜明けの暗がりにいっそう仄白く、憂いを帯びた伏目が見るものの不安を掻き立てるような、そんな危うさを醸していた。
「この万年筆には、私の名前が刻まれているのです。今まで大事にしてまいりました。これで絵を完成させてください。そうして、いつか創作の終わりを遂げて、その時には、私の元に、いらしてください。」
そう告げ、手渡された万年筆は、今まで差し出された数多のどれより、熱かった。
「きっと、またお嬢さんに会いに来ます。それまでの生という道のりで、私は決着をつけて、そうしてあなたに会いに来ます。私は私を許さなければならないのです。」
「私、私ずっと待っていますから。」
幼い口が吐露した言葉に、後ろ髪を惹かれることはなく、青年は行ってしまった。娘の茫漠とした眼に確かな翳りが落ちるのと対象に、青年の眼には日の出の煌めきが照り差して止まなかった。掌の温もりに匿われた硝子の万年筆と宛てもなく走る青年は、背後に娘の嗚咽を聞いて、勇み立つその歩みに力を込めた。
初めて、娘が一抹の暗澹というのを覚えた日から、十有余年もの月日が経過した秋の朝。彼女は平生の通りに、屋敷で目覚め、身仕舞いを整えて、花圃に水をやる、そういう日課をこなし、自室の隅で小さく座っていた。ところが、何やら台所のほうが騒々しい。どうしたものかと、もたげられた鎌首のようにして、重い体を起こした。台所と居間を繋ぐ戸から身を出し、女中たちに様子を覗く。そうしていたら、一人と目が合ってしまったので、仕方なしに表へ出ることとした。
「皆さん、こんな朝からどうなさったのですか?」
娘が着物の裾をたくし上げて、沓脱を降りると、皆、あなたを待っていたというような顔をして、娘を囲いにかかった。
「お嬢様!昔に居候していた画家の男を覚えていらっしゃいますか?顔立ちの良い子でしたよ。確かご主人様の再従兄弟のとこの子だったかしら。」
「私達は鼻つまみ者のように思ってましたけれどねえ。」
「いつの間にかいなくなってらして、静かになってましたわ。」
それぞれの彼に対する見解がひけらかされて、その波が少しづつ娘に向けられていくのがよく分かって、ひたと口を開いた。
「ああ、あの子。覚えてますよ、親しかったもの。彼がどうかしたの?」
娘は何も知らない顔をしていたが、しんから十年来の青年との物語が、彼女の中で動き出すのを感じたいと思っていた。胸の内で長年温めていた思いが、結願しようとする様に心拍が急いて、娘は少し苦しく思われた。
「お嬢様、ご覧になってくださいな、この新聞。今朝投函されていましたの。これ、あの子がうちで描いていたものではございませんか?」
娘は、はやる思いを噯にも出さぬようにして、紙面を覗き込んだ。
右下の真四角い枠の中で、体を横たえたあの美しい魚人の姿、
それは確かに、青年との作品であった。美しい魚人の、妙なる色彩の作品であった。
彼はついに果たしたのだ。
のべつ幕無しに放たれる女中達の感想が、段々と背景に遠のいていく心地がした。彼に会わなければ、もう一度、取り戻さなければ。
娘の心中で堆く巻き上がる思いが、熱を秘めていく。
「その絵はいつどこで展示されるものなの?」
娘は、女中に確認するよう示した。
「場所は隣町の方で、五月の頭の週に展示されるそうです。お嬢様、ご興味がおありなのですか?」
大して隠す訳もないのだが、娘はそれにやましさすら抱いていたのか、いいえ、と首を横にふった。一旦の情報収集を終え、娘は自室に戻ると言い残して、その場を後にした。
日でぬるま湯のような暖かさを持つ座椅子に腰を下ろして、娘は、便箋を数枚机上に取り出した。青年に向けて手紙を認めるのだ。訊ねたいことは、澱みなく溢れ出てくる。あなたはずっとどこで過ごしていたのか、誰を頼って生きていたのか、はたまた誰に頼ることもなかったのだろうか。誰が新しくきて、誰がいなくなって、私はこうして生きていて。そういう細やかな日常の多くを、彼に一杯一杯、注いでしまいた
かった。
私を想って明かした夜はあったか。互いの好物を、何故だが残しておいてしまうことはあったか。いたはずの温もりの跡に余韻を見出してしまったことはあるか。
娘は、その全ての味を知っていた。強かにぬるく落ちる記憶が、満腔に波紋を渡らせ、娘を苦しめる。最初はどこか生暖かさを覚えるのだけれど、次第に風に晒されて、心細くも冷えてきて、いつしか、それそのものになったような、味。
美しいというものの極限を見ることは、叶いましたか。
娘はこの一文を締め括りに加えて、筆を置いた。これに関してはまだ味を知らないからであった。極限というのは、まだ娘の知り得ない外界にある。その外界というのに、きっと青年がいるだろうと、娘は信じていた。そこへ辿り着くために、時の流れが存在するのだとさえ思っていた。数度目を通し、封筒に入れる。差出人の欄に慣れ親しんだ自らの名を書いて、宛名の欄にいつか親しいと思いたい人の名を書く。
この一通を胸に当てて、青年の元に、届けるということ。長い間待ち侘びた情景を、眼裏に浮かべて、娘は微笑した。
青年の絵画に、白黒の紙面上で見惚れた日から、大分日永になった頃。
娘は鏡台の前に腰を下ろして、唇に紅を纏わせていた。想像していたよりも赤くて、塵紙を当て、色を整える。お出かけようの着物を取り出し、初めてそれを一人で着付けて、巾着にがま口と、お直し用の口紅と、大事な手紙を詰めた。女中らの往来が絶えた間を縫って、三和土に向かう。いつぞやに鼻緒を挿げ替えておいた、下駄に足を通した。人目を憚りつつ、外に出る。娘は心細さに陥ったような胸中を抱えて、向かい風の中を歩み始めた。御者に馬車を出すよう頼むか、町に出てから馬車を捕まえようかと、計画したこともあったが、それでは青年に顔向けできないような気がしたのだ。駅までの道のりを、普段より低い目線で進んで行く。道中、屋敷で見るよりも峭刻とした猫が、彼らの世界で跋扈しているのを知って、娘は興味深くも恐れ多く思った。多少迷ったけれども、無事駅まで着いて切符を切っていただく。電車というのに乗るのは何年ぶりだろうか。記憶の受け売りのようなものが、微かに路面電車というのを知っている。羅蓋を開いて、暫し佇んでいると、遠方から警笛の音が近づいてきた。それは速度を緩やかにしつつ、娘の前に停車した。娘は電車を目の当たりにして、四角い木造の箱という印象を受けた。中には向かい合うようにして、椅子が並べられており、それなりに人気があったので、娘はお爺さんと対面する位置に腰を下ろすこととした。
「おはようございます。」
お爺さんが小さな会釈をしてくださる。
「おはようございます。」
娘もお辞儀を返した。誰も連れないで外出するというのは、空気から違うように感じられる。娘は元来の物見高い気質を取り戻したかのごとく、円な黒目を忙しなくした。外国の厚い本を繰るお爺さんや、あひるの持ち手をした杖の忘れられた車内には、未知という希望が横たえているように感じられた。まだ見ぬ清新さが、娘を出迎えて、風とともに去った。
まだ日も柔らかい午前の都会で、徒然を極める少年がいた。本日は彼が長らく助手を務めてきた人の展覧会なのだが、大抵の用意は終えてしまって、昨晩の杞憂だけが尾を引いているのだった。主役の絵画は、もう出展済みであるので、あとは細々とした作品を並べるだけなのだ。現に一段落したため、師には秘密で、暫し茶でも飲もうかと裏に引き返すところであった。あの重い戸が開かれる音がした。客が来たのだろうか。手元の時計を確認したが、予定の時刻までには、まだ一時間以上猶予が残っていた。開演の時間がまだ先であることを伝えるべきかと考えもしたが、別に大したことでもないだろうと思い、彼女に悪い素振りも伺えなかったので、やめにした。美人だったので、茶の肴代わりにでも眺めることとする。客の彼女は、いかにも良いとこのお嬢さんという出立で、盛装していた。まだ二十前半という感じか、隅々まで管理の行き届いた印象だ。呑まれてしまうのではと思うほどに魚人の絵ばかりを見つめて、感慨深そうな顔をしている。少年は何だか興味が湧いてきた。大して名の知れていない画家の絵の、どこにそこまで惹かれるのだろうか。少年自身、この絵に携わっていたし、師のことも尊敬しているので、この絵を大事に思っている。しかしそれでも、彼女ほど陶酔することは出来まいというのが、少年には明瞭であるように思えた。茶碗を勢いよく傾け、茶を胃に流し込む。少年は残りの作品を抱えて、表に出ることにした。自分の存在を知らしめたいのか、少年はわざと足音を響かせた。発せられる人籟に、娘は振り返る。
「お早い来場でございますね。」
少年は言葉をかけた。
「おはようございます、それで人の気がなかったのですね。ご迷惑だったでしょうか。」
娘がさも不安そうな色を顔にたたえ問いかけた。少年は微笑した。
「とんでもございません。好きなだけご覧になってください。残りの作品も並べてしまいますね。」
「まだ他にも作品があるのですね。」
娘の表情を見る限り、興味があるようだった。
「はい。そうなんです。こちらをご覧になってください。この作品、実は私も一緒に作ったのですよ。」
少年はどこか得意げに答えた。しかし、娘の顔はそこはかとなく、悲し気に映った。少年は途端にどうして良いのか分からなくなってしまって、彼女が好みそうな物を手探りした。思い立って、少年は布帛に皺が寄るほど、自身の身辺を弄り、万年筆を取り出した。以前師から譲り受けて、ずっと持っていた代物だ。一級品だからと言っていた覚えがある。瞭然として、富をかじったような娘には、高価なものを眼間で揺らすのが一番効くのだ。そう思っていた。この万年筆は、少年以外の助手が夜逃げした翌日、少年だけが残ってくれたからと、師が酩酊しつつ差し出してきた物であった。
「お客さん、こちらをご覧になってください。これは一級品の万年筆ですよ。綺麗でしょう。こちらは私に先生が……。」
硝子の万年筆が静かに煌めいて、呼吸を忘れさせてしまいになる。少年の浮ついた声を跳ね除けるように、娘が放った。
「ねえ、あなたその万年筆はどちらで手にお入れなさったの?」
少年は、娘の嫋やかな面が歪んでいく様に、動揺を隠せなかった。
「師に頂きました。あのう、私何かいけないことを言ってしまったのでしょうか。」
弱々しく、萎縮した声で訊ねた。
「いいえ、良いのです。何も気になさらないでくださいね。」
娘は精一杯の思いで少年に笑いかけた。
「では私もう行きますわ、少ししかいられなかったけれど、良い時間を過ごせました。ありがとう。」
そう言い残すと、娘は足早に去って行ってしまった。少年はただ、呆然とするばかりであった。
「そんなところにじっとして、どうしたのかい?」
師の声に、少年は我に返った。
「いえ、少しぼうっとしていただけです、すみません……。」
少年はまだ地に足つかないような心地が抜けずにいた。
「そうか、無理せずで大丈夫だからね。」
師は和やかに微笑み、少年を安心させようと試みているようだった。
「そういえば……、その万年筆久しぶりに見たなあ。」
そう呟く師の横顔は、どこか嬉しそうだ。
「私はね、その万年筆の送り主が、ずっと大切なのだよ。私から彼女ともう一度、巡り会おうとすることはできないんだがね。若さというのは本当にあるのだと私は思ったな。」
お決まりの自語りに、少しづつ平生の感覚が伴い始める。
「またお決まりの台詞ですか……。師はなぜその女性と会わないのです?」
いつもなら流すのだが、その日は続きを聞くのも良い気がした。
「だって、そりゃあねえ。君は私がどんなにひどいやつか知ってるだろう?」
師はバツが悪そうな顔で答えた。しかし、少年にとって、それは何より面白い話なのだ。師のだらしなさときたら。
「まあ、確かにそれは相手が可哀想ですね。」
「ああ、だろう?」
両人の間で、切なさの含まれた笑いが落ちる。新たな日々が、我々を追い越して行く。
「少し外へ出ようか。」
師は和やかに告げて、少年の手を引いた。再度重い戸が開かれ、差した日に塵芥の散失が照らされた。真四角い画中で、鱗は光る。
師は相変わらずであった。あなたは相変わらず、私にそれが正しいと思わせるのだ。
光る鱗の味 @yuki0141
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