ナナセの家

海月沢 庵

ナナセの家


 今日は朝から暑かった。


 8月もそろそろ終わる頃だっていうのに、しぶとく生き残った蝉が鼓膜を削るみたいにジイジイ鳴いていた。

 ぴん、ぽおん。くぐもった音でインターホンが鳴る。


「はーい?」


 ドアに頬を当て、覗き窓に目を凝らすと。

 七瀬がそこに立っていた。





   * 流奈 一



「あたし、家出してユーラシア大陸一周する」


 夏休みの初め、お互い赤点だったテストの補習帰り。戸口七瀬は、ローファの先を水たまりにつけながらこう言った。あんまり自然な声だったから、私は時間差で、押していた自転車のブレーキを握りしめる。

「え、いつ?」

「来週」

「急だなあ。旅費は?」

「こっそり貯めてたバイト代の20万。あとは、ヒッチハイクでなんとかするよ」

 歌うようにそう言って、グッドの形にした右手をこちらに向けてみせる。

「20万とヒッチハイクで世界一周……?」

「世界じゃなくて、ユーラシアだって。

 さすがにヒッチハイクで海は渡れないから、まず飛行機で韓国まで行って、あとは誰かの車に乗せてもらうの」

「マジか……けっこう時間かかるよね?」

「うん、短くても半年はかけたいかな」


 高3の8月から半年となれば、受験はしないつもりらしい。

 うーん、と顔を上げる。風もなく真っ白な昼の街は、全部ミニチュアの冗談みたい。

「あんまこういうこと言いたくないんだけど……家出で大陸一周するとして、受験とかはどうするの?私ら3年生だよ?」

「分かってる。でも、あたしはそういうの、もういいや。家出するほうが大事だから」


 そう言われてしまうとなにも言えない。

 七瀬は馬鹿じゃないから、こんなことの重さくらい何度も考えたはずだ。その結論が家出のほうなら、何も口出しはできない。


 なに言ってるの、無謀だよ、時期がおかしい。


 喉をきゅっと引っ込めて、衝動的に出そうになった言葉を封じた。七瀬とまだ友達でいたかったから。

 だけど、出来ることなら引き留めたかった。七瀬がいない教室が怖かったから。


 そうして私が黙っていると、七瀬は声を少しだけ震わせて言った。

「もしよかったらなんだけど……流奈も一緒に来ない?」

 まだ思いついてもいない私の言葉を遮るように続ける。

「お金の問題とかあるから、無理に来なくてもいいんだけどね。ごめん、一緒のほうが心強いんだ」


 考えさせて、とだけ言って別れた。




家の鍵を開け、野菜や豚肉が入りすぎて持ち手が紐状になったレジ袋を玄関マットの上に置く。ただいま、が長い廊下に吸い込まれる。

 手を洗って、傷みやすいものは冷蔵庫へ。冷蔵庫のドアにはマグネットで出張中の生活費が貼りつけてある。額は1日5千円で、今日は10万円だから20日だ。


「節約したらけっこう余るなあ。ヘソクリにしよ」


 台所の蛇口から零れた水がシンクを打つ。この音と、私の声だけが家の空気を震わせている。


 ほかの子は、帰ったら親がいて、夕飯の献立を気にしたりして、嫌いなものが出たら文句を言ったりするのかな。スーパーで一人で買い物してるところを友達に見られないか、怯えることもないんだろう。妬んでるわけじゃない。ただ、いいなあ、と思うだけ。


 夕飯とお風呂を済ませ、テレビを点けたま数学を勉強をしたあと、照明を暗いオレンジにしてベッドに倒れ込む。わが家はあまりに広いから、その広さに圧迫された私は壁際に眠る。小学校のとき家に来た友達には、さみしくないの、なんて聞かれたこともあるけど、さみしいと言ったらどうなるというのだろう。面倒くさいから、それ以来家のことは誰にも話さないようにしている。


 その点七瀬は楽だった。彼女はいつも家の話をしなかったけど、おおよその理由は察しがついた。やたらと早い門限、なにも言わなくても先回りして自虐する癖。


「家出、か」


 闇の中、急に開いたスマホは明るすぎて、私は泣き出す直前みたいに目を細めた。その表情のまま、ぽちぽちとフリック入力する。


「ユーラシア、一緒に行くわ」


 そうして私は、青い紙飛行機型の送信ボタンを押してしまった。




 その日、私は行けなかった。

 行こうとは思ってたんだ。本当に。

 だけど家を出る前、玄関のところでメッセージの通知音に立ち止まってしまった。母からだった。


『流奈、お父さん倒れた。大学病院来て』


 するりと手を離れたスマホは真っ白にひび割れて、瞬きのような二、三回の点滅を最後に沈黙した。親からのラインは1ヶ月振りだった。




 自転車を立ち漕ぎで飛ばしていたら、七瀬と待ち合わせていた駅が見えた。


 駅前のベンチに細い両足をぶら下げて、青いワンピースを着た七瀬の後ろ姿は来ない私を待っていた。


 少し寄っていくくらいなら、全然、問題ない距離だったんだ。事情を説明しに行くことはできた。実際そのときの私の頭には、私が駆け付けたところで父親の容体が良くなるわけでもないし、なんていう親不孝な発想もあった。


 でも行かなかった。


 スピードを緩めずに駅前を走り抜けたその日が、私とナナセのお別れだった。








 その七瀬が2年後に一人暮らしのアパートを訪ねて来たら、私がどんな気持ちになったか、ある程度想像はつくだろう。


「ひさしぶり、流奈?来ちゃった」


 そう言いながら耳にかける髪はロングと呼べるくらいの長さになっていたし、服装の雰囲気も少し変わっていたけれど、間違いようもなく七瀬だった。  

 インド風な花柄の刺繡が入ったノースリーブのワンピースは、錆びた掃除用具入れみたいな玄関ドアに酷く不釣り合いだった。

「なんで——」

「あ、やっぱり流奈だ! 声聞くと分かるね。都会のお姉さんって感じになってるから違う人かと思ったよー」

 弾む声が、笑顔が、あのころと全く変わっていなくて鳥肌が立った。


「あたし、何ヶ月か前に旅先の熱中症で記憶障害?になったらしくて、高校行ってた記憶しかないのに、ベトナムの病院にいたの!

 日記つけてたから大体状況は分かって、現地でバイトしてなんとか戻って来たんだけど、家出したから実家帰れないし、飛行機代だけでお金ほとんど無くなっちゃって。仕事見つかったら宿代払って出ていくから、それまで泊めてくれない?」


 記憶、障害。私が裏切ったことを、七瀬は忘れている?うまく呑み込めないまま、


「いいよ。好きなだけ泊まってって」


 と言ってしまった。だって、それ以外言えないじゃないか。


こうして私は七瀬と同居を始めた。





「じゃあ、この和室を七瀬の部屋にするね。ちょっと掃除すれば使えるから、今から始めようか」

 七瀬を連れて家の襖を開ける。変な状況になったものだ。

「一人暮らしなのに、使わない部屋があるの?」

「古くて床が傾いてるから、風呂つき2DKでも安いの。もうちょっと狭い家に住もうと思ってたんだけど、駅からも近いし――」


 話していると、七瀬はスーツケースの中を手で探りだした。そしてなにか見つけると、にこにこしながらそれを畳に置く。

 キラキラと光るビー玉が、畳の上を転がって来た。

「あ、本当に傾いてる!」

「そう言ったじゃん」

「いやあ、昔テレビの引っ越し番組でこうやってて、ずっとやってみたかったんだよ。あ、あと、これも見せたくてさ」


 七瀬が手のひらに乗せたビー玉は、透明な水色の中に白が溶けた、あまり見ないタイプのものだった。転がると、光の加減でメロウな桃色にも見える。

「綺麗でしょ、フランスの雑貨屋さんで買ったの。最初は予算外だったんだけど、店主のおじいさんに頼み込んでなんとかね。

 流奈にあげるよこれ。お土産」

 ビー玉なんて、せいぜいラムネ瓶の栓をするくらいしか役立たないものを頑張って買うところが彼女らしい。

「ありがとう。七瀬、本当に海外行ってきたんだね」


 私がそう言ったとき、和室の窓から風が吹いて、昔より長くなった髪が七瀬の顔を隠した。少し寒くなった。


「そうだよ?凄いでしょ」


 彼女は無邪気に笑った。





* 七瀬 一



 あたしの実家の部屋には、監視用のカメラがついている。


「ママ、このカメラって取っちゃダメ?」

「駄目。七瀬の安全のためにつけてるの。それともなあに、見られて嫌なことでもあるの?」

 小学校の低学年までは、大して気にせずにいられた。でも、友達ができて、普通のことを知っていく中で、やっぱりうちはおかしいんだと強烈に意識させられた。


「引き出しの中に何か入れてたでしょ。これなあに? え、ラブレター? 駄目よこんなの、まだ小学生なんだから」


「七瀬はお母さんの言うことだけ聞いてればいいの。あの人みたいになっちゃだめよ」


「もう、――を――なんて、ママに隠し事は通じないんだから――」



 毎日無言で絶叫していた。なんにも迷惑かけないから、あたしのことなんか忘れて、干渉しないで欲しかった。家出のときユーラシアなんていう大きな目標を出したのは、できるだけあの人を感じないように、あの人から離れられるようにしたかったから。


 高校生になっても監視カメラを外さないママ。仕事もあるのに早朝に起きて、誰より豪華なお弁当を作ってくれるママ。「家族だから」、プライバシーを主張したら物を投げつけてくるママ。病気になったら予定を放り出して看病してくれるママ。


 みんな同じ、あたしの母親。真っ黒な不快感と自己嫌悪が、肺のあたりでガムみたいに粘ついて取れない。



 忘れもしない、雨が街を白く霞ませる6月の終わり。

 部屋に帰ると、大事なものが何もなかった。


 友達から貰った誕生日プレゼントのぬいぐるみ、初めて自分の小遣いで揃えた漫画、ゲーム、中学の卒業式で好きだった人に貰った第二ボタン。そういうものが全部なくなって、代わりに棚いっぱいの問題集が部屋を威圧していた。


 ヒュ、と変な音で息を吸った。ママの足音がした。


「ああ、七瀬。散らかってたから、いらないもの全部捨てたわよ。モノだけ残ってるより将来が一番。すっきりして受験にも集中できるでしょ」

「なんで……?」

「何、不満なの?言っときますけどね、あなたが今生活できてるのはママのおかげなんだから。多少不満があっても少しくらい期待に応えてよ」


発、狂。


 もう嫌だ。もうこの人とは居られない。あたしが壊れる。

その日から家出の準備を始めた。


 

 菜々瀬流奈を巻き込もうとしたのは、まだ親を裏切る怖さが残っていたからだ。

 赤信号をみんなで渡るみたいに、友達と一緒に、海外旅行みたいな気分で家出してしまえば、しがらみなんか気にならなくなるんじゃないか、って。

 お互いはっきり約束したわけじゃないけど、あたしと流奈は会話の中で家の話題を一切出さなかった。普通じゃないあたしたちは、いつも嫌な部分を避けて普通みたいに友達でいられた。

 他の人の傍にいればいるほどくっきりする「独り」の輪郭が、流奈と一緒のときは少しだけぼやける気がした。


 だから、身勝手にも、あたしの家出についてきてくれるんじゃないかと思った。



 そして約束の日、あたしはようやく自分の愚かさに気づいた。

 流奈の自転車は、鍵にあたしがあげた鈴のストラップがついている。ふつうの鈴より大きいから低い音が鳴って、近くを通れば流奈だとわかる。その音が、悲しいくらい鮮明に後ろを通り去った。

 そしてあたしはようやく知った。家出は誰かと一緒にするものなんかじゃない。もっと痛切でシリアスな、自分の周りにあったすべてと決別する行為なんだ。



 あたしは予定通り旅立った。流奈のことを恨んじゃいない。最初に巻き込もうとしたのはこっちだもの。

 飛行機から自分のいた場所を見下ろしたら、その小ささに拍子抜けした。青く広い空の下、踏めば粉になりそうな白い街。


「なんだ」


ぐうっと背伸びをして目を閉じる。化繊の匂いがする硬いシートの上で、あたしは初めて生き始めた気がした。





* 流奈 二



 あの日、七瀬を裏切った日、病院に着いた私は親に謝られた。

「いままで一人にさせてごめんな、これからは流奈と一緒にいられるから」

 どうやら医師に余命宣告されてしまった父は、いまさら家族の絆に未練を持ったらしい。母も隣で涙ながらに私を抱きしめた。白々しい。けれど、引き剥がすには細すぎる腕だった。

 我に返りはじめた私の頭は七瀬のことで一杯で、最悪な気分で病室の窓を見上げた。雲ひとつない快晴な空が、余計に私を惨めにさせた。


 結局父は翌年の2月、私の受験直後にこの世を去り、私は母と別れて大学の近くで一人暮らしを始める。




 その一人暮らしが二人に変わって、もう一か月が経った。

 七瀬はバイトを見つけて、私たちは家賃折半、ルームシェアの形に落ち着いた。高3の夏に家出した七瀬は最終学歴が中卒だから心配したけど、大旅行の経験を買って英語の家庭教師に雇ってくれた家があったらしい。


 ドアを開けると、張りのある声が飛んできた。


「流奈おかえりー、ナイスタイミング!いまタイカレーできたとこだよ」

「あ、やっぱり?外までスパイスの匂いしてきてお腹すいた。料理当番、代わってもらっちゃって悪いね」

「いいのいいの。なんか大変だったんでしょ?

 料理好きだし、いくらでも代わるよ。ああでも、明日の朝ご飯は作ってくれると嬉しいな。流奈が作る謎の納豆トースト、あれ美味しいんだよね~」

「案外合うからね、チーズと納豆とトースト」

「そうそう、なんか落ち着く味する。

あ、そういえばタイにも納豆があったんだよ?いまあたしが作ったのがタイカレーだから、もしかしたら合うかも――」

「さ、さすがにやめよ……?」

「冗談冗談。冷めないうちに食べよっか」


 先週一緒に買った白いどんぶりに、シャバシャバした黄土色のルーを注ぐ。


『いただきます』


 手を合わせるとテーブルの向こうの七瀬と目が合って、未だに不思議な気分だ。


「……流奈、なんか体調悪そうだけど大丈夫?」


七瀬が急に聞いた。反射的にうん、と笑って、カレーを食べ始める。



 今日の昼、母から電話があった。父の部屋の整理をしようとしたらぎっくり腰になってしまったので代わりにやってくれないか、という内容で、私は内心ため息をつきながら久しぶりの実家に帰った。


 本がどっさり入った段ボールを運び出していると、敷布団の上で横になっていた母が口を開いた。

「流奈は、いま一人暮らし?」

「ううん、高校の友達とルームシェアだよ」

「ああ、ルームシェアか!いいね、若いって感じで」

 若い。同性同士のルームシェアは必ず若いうちに終わって、誰でもゆくゆくは独立したり恋人を見つけたりするだろう、という暗黙の了解がその言葉にはあった。友達関係はしばしば、未熟なものみたいに扱われる。

「でも、だからって諦めちゃ駄目よ。好きな人とかいないの?」

 余計なお世話である。

「ああ、そんな顔しないでよ。誰かといっしょになるってことはとっても幸せなことだから、オススメするだけ。親としては孫の顔も見たいしね」

   

 作業を手伝わせた上にお節介なことを言う人だ。まあ、これが本題だったんだろうけど。


 父と母は仲が良かった。一緒に流通系の自営業をしていたから、出張に行くときもふたりだった。

 忙しくても結婚生活は楽しかったんだろう。葬式の日、出ない涙をしぼり出すのに集中する私の横で背中を丸めて嗚咽した母の姿が忘れられない。


 でもなあ。


「幸せなこと」の結果として何かが蔑ろにされうるのなら、そんな幸せはいらない。

べつに七瀬とキスしたいわけじゃないけど、今の生活に私サイズの幸せは満ち足りていて、これ以上のことなんて小指の爪ほども望んじゃいなかった。


 けれど、お母さんはきっと、私のことを想って言ってくれてるんだ。そのお節介が、抱きつくように私の首を締める。


「ありがとう、考えてみる」

 そして私は表情筋だけで笑った。死んだ父の部屋で、弱った母の前でほかの言葉なんか吐けるはずがないから。




「流奈、どうかした?カレー辛かった?」

 気づいたらスプーンが止まっていた。

「ああ、なんでもない。タイカレー美味しいね。やっぱ納豆は無いほうがいいや」

「あはは、だから冗談だって。でも、褒めてもらえると作った甲斐あったよ」


 七瀬は私にとって友達だから、こんな生っぽい悩みは知らないままでいてほしい。わざとおいしそうにスプーンを咥えると、ぴりっとしたスパイスの辛さが鼻を抜けた。 





 カレーの皿を片づけてダイニングに戻ると、七瀬は机に突っ伏して寝ていた。組んだ腕の下には、英語の答案用紙。家庭教師の生徒の採点をしているうちに眠くなってしまったんだろう。


 寝ている七瀬は時折、ゆらぐ。花のようにひそかに息をやめて、知らないうちにただの死体になっているんじゃないかと、そんなどうしようもない想像を掻き立てるような危うい透明感がある。

 そっと首元に触れたら、とくとくと薄い鼓動が伝わってきた。薄い安堵のため息を吐く。


 次の瞬間。


 七瀬の口から零れた寝言は、ホチキスみたいに私の首筋に食い込んだ。





* 七瀬 二



 突然だけど、あたしには家出前の記憶がある。

 でも、ベトナムで熱中症になって倒れ、記憶がなくなったのは本当だ。


 なんで自分は異国の真っ白な病室にいるのか、それまでどうしてきたのか。何もわからなくて、ただ流奈に会いたいと思った。スマホを開いたら流奈のSNSアカウントは消されている。竜宮城から帰った浦島太郎みたいな気持ちで、病的に白いシーツの中で不安に怯えていた。


 数時間後、記憶が戻ったとき、少し驚いた。

 過去のすべてと別れるつもりで家出したから、故郷の知り合いと会うつもりはなかった。でも、全部忘れて初めて気づいた。


「あたし、流奈のことめっちゃ好きじゃん……」


 こういうわけで友達と仲直りしたくなったあたしは帰国し、興信所を使って流奈の居場所を調べて、同居するに至る。ストーカーだと言われれば、首を縦に振るしかない。




 丸い花柄のすりガラスが嵌まった、レトロな木製のドアをノックする。今日は日曜日。


「流奈―、アフタヌーンティーしよー」


 ほどなくしてドアが開く。

「アフタヌーンティーってあの、ちっちゃいケーキがケーキスタンドにいっぱい乗ってるやつ?」

「うーん、間違っちゃいないけど……アフタヌーンティーであるからには、アフタヌーンに飲むティーが主役だと思わない?流奈のそれは、飲み会のことを『枝豆とか食べるやつね』って言ってるようなもんだよ」

「なるほど。要するに、お茶菓子は充実してないけど夕方に紅茶を飲む会がしたいってことね」

「まあそういうこと」

「私が今からケーキを買ってきたら、紅茶が主役じゃなくなっちゃうかな?」

 なんと!

「主役とかどうでもいいから買ってほしいです……」

「素直でよろしい。じゃあ、行こっか」


 サンダルをつっかけて、一緒に近所の洋菓子屋さんまで歩く。今日は肌がほやほやするような優しい気温。

「曇りかあ。秋晴れになるかと思ったのに」

「私は曇りの方が好きだからちょうど良かったな。まだ晴れの日は暑いし」

「確かに、それもそうだね。あ~、ケーキ楽しみ!」

 流奈といると、自分が普通の女子高生になったような感じがする。変な言い方だけど、今より高校のころのあたしたちのほうが高校生離れしていたと思う。今、あたしは日常を愛せている。




 てらてら光る大きな栗を頂いて、秋季限定のモンブランはダイニングの白い机に鎮座した。

「流奈、これは……」

「絶対おいしいやつだ……」

 早く食べよ、と言ってお茶の用意をする。耐熱ガラスのティーカップに深い赤色の紅茶を注ぐと、中で揉まれた光が綺麗。


「いただきます」


 クリームと紅茶の贅沢な匂いを吸いながら二人で手を合わせる。さて、ケーキだ!お店でつけてもらったプラスチックのスプーンが、さくっとモンブランに沈む。

「〜〜! お、おいしい!」

「ね! あのお店また行こう」

 マロンクリームの香りが充満した口に、まだ少し熱い紅茶を流し込む。モンブランは甘さ控えめだから、お茶のほうにスティックシュガーひとつ分の砂糖を入れた。

「流奈、砂糖いる?」

「ありがとう。でも、後で入れるから置いといて。途中で変えるのが好きなの。砂糖入れちゃったら、もう元の紅茶には戻らないでしょ?」

「了解。それにしても、アフタヌーンティーって楽しいね」


 ヨーロッパにいたとき、車に乗せてくれたイギリス人のご家族がお茶の習慣について話してくれた。家族で集まって、一日に何回もお茶をするそうだ。それを語る表情がとっても楽しそうで、自分も誰かとやりたいと思っていた。

 家族――母親のところにはもう戻らない。でも、血縁がなくても家族って言える関係はあるはずだ。お茶を一緒に楽しめる相手を家族と言うなら、家族がいるところを家と呼ぶなら、流奈はあたしの家族だ。なんて、ちょっと愛が重いかな。





* 流奈 三



 七瀬にはおそらく記憶がある。そう気づいたのは、眠る七瀬を見ていた日のこと。その日私は、ある寝言を聞いた。


「……流奈、なんで駅に――」


 駅。2年前の、私と七瀬の待ち合わせ場所。私が行かなかった場所。もしかしたらその駅とは関係ないのかもしれない。けれど、どうしても無視できなかった。

 それから考えたのが、七瀬の旅の話。記憶障害になってから帰国するまでの数ヶ月の思い出にしては、移動距離が長すぎる。七瀬は見てきたように語ったけど、ベトナムで記憶喪失になったあと、予算も無い中フランスの雑貨屋でガラス玉を買ってから帰国するのは不自然だ。


 どうして七瀬は、忘れたふりなんかしているんだろう。

 他に行く当てが無かったから? だとしても、自分を裏切った相手の家をわざわざ訪ねる?

 わからない。記憶があるなら今すぐにでも謝りたいけど、それが七瀬にとっていいことなのかもわからない。一方的な謝罪って、赦されたがっているみたいで。


 ベッドの上で仰向けになって考え込んでいると、電話の着信音が聞こえた。母からだ。

「もしもし流奈? ちょっと相談があるんだけど」

 10月にしては暑すぎる夜。ぬるい汗が背中を這った。


「お母さんと、一緒に住まない?」




 午後2時を指す時計のカチ、という音に急かされて、椅子の下で足を擦り合わせながら口を開く。

「ごめん七瀬」

「どうしたの?」

 ダイニングの椅子にもたれた七瀬の顔は、どこか神聖な穏やかさを湛えている。


「私――この家から出ていこうと思ってる」


 沈黙が耳に痛い。これを口に出すのは怖かった。七瀬に迷惑かけたくないのに、私がいなくなるのをあっさり受け入れてほしくなかった。


「理由聞いてもいい?」

 七瀬はそう言って頬杖をついた。


「理由……」



『流奈、お母さん、あなたと一緒に暮らしたいの。昔から流奈って何でもできたでしょ? お母さん、家事苦手だし持病もあるから手伝ってほしくて。その代わり、家賃はお母さんのほうが多く払うから。親子どうし、水入らずで楽しく暮らせると思うの!』

 この話を聞いたとき、つくづく電話で良かったと思った。面と向かって言われたら、嫌悪感を隠しきれる自信がなかったからだ。


 私は何でもできたんじゃなくて、何でもやるしかなかったんだよ、お母さん。家族ごっこのできる家政婦が欲しいだけでしょ。なんて、そんなことは言えない。私は母を嫌っているはずなのに、根っこのところで過去に愛されなかった分を取り戻したくて必死なんだ。きっとこの人が死ぬまで、私は「家族」の奴隷。


――こんな話、友達にできるわけがない。引かれるかもしれないし、七瀬に余計な重さを背負わせることになる。

 大した理由じゃないよ、と言おうとしたら、七瀬が先に口を開いた。


「流奈、あたしはルームシェアを解消されて、楽しい生活と半分の家賃を一方的に打ち切られるわけよ。事情を説明されるくらいの権利はあると思わない?」


 彼女は、なんて優しい人なんだろう。


「……わかった。私の家の話なんだけど――」


 記憶の中の、まだかさぶたも出来ていないやわらかい部分を話すのは想像以上に時間がかかった。

 長針が時計の上で一回転しても、七瀬は目を逸らさずに聞いていてくれた。


「……どう思った?」


 お母さんのこと、全部言ってしまってよかったんだろうか。また怖くなる。私の話で、必要以上にお母さんを悪者にしていないだろうか。不幸自慢みたいに聞こえてないかな。


「正直、クソ食らえだと思うね。都合良すぎるよ。流奈は、遊びたくなったときだけ取り出すオモチャじゃないのに! ……あ、ごめん」


 七瀬が泣いている。私のために泣いている。涙の匂いが、狭いダイニングに満ちている。

 瞼を赤くした七瀬の顔が美しくて見惚れた。

 母は、私のために泣いてくれるだろうか。どうでもいいや。きっと、七瀬が流してくれるこの涙のほうがずっと濃く、そして尊い。

 七瀬は続ける。


「自分の言いたいことを言うとか、普通できないよね。フィクションじゃすぐ本音を言えるけど、リアルに生きてたらぶつけた本音がどうなるかわからないもん」

 わかる。

「でもね。それでも、言わなきゃならないことだって、きっとあると思うよ。

あたしはここにいるから。流奈がやりたい方を選びな」

 まっすぐ――今まで誰にもそんな目を向けられたことがないくらいまっすぐ、七瀬は私を見つめた。      

 ああ、この人は家族だ。たぶん七瀬は、裏切った私のことを知っていて、それでもこんな眼差しを向けてくれているのだ。ここは私の家。少し傾いた私たちの家。


「……ありがとう」

 

 熱くなった喉元は気にせずに、通話ボタンを押す。ツ、ツ、ツ、と響く電子音がやけに大きい。


『もしもし、流奈?』

 出た。あの人の声。隣を見る。七瀬がいる。香ばしく甘やかな午後の空気を、胸いっぱいに吸い込む。


「お母さん、聞いて、」

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