最終話 新たな旅立ち
西穂高の頂に足を踏み入れた瞬間、眼下に広がる錦織りなす上高地の景色が目に飛び込んできた。そのこよなく美しい絶景を見つめると、祐介の無念を晴らした思いが胸に込み上げてきた。
そんな私の心情を察したかのように、突如として清々しい風が頬をかすめた。その感触は、まるで大地の母が優しく慰めてくれるかのようだった。目の前に広がる北アルプスの山々の連なりは、古の時を超えて私を見守る守護者たちのように静かで、厳かな存在感を放っていた。
彼らは無言のまま語りかけ、私の心に深い響きを与えてくれる。この聖地はただの地点ではなく、時間と空間が織り成す一幕の舞台であり、私はその一部として息づいているのを感じた。
西穂高の心地よい自然に包まれながら、祐介との数々の思い出を胸に抱きしめ、彼の魂が安らかに眠れることを心から願った。白蛇の神さまにも祈りを捧げるため、心の中で何度も感謝の言葉を繰り返した。
「白蛇の神さま、ありがとうございます。あなたのおかげで、私は手を汚さずに、祐介の魂を慰めることができました」
彼女は穂高連峰の守り神のような温かな微笑みを浮かべ、何事もなかったかのように姿を消した。しばらくの間、私は西穂高の頂にある祐介の墓標の前に立ち尽くし、目を潤ませながら心の中で彼に話しかけた。
「祐介、あの空の彼方から私の声が聞こえるかい? あなたの悔しさを晴らすことができたよ。これで、私たちふたりとも心の平和を取り戻せる。でも、あなたを忘れることはない。あなたの愛は、私の魂の中で永遠に生き続けるのだから」
彼にひとときの別れを告げ、頂から下界への道を歩み始めた瞬間、私の心はかつてない自由に満ち溢れた。祐介の遺志を継ぎ、彼の魂が安らかに眠れることを確信していた。長い苦悩から解放された心は、涼やかな秋の風に優しく包まれ、涙は悲しみの象徴から新たな始まりの証へと変わっていた。
目を閉じ、祐介の温もりをゆっくりと感じながら、彼の存在を改めて心の中で抱きしめる。穂高連峰の山々を背に、新しい人生の第一歩を踏み出す覚悟を心に刻んだ。
ようやくスマホが使えるエリアに下山すると、さっそく山岳警備隊に連絡し、これまでの経緯を報告した。蒼真が滑落した瞬間を見届けてから、いくどか連絡を試みたが、悪天候で厚い雲に覆われていたため、電波が届かなかったのだ。
蒼真をひどく憎んでいたにもかかわらず、警備隊に連絡したのは、同じ北アルプスを愛する者として当然の義務だった。
警備隊が常駐する登山基地にも立ち寄り、事情を包み隠さず説明した。だが、すでに捜索隊が蒼真の亡骸を発見していた。さらに、あの鉄梯子が架かっていた仏の座の頂から事故の様子を目撃していた人物の情報も届いていたという。
私はまったく気づかなかったが、この世のものとは思えない不思議な光景を目撃していたもうひとりの証人がいた。そのおかげで、私自身は殺人事件の嫌疑をかけられず、蒼真の死は事故として扱われ、すぐに自由の身となった。
しかし、隊長から鋭い眼差しを向けられ、ひとつだけ尋ねられた。蒼真が亡くなっていたクレバスの手前に、不可思議な絵柄が描かれたタロットカードが落ちていたことに心当たりがないかどうかを。そこには、彼の謎に満ちた終止符のように、「Ωω(オメガ)」の絵柄のカードが風に靡いていたという。
その絵柄が女性裁判官の正義を象徴し、すべての終わりを告げるサインであると、パメラさんから聞いて知っていた。心の中で涙を流し、深い感謝の念を白蛇の神に捧げた。けれど、今となってはそんな話をしても信じてもらえるはずはなかった。
私は隊長の言葉に首を横に振り、ただ「知りません」と答えるしかなかった。報告を終えると、鳥のさえずりや梓川のせせらぎに耳を傾けながら明神池へと向かった。
道すがら、穂高連峰を目指す登山者に出会うと、私はこれまでのことを忘れたかのように微笑みを返し、「こんにちは。くれぐれも魔物には気をつけてくださいね!」と冗談めかしてアドバイスを送った。私の言葉は澄み切った青空を貫き、風に乗って遥か彼方へと旅立っていった。
私の歩みとともに小さくなる遠くの山々には、祐介とパメラさんが手を振りながら微笑んでいるかのように見えた。まるで彼らの笑顔が私の新たな旅立ちを温かく祝福しているようだった。
彼らの笑顔に感極まって涙が止まらなくなり、一度立ち止まって清らかな空気を胸の奥深くまで吸い込んだ。あの白蛇と龍頭の神さまにひと言だけでもお礼を伝えたくなり、明神池に向けて足を急いだ。
「鏡池」とも称される神秘的な雰囲気を漂わす明神池にたどり着くと、残念ながら白蛇と龍頭の神さまには会えず、涙が頬を伝い落ちた。けれど、人知れず瞼を閉じて両手を合わせてふたりにお礼を伝えた。
どこからともなく届いた柔らかな風を感じて瞼を開けると、目の前には別世界が広がっていた。木漏れ日がカラマツのひらひらと舞う黄金色の葉を縫う如く差し込み、湖面にキラキラと反射していた。
かつての私と祐介のように、若いカップルがボートで楽しげに戯れていた。ふたりの笑い声が風に乗って耳に届き、ボートはゆっくりと水面を滑るように進んでいた。私は遠くから彼らを見守りながら「おふたりさん、仲良くしてね。いつまでも頑張って」と心の中でエールを送った。
一方で、私の心は紅葉した山並みや木立が映り込み、秋色に染まりつつある池の水面のように、波紋ひとつない穏やかなものとなった。新たな人生の旅立ちを目指しながらも、祐介の愛が心の中で永遠に輝き続けていくことを信じていた。
『朝焼けの詩』ジャンダルムに愛の想いを馳せて 神崎 小太郎 @yoshi1449
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