第9話 復讐への葛藤

 ほぼ一日かけて、私たちはハードスケジュールをこなし、夕闇が迫る中、河童橋から奥穂高までたどり着いた。奥穂高の壮大な自然に包まれる、石畳のテラスと赤い屋根が印象的な山荘で一夜の休息をとった。


 私の心はまだ平穏を保っており、持ち歩いた護身用のナイフはただの安心材料に過ぎなかった。蒼真に対する疑念は変わらず心の片隅にあったが、この場で暴力に訴えることは決して考えていなかった。


 山荘の窓から、祐介が命を落とした「龍神伝説」が語り継がれるジャンダルムをひとり眺めながら、私はこの状況にどのように終止符を打つべきか考え込んでいた。蒼真を谷底へ突き落とす機会があれば、それは容易な解決策だろう。しかし、そんな行為は決して許されるものではなかった。



 他の宿泊者もいたため、蒼真は私に対して不審な行動は取らなかった。けれど、夜が更け、私が寝袋に身を委ねた時、なぜか蒼真の目は不穏な光を放っていた。もしかして、この山旅の魂胆に気づかれたかもしれないと、胸が締め付けられた。


 私は自分の心の内を悟られないように、蒼真とのやり取りは差し障りのない世間話に留め、頭の中では彼の死を見届けることを思い描いていた。


 蒼真の弱みを握っており、彼は一見勇ましい雰囲気を漂わせているが、いざとなると精神的に弱いところがある男だった。


 きっと祐介の亡くなった岩肌で彼の死の真相を問い詰めたら、蒼真は自暴自棄となり、居たたまれなくなるだろうと想定していた。


 彼に祐介の死について真実を問い正すその時を、まだかまだかと心を躍らせて待ち焦がれていたのだ。私は蒼真に劣らず恐ろしい女だった。


 天候の悪化を怖れて、夜明けを待たず、私たちは早立ちした。蒼真を先頭に、星々の瞬きとヘッドライトの明かりを頼りに西穂高を目指して歩き始めた。


 冷たい強風を感じながら、険しい稜線を突き進むと、靄に包まれた雲海が広がっているだけで、他には何も見えなかった。ここは3000メートルを上回る穂高連峰の稜線であり、高い山ほど天気の変化は予測もつかないものだった。


 風は次第に強さを増し、遠くで鳴り響く雷鳴と稲光りが近づいてきて、身も心も縮みあがった。もし雷に打たれたら、逃げる場所など見渡す限り何処にもなく、これ以上稜線を歩くことすら困難になった。足下の地面には濁流の如く雨水が流れていた。


 しかし、見方を変えれば、この危険な状況は上高地を愛する者として許されるものではなかったが、蒼真を人目から隠し、谷底に突き落とす絶好の機会となった。


 理にかなっていないとは知りながら、私は昨夜までの平常心を失っていた。祐介の顔が思い浮かぶと、このチャンスを逃してはならないと葛藤に駆られた。だが、私は肝心な時に、勇気を失って後ずさりした。良心の呵責に苛まれたのか、彼を突き落とすことができなかった。


 しかも、蒼真は雷鳴が轟く中でも警戒心を解くことはなく、一切の隙を見せなかった。彼はおそらく、私の計画に気づいていたのかもしれない。いや、私が禁断の行為に手を染めなかったのは別の理由があったのだろう。

 あのとき、明神池の畔で出会った羽衣の女性が「神聖なる地を自らの手で穢すな」と、改めて私の心を諫めていたのだ。


 ジャンダルムにかろうじて着いた時、私はもう成す術もなく、心が打ち砕かれ、雨風に打たれ疲れ果てていた。このまま谷底へと身を投げて、祐介と一緒になれたらどんなに楽だろうか……と、心の奥底から湧き上がる感情を抑えることができず、ただひたすら涙を流していた。


 蒼真と一瞬だけ顔を付き合わせると、彼は身も凍りつくような雰囲気を漂わせており、それとなく、彼のせせら笑う声が私の耳元をかすめていた。


 しかし、そう諦めかけ、命を賭すことを覚悟したとき、祐介の悲しい顔が脳裏に浮かんできた。私は一旦諦めかけた心を奮い立て、最後の力を振り絞って、蒼真に向かって心の叫びを放った。


「祐介が亡くなったのは、事故じゃない。あんたが彼を殺したのよ」


 私の叫びは予想もし得ない大きなものとなった。それは雷鳴を貫き、山びことなり稜線に響き渡った。もしかすると、その叫びは雷神が怒り狂った龍と成り代わり、私の切ない思いに手を貸してくれ、蒼真に届いたのかもしれない。 


「そんなわけがない。祐介は俺の親友だったんだ。彼を殺す理由がどこにある? 山岳警備隊だって、落石事故だと結論づけている。それが真実だ」


 蒼真は冷たい笑みを浮かべ、断固として否定した。だが、その顔が青ざめていることは隠せなかった。私は彼の言葉を聞き流し、地面の石を拾い上げ、もう一度言い放った。

 

「あんたが祐介のアイゼンに細工したのよ! そのせいで、彼は雪原から滑り落ちて死んだの。私はその真実を知っているんだから。もう嘘をつかないで」


 私はもう怯んではいなかった。蒼真はたじろいだのか一歩後ずさりし、私はその石を投げつけようとした。しかし、突如として、周囲は雷鳴や雨音が静まり、聞き覚えのある声が天空に響いた。それは儚くも祐介の声だった。


「真理よ、自分の手を汚してはいけない。未来を失うことはないんだ」


 蒼真はその声を聞いて嘲るように笑った。


「死人に口なしだ。今さら幽霊なんて馬鹿げている。だが、真理の言うとおりだ」


「やっぱり、あんたが殺したんだ」


「ああ、そうだよ。怖じ気づいたか? ナイフも持っているだろう。やれるものならやってみろ。お前が死ねば、真実は永遠に闇の中だ。なんなら、ここから突き落としてやろうか……」


「止めて……」


 私は、刻々と蒼真に追い詰められ、仏の座と呼ばれる険しい斜面に立たされた。目の前には、頂上へと続く20メートルほどの梯子が架かる鎖場があった。彼は悪魔のような目つきで迫ってくる。このままではすぐに捕まってしまう。


 絶望に打ちひしがれ、蒼真の手で殺されるのなら一層のこと飛び降りて死ぬ覚悟を固めた。鉄の鎖の冷たさが腕に伝わり、凍りつく風が頬を撫でた。祐介の無念が晴らせず、涙がとめどなく頬を伝って足元へと落ちた。


 だが、私が飛び降りようとしたその刹那、自分の身体が筆舌に尽くし難い不可思議な力で浮かび上がり、空を切り裂くような稲妻が閃光を放った。続いて、雷鳴が轟音となり、周囲を揺るがす中、一条の美しい白蛇が、明神池から現れた虹の架け橋を渡り、目の前で龍神へと姿を変えるのだった。


 私はその信じがたい奇跡的な変貌に呆然と立ち尽くし、ただ見守ることしかできなかった。龍神はその威厳ある眼差しで私を慈しむかのように見つめ、一方で蒼真に対しては冷酷な言葉を投げかけた。


「お前だけは絶対に許さない! 永劫の闇に包まれよ!」と宣言し、氷の刃のように冷たく鋭い風を蒼真に向けて放った。蒼真はその圧倒的な力に恐怖し、身動きひとつ取れずおののいていたが、地響きが鳴り渡る稜線から吹き飛ばされ、底知れぬクレバス*¹へと転落していった。



 脚注(山岳用語)

 ――――――――――

 1. クレバスは、氷河や雪渓に見られる深くて狭い割れ目のことです。これらは氷の動きによって生じ、深さが10メートルを超えることもあります。その内壁はほとんど垂直であり、一度谷底に落下してしまうと命を落とす危険も伴います。


 クレバスでは、雪崩とともに厳冬期に限らず四季を通じて事故が発生しており、その氷壁の割れ目は登山者たちから魔物と恐れられる難所です。

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