第8話 愛憎の狭間で

 私にとって、祐介が目の前に現れたその瞬間、世界が一瞬にして静寂に包まれた。私の心は、不思議な感覚に満たされ、抑えきれない感情があふれ出た。彼の温かな笑顔と優しい眼差しは、私の目頭を熱くし、涙が自然とこぼれ落ちた。


「ありがとう、ここに来てくれて。僕はずっと真理のことを待っていたんだ」と祐介が言った。


 涙を抑えることができず、私は彼の手を握り、その優しさを再び感じた。その刹那のひととき、私の心は安らぎと喜びでいっぱいになった。祐介の存在は、私にとって最も大切な宝物だ。


 時間も距離も超えた私たちの再会は、計り知れない価値がある。彼は私の世界を根底から変えた。私たちの物語は、ここから新しい章を迎える。明神池の畔で、私は彼の霊に問いかけた。この再会が、私たちにとって新たな始まりとなるのだろうか。


「祐介、あなたはどうしてこの世を去ってしまったの?」


 私の問いかけに、彼は神妙な面持ちで語り始めた。「あれは落石の事故ではなかったんだ。恋敵の蒼真が、僕をこの世から消し去ろうと、雪靴のアイゼン*¹の爪に細工をしたんだ。けれど、君がこうして僕を見つけてくれた。ありがとう、真理」 


 祐介の言葉に、私は深い感謝と愛情を感じた。そして、彼の無念を晴らすために、私自身が何をすべきかを考え始めた。


「あなたのために何ができるの?」


 彼は微笑んで答えた。


「僕のことを心の片隅にでも留めておいてくれたら、それだけで僕は満足だよ」


 その言葉に、私は彼の愛と優しさを再び感じ、心からの感謝を伝えた。「ありがとう、祐介。あなたのことをずっと忘れない」


 祐介の声は、涼しい風に乗って私の耳に届いたが、その目には悔しさが滲み、涙が光っていた。私は彼の死の真相を再び思い返す。彼が語ったとおり、金属の爪の留め金は少しずつ破壊されるように仕組まれていたのだ。


 そして、その罠が発動したのは、最も危険とされる龍神岩を越えた瞬間だった。祐介は雪原で足を滑らせ、強い風に押し流され、深い谷底へと消えていった。彼の命を奪ったのは落石ではなく、蒼真によって仕組まれたこの冷酷な罠だったのだ。


 その真相を祐介から聞いた私は、心の中で蒼真への憎しみがマグマのように湧き上がってきた。彼の無念を晴らすためならば、私の命など惜しくはなかった……。祐介の意向を無視してでも、敵討ちという抑えきれない欲望に駆られていた。


 だが、どんなに蒼真を憎んだとしても、ただひとつだけ、北アルプスの神聖なる地を自分の手で彼の汚れた血で汚すことだけは避けたかった。彼が罪の意識にさいなまれ、自ら命を絶つことは厭わなかったけれど……


 ♪


 出版社での私の日々は、表向きは穏やかな夏山を思わせる平静さを装っていた。ところが、その爽やかな静謐な表面の下で、祐介の無念を晴らすべく、怒りが私の心の奥底で静かに渦巻いていた。


 どうすれば、この熱くも切ない思いを叶えられるのだろうか……。もちろん、そんなことを相談できる相手もいなかった。


 我が家に帰ると、疲れた身体を癒やす間もなく、食事することさえも忘れるほど、パソコンの画面に映し出されるジャンダルムの動画に見入ってしまう。あたかも、厳しい冬の中、祐介が最後に挑んだ壮絶な登攀が、そこに映し出されているようだ。


 実際のところ、その画像に映り込む登山者は祐介とは異なる姿だった。しかし、もう二度と聞くことのない祐介の声、見ることのない彼の笑顔が重なり、画面を通じて私の心へと鮮明に蘇り、深い感慨と共に胸に刻まれていた。


 ジャンダルムの頂に立つ標柱には、3163メートルと記され、周囲には霊峰と崇められる北アルプスの山々が天を突くようにそびえ立ち、登山者たちは皆揃ってその壮大な景色に心を奪われている。


 視線を下ろすと、春の季節を飛び越し、夏の涸沢カールが目の前に広がる。それは氷河の力が悠久の時を超えて岩肌を彫り、高く険しい山々に抱かれた円形劇場を創り上げた世界だという。その舞台には、冬山の名残りを感じさせる雪渓がカンテラの明かりに照らされ、色とりどりのテント村が星空を映す緩やかな斜面に静かに息づいている。


 そんな美しい景色を見ていると、いつしか心まで清められてしまう。けれど、どうしても恨みを晴らしたいという気持ちを静めることはできなかった。祐介の魂が永遠にひっそりと眠る聖地を見ながら、私は彼の復讐を果たす手段を探し続けた。


 蒼真が仕掛けた罠は、用心深い彼には二度と使えない過去の遺物と化していたが、私の心には新たな計画が浮かんでいた。それは、蒼真の誕生日に、彼の身体を血祭りに上げるという恐ろしいものだった。


 愛する祐介を失った悲しみと怒りは日々増していき、私の心は復讐の炎で燃えていた。その想いは燎原の火のように私の行動を駆り立てる力となっていた。季節の変わり目に、リスクを承知の上で、憎き男に声をかけた。


「蒼真、もうすぐ誕生日だね。西穂高に登ろうよ。以前約束したじゃない」


 実際には彼から誘われ、約束などはしていなかった。心の奥底に秘めた、死んでも恨みを晴らしたいという切実な思いを押し殺しながら、作り笑いを浮かべて穂高への旅を提案した。その提案に、彼は一瞬驚きながらも、下心があったのかすぐに意味深な微笑を浮かべて頷いた。


 そして、数日後、私は期待と不安を心に秘め、やむなく再び蒼真とともに上高地の旅路へと足を踏み出した。



 脚注(山岳用語)

 ――――――――――

 1. アイゼンは、氷化した雪の上を歩く際に滑り止めとして靴底に装着する、金属製の爪が付いた登山用具です。通常は靴のつま先とかかと側にある、コバと呼ばれる周囲に張り出した部分に、金属のパーツとクリップを引っ掛けて固定します。


 冬山では、慣れた稜線であっても転倒して滑落すれば大ケガをする可能性があり、アイゼンは必要な装備品です。


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