第7話 夜明けの再会

 心地よい雰囲気にあふれたホテルに泊まったとはいえ、その夜、亡き祐介の優しい笑顔が幾度も脳裏をよぎり、なかなか眠りにつけなかった。

 部屋の窓からは、夜霧に覆われた上高地のシンボルともいえる穂高連峰の壮大な姿が望めた。まだ夜が明けていないのに、山並みに厚い雲が動いているのに気づいた。


 夜明け前の霧が立ち込める静けさの中、人影もないホテルを後にし、パメラさんの言葉を胸に秘め、ヘッドライトと上弦の月や星あかりを頼りに明神池へと向かった。


 針葉樹林に囲まれた遊歩道を歩きながら耳を澄ますと、梓川からせせらぎが届き、河童橋が目に飛び込んできた。


 時計を確認すると、秘められた新しい事柄が始まる黎明を告げる時刻にはまだ早い午前五時だった。夜明けは六時頃だろうか……。


 ならば、明神池にたどり着くころに夜明けを迎えることになるかもしれない。一刻も早く、祐介に会いたいという切なる思いを抱きながら、足を急いだ。



 この時間には私の期待通り、河童橋には観光客が戯れる昼間の喧騒など何処かに消え去ったようで、私の切ない思いを邪魔する人などひとっこひとりいなかった。それは好都合のことだった。


 まして、見ず知らずの人に向かって、亡くなった祐介の魂に会いに行くなどと口にしたら、分別を失った女性だと笑われてしまうだろう。


 梓川の脇道をしばらく歩いて行くと、ところどころに湧水の溜まる池もあり、突然視界が開けて梓川の清流と美しい山岳景観が目に飛び込んできた。左手には神々しくそびえる明神岳が見えてきた。その麓には穂高神社の奥宮が鎮座している。


 昨夜のホテルから約五十分で、朝焼けに染まりつつある明神池が目の前に広がっていた。それは、二度とないかもしれない運命の時だった。私は間に合ったことにほっと安堵し、まだ会うことが許されないこよなく愛する彼に向かって、思わず囁いた。「祐介、もう少し待っていてね。今すぐ、そこに行くから」と。



 明神池は夢が叶うと言われる千成瓢箪の形をしており、ふたつに分かれている。祐介が眠るのはどちらだろうか……。定かでなく迷いに迷ったが、パメラさんから預かったタロットカードのイラストを信じて、お社がそばに鎮座する一之池を選び、龍神の顔を彩る赤い舟が揺らぐ桟橋に向かった。


 その水は波打つことなくどこまでも透き通っており、鏡池の如く天から降りそそぐ光に覆われていた。澄んだ空気と静寂に包まれた幽玄の世界で、小舟に身を委ねて上高地の神からいざなわれるように中の島へと進んでいった。


 夜明けの訪れとともに飛び立つ鳥の囀ずりが耳元をかすめる中、私自身も新たな旅立ちを感じていた。空を見上げると、朝焼けが穂高連峰を赤く染め上げており、上弦の月が顔を覗かせる雲海に虹の架け橋がかかっていることに気づいた。まるで、祐介が亡くなったジャンダルムへと私を誘うかのように……。


 

 中の島に足を踏み入れると、涙が頬を伝うままに、上高地の神々の導きを信じ、ただひたすら祐介との再会を願っていた。そして、運命のタロットカードを二枚託してくれたパメラさんの期待にも応えたかった。この世ではあってはならない力を呼び覚ますため、精いっぱいの願いを込めて、おもむろにカードを二枚重ねて朝焼けの虹が架かるジャンダルムへと高く掲げた。


 半信半疑ながらも目を閉じたままで、奇蹟が舞い降りることを待ち望んでいた。すると信じられないことに、本当に奇跡が起きたのだ。私の切ない思いを神々が察してくれたかの如く、突如として、遥か彼方の雲海を漂う上弦の月から一筋の鮮やかな光が届き、池の水面には波紋が広がった。


 目を凝らして見続けていると、虹の架け橋を渡ってまるで白蛇が化身したかのような、この世のものとは思えない美しい女性が小舟のそばに現れた。この地は、羽衣をはおった女性の登場とともに冥界の門が開かれたかのように様変わりしていった。彼女は、私の切ない心を見透かすように涙を流し、静かな口調で問いかけた。


「あなたはどなたを探し求めているの?」


 彼女の声は言葉ではなく、水音のように私の心の中にそっと忍び寄る神秘的なものだった。彼女の類まれなる美しさと哀しみをたたえる眼差しに打ちのめされ、暫し言葉を失った。羽衣の女性の存在は、私の心の奥底まで深く刻まれ、忘れられない記憶となった。それは、まるで夢のような、現実と幻想が交錯する不思議な体験だった。


「はい、私にはこよなく愛した人、祐介がいました。彼にもう一度会いたくて、ここにやって来たのです。祐介はなぜ、黄泉の国へと旅立ったのでしょうか? その真相を、どうか教えてください」


 彼女は、自ら世の善悪を天秤にかける冥界の使者だと名乗ってくれた。私は心に秘めた熱い思いを包み隠さずに語った。彼女との出会いは、パメラさんの啓示と似ており、運命的なものへと変わりつつあった。彼女は私の告白をひとことも逃さず、優しく耳を傾けてくれた。 


 告白を聞き終えると、彼女は遥か彼方の空を見上げ、冥界の入り口を示す羅針盤を覗き込みながら、呪文の言葉を唱え始めた。そして、黒曜石に輝く懐中時計を取り出し、静かに呟いた。その仕草は、かつてパメラさんが見せてくれたものと、ほとんど同じだったような気がした。


「少しだけ、時間をください」


 彼女がそう告げると、突然、時計の針は過去の歴史をさかのぼる如く逆転の舞を踊り始めた。羅針盤は七色の光を放ちながら、その針が一周、二周と加速し、三周目で突如として静止するのを見守っていた。


 覆っていた霧が徐々に晴れ、現れたのは雲海に包まれた幻想的な暁の空。清々しい朝に向けて息づく赤らんだ空を指さし、彼女が力強くも切なげに叫んだ。

 彼女は冥界の裁判官として、祐介の亡くなった理由をすぐに悟り、それが許されない罪による悲惨な行為だったと判断し、私を手助けしてくれたのかもしれない。


「祐介よ、会いたい人がここにいます。早く舞い降りてください」


 彼女の叫びが届くと同時に、空気が神々しく震え、池の水面に一筋の光が差し込んだ。そして、そこにはかつての恋人、祐介の姿が現れた。彼は微笑みながら、まるで今にも会いたくてたまらなかったかのように、私へと手を差し伸べていた。

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