第6話 運命のノート
半信半疑ながらも、祐介の死の謎を解き明かすべく、この旅にすべてを賭ける覚悟を決めた。万が一、私の命を賭すとしても……。
だが、キリスト教の聖書で描かれた『最後の審判や晩餐』のように、穂高連峰が血で穢されることは望んでいない。ただ、祐介に会いたい一心で日常の疲れを癒やすため、今宵だけは少しの贅沢を自分に許すことにした。
しかし、上高地には一夜を過ごすのに魅力的な宿が数多くあり、どれを選ぶべきか迷っていた。もしかしたら、これが旅の最後の宿になるかもしれないという不安が心をよぎっていたのだろう。
自分では決めかねていた私は、今宵の宿を決める運命をカミラさんが授けてくれた「Λ(ラムダ)」というギリシャ文字が描かれたカードに託した。その文字は、どことなく三角屋根を思わせる形をしていることに気づいた。
そして、私はそのカードから導かれるように、北アルプスを彷彿とさせる赤い三角屋根と木の温もりが感じられる山小屋風のホテルを選んだ。その屋根は雪の重みに耐える急な勾配で、大きな煙突が空へと伸びていた。まさか、その時はこれが運命の分かれ道になっているとは、私自身思いも寄らなかったのだが……。
そのホテルは決して新しい宿泊施設とは言えなかった。だが、かつて祐介とともに新婚旅行先として夢に描いた、身も心も清めてくれそうな梓川のせせらぎが届く、大自然に溶け込むホテルだった。
「この宿なら、心の安らぎを見つけられるかもしれない」と私自身に言い聞かせながら、ホテルの門をくぐった。ここからなら、目指す明神池まで徒歩で一時間ほどでたどり着ける。明日の夜明け前の静寂の中でも、早立ちすれば女性ひとりでも安心して目的地へ歩いていけるだろう。
夜が更けゆく中、山々に囲まれたそのホテルは、緑の息吹と共に静寂を纏い、ほんのりと灯るあかりが時間の流れを穏やかに止めている。カラマツの木々は、その温もりで訪れる私を優しく迎え入れてくれる。
ロビーに足を一歩踏み入れると、まるで別世界への扉を開くかのようだった。白銀が木枯らしに舞う上高地の写真が目に飛び込み、「ここは、神々が宿りし、変わらぬ自然が悠久に息づく聖地」と刻まれた額縁が、訪れる者にこの地の深い歴史と誇りを静かに語りかけている。
この言葉は、私にも上高地の深い歴史と誇りを感じさせるものだった。ホテルのロビーは、ただの宿泊客たちの通り道ではなく、時を超えた物語が息づく空間であり、自然の神秘と人々の尊敬が交わる、永遠の聖地としての風格を持っている。
夜遅い時間にもかかわらず、フロントに立つ彫りの深い顔立ちのハンサムなホテルマンは、訪れる私を温かく迎えてくれた。
「ようこそ、当ホテルにお越しいただきました。よかったら、この地にまつわる写真のアルバムや本も取り揃えてありますから、ご覧ください」と彼は伝え、私を今宵泊まる部屋に案内してくれた。
彼に案内された部屋の窓辺からは、暗く深い山並みが広がり、耳を澄ませば川のせせらぎと星空に奏でられる自然の調べが、心地よい安らぎを与えてくれる。この晩夏の夜、私は手が届くような星々の光に包まれながら、時の流れを忘れ、自然の美しさに身を委ねることができた。
しばらくすると、彼の温かな言葉を思い出し、私はロビーの書棚に足を運んだ。目を引いたのは、年月を感じさせる一冊のノートだった。その表紙には、池の中の島で荼毘に付される亡骸を見守る龍神の神秘的なイラストが描かれていた。
そして、その龍神が憩う池には、不思議なことに私の手にあるタロットカードと同じ紋様が鏡のように映し出されていた。このホテルの扉を開けたその瞬間から、私はまるで別世界に迷い込んだかのような、現実離れした感覚に満たされていたことを思い出した。
山々を愛する者たちの間には、情熱的な文筆家が少なくないという。とりわけ私の興味を引いたのは、ページをめくる手が止まらない「西穂高岳の千里眼姫」と題された伝説だった。この物語は、登山者たちの間で生まれたフィクションかもしれない。
どちらにしても、こんな心地よい夜では酒を軽く飲んだぐらいで、すぐには眠りにつくことは難しいだろう。ならば、この余韻に浸りながら私は深く息を吸って、不思議な物語に心を委ねた。
「遥か遠くの昔から、北アルプスは山伏たちが修行を積む聖地だった。山麓の梓川には、ひとりの可愛らしい少女がいた。彼女は、幼子ながら火渡りや浮身の術を駆使する修験道に魅了され、厳しい精進を重ねていた。」
「美しく成長した彼女は『千里眼の姫』と名乗り、安曇村の名主の妻となったが、修行を続けた。彼女は明神池の前に、家宝である三尺九寸の大刀を神として祀る拝殿を建てた。それは悪を見つけると自ら動き、滅ぼすまで鞘に収まらない御神刀だった。その刀は、村人から平和と正義を守る象徴と崇められていた。」
祐介がこの世を去ったその地に、古の伝説が息づいているとは……。私の手に握られたタロットカードが、何か未知の力を秘めているかのようだ。明神池の深遠なる神秘に触れることで、祐介の死に隠された真実が明らかになるかもしれない。
夜が更け、窓から外を見ると、月明かりが明神池の水面を優しく照らし、周囲はより深く静寂に包まれていた。明日の夜明け前、伝説の地を訪れる。祐介との記憶を胸に刻みながら、真実を求める旅に出る。そう思うと、胸の内は熱くなる。物語はまだ終わっていない。
「千里眼の姫は、刀が勝手に争いを起こさぬよう、しっかりと鞘に収め麻紐で固く結んでいた。しかし、ある日、その御神刀は跡形もなく消えていた。どれだけ探しても見つからない。ただ、祠の中には、氷化した雪の上を歩く際に使う金属製の爪の跡がはっきりと残されていた。」
「気づいた彼女は、千里眼の力を駆使し、盗まれた刀を追って西穂高岳へと足を運んだ。翌日、祠にはその御神刀が戻されていたが、雪に覆われた谷底には、靴の爪が折れた男の遺体があった。その発見者たちは、白蛇が龍神に変わり、威厳のある雄叫びを上げる姿を目撃したと伝えられている。」
「この池には、やはり何か秘密が隠されているのかもしれない」と、私は心の中で秘かにつぶやいた。千里眼の姫の祟りが、もしかすると祐介の死の謎を解き明かす鍵になるかもしれない。
そのノートは、北アルプスを愛する登山者たちが残した寄せ書きの日記だった。祐介もかつてこのホテルに滞在していたかもしれない。彼の筆跡を探してページをめくると、彼のペンネームで記された言葉が目に飛び込んできた。そこには、さらに何かを訴えかけるような不穏な叫びが刻まれていた。
「蒼真が、僕と真理の関係に嫉妬しているんだ。神聖なる山の静けさの中で、彼によって僕の運命が決まるかもしれないという恐怖が、心の奥底から湧き上がってくる」と。
涙で滲んだページは、祐介の深い不安を物語っていた。こんな悲劇が現実の世の中で起こり得るものかと、私は驚きと共に心を痛めた。蒼真の目に触れることがないように、そして出発直前に書かれたその言葉は、祐介がこの世に残した最後のメッセージだったのかもしれない。
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