第5話 明神池の伝説

 お盆の静寂が深まる時期に、忙しい日々から一時的に離れて、祐介の思い出と共に上高地への旅を始めた。晩夏の爽やかな風が心地よく、パメラさんの温かい言葉に背中を押されて、祐介との再会を心待ちにしていた。


 新宿駅から出発する特急あずさ号の夜行列車にひとり乗り込み、一泊二日の旅程が始まる。薄暮が迫る中、中央線の線路は遠く山々へと真っ直ぐ続き、まるで祐介の声が耳元で「早くおいでよ」と囁いているかのようだった。


 車窓からは、新月の下で穏やかに照らされる田園風景が広がっていた。約二時間半の旅路は、日常からの解放感と一緒に過ぎ去り、岡谷に到着する頃には、すっかり夜が訪れていた。このひとり旅は、私にとって、過去と現在、そして未来への架け橋となる、感慨深いものであった。


 さらに中央本線と飯田線を乗り継ぎ、沢渡には午後九時過ぎに到着した。空はすでに濃い藍色に染まり、街灯の明かりがぼんやりと浮かび上がっていた。夜の静けさが辺りを包み込み、遠くから聞こえる秋の訪れを告げる虫の声が、その平穏を一層際立たせていた。


 沢渡から今夜の宿までは、上高地の自然を守るための乗り入れ規制に従い、夜の沈黙を切り裂くタクシーの灯りを頼りに向かった。 


 私の掌には、パメラさんから受け取った二枚のタロットカードが、あたかも出番を待つかのように、手の中で熱を帯びていた。明日の早朝、そのカードを携えて明神池へ向かえば、祐介の死の謎が解けるかもしれないという期待が、心を突き動かした。


 明神池には、古くから語り継がれてきた神秘の伝説が幾つも息づいている。上高地に近づくにつれ、祐介がかつて語った言葉が耳元で囁くように蘇る。


 伝説の池には、遭難し成仏できぬ霊を慰める神が宿るという。かつてはやむなく池の畔で故人の亡骸を荼毘に付したこともあったという。霧が深く立ち込める夜明け前に湖畔からボートを漕ぎ出せば、神が亡き者との再会を叶えてくれると、彼は教えてくれた。 


 ♪


 上高地への道すがら、新しく掘られた釜トンネルに差し掛かると、辺りは闇に包まれ、星空が輝いていた。このトンネルは、心霊スポットとして名高い釜ヶ淵トンネルではないものの、たまたま乗り合わせたタクシーの運転手が真剣な眼差しで、不穏な話を始めた。


「かつて使われていたトンネルは、この近くだ。大嵐で閉鎖されたが、今でも不思議な現象が起こるんだよ」彼の言葉が、夜の静けさを破った。


「閉鎖されたトンネルからは、夜になると亡霊のような人魂が見えるらしい。まるであの世への扉が開いているかのようだ」


 バックミラー越しに運転手は鋭い眼光で私を見つめ、話を続けた。もしかすると、人通りのない道を走りながら、暇つぶしに一見の旅人である私をからかっているのかもしれない……。そう思うと、せっかく祐介との再会を楽しみにここまで来たというのに、少しだけ癪だった。


「…………。本当ですか?」と暫しの沈黙の後、仕方なく返事をしたが、その声は震えていた。それにもかかわらず、彼の話は「あれを見てごらん」と留まるところを知らなかった。


 運転手が指差した方向に目をやると、梓川の畔に、深みのある怪しい光がふわふわと漂っていた。初夏ならば蛍が儚く光る姿も珍しくないが、これは別の何かのようだった。彼は、さらに私を驚かせるような話を続けた。


「あれは、ただの蛍ではないだろう。深夜、大正池から白い服を着た女性を乗せたことがある。ちょうどこの辺りを通ったとき、彼女は忽然と姿を消した。しかし、夜露で濡れたように座席は湿っていた。これは昨年あった本当の話だよ」と、運転手は低く重苦しい声で呟いた。


「怖い話はもうやめてください」と私は身震いしながらもやっと口にした。


「ごめんなさい、驚かせてしまって。でも、他の運転手も同じことを言っている。穂高岳で遭難した恋人の後を追った女性の話かもしれないと……」


 彼の言葉は、私の心の奥底まで切なく響いた。しかし、私には死ぬという選択肢はなかった。まだ果たすべきことがあるのだ。


 川岸に目をやると、人魂のような光がいくつも空を舞っていた。それらは、運転手の言う通り、山で遭難して亡くなった者たちの未練の証かもしれない。私は穂高を目指す登山者の仲間のひとりとして、心の中で彼らを弔うために祈りを捧げた。


「あの青白い火が見えるだろう。『黄泉の蛍火』と呼ばれているんだ」


 彼はまた薄気味悪い口調で続けた。


「はい、見えますけど……」


 私はそう返事をしながら、切ない思いに苛まれていた。運転手は、そんな私の気持ちを察したのか、突然すまなそうに口を開いた。


「けれど、この上高地は神の聖地で暗い話ばかりではない。人の世には表裏一体の面白い話もあるものだ。雪解けの季節、明神池*¹には白蛇の女神が現れるらしい。龍神に変わる神さまの話もある。もっと知りたければ、宿で聞いてみるといい」


 運転手の言葉に後押しされて、上高地のタクシー乗り場を後にした。振り返ると、彼の姿はもう見えなかった。靄が車ごと包み、消えていった。


 唖然と暫し立ち尽くし、私は夜の空気を思い切り吸い込んだ。やはり、上高地は神宿る雰囲気がそこはかとなく漂う聖地だった。まっ暗闇の世界で一筋の流れ星を見つけ、心を落ちつけてから、河童橋からほど近い今夜のホテルに歩を進めた。 


 パメラさんから預かった、希望を託すタロットカードを握り締めて歩きながら、また祐介のことを思い出した。もし彼がこの世界のどこかで眠っているのなら、どこにいるのだろう。彼は何を伝えたいのだろう。そう思うと、胸が締め付けられた。


 私の心は不安と期待で絶え間なく揺れ動いた。古の時代から明神池に語り継がれる伝説は真実なのか、迷信なのか。しかし、祐介との思い出がある限り、彼は私とともにいるはず。この旅で彼の死の真相を突き止めることが、私の生きがいとなっていた。



 脚注(山岳用語)

 ――――――――――

 1. 明神池は穂高神社奥宮の境内にある聖地で、透明度の高い湧水と青々とした針葉樹に囲まれた美しい景観が魅力です。背後には雄大な明神岳がそびえ立ちます。


 毎年、紅葉が木立を染める10月8日には「明神池お船祭り」が開催されます。神官や巫女によって、穂高連峰で亡くなった者を弔うための儀式が執り行われ、龍顔を模した伝統的な二艘の和船が池を巡る神々しい光景が見られます。平安装束に身を包んだ神官が雅楽の調べとともに船で周遊する姿に、遭難者の遺族が心を打たれます。


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2024年9月29日 12:00
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『朝焼けの詩』ジャンダルムに愛の想いを馳せて 神崎 小太郎 @yoshi1449

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