ねるべし、ねるべし
遠部右喬
第1話
北大路魯山人先生は、著作「魯山人味道」の中で仰った。「納豆は混ぜれば混ぜる程美味い」、と。
食材を活かすことこそが真の美食、これが魯山人先生の哲学である。恐らくはその思想に感銘を受けたのだろう某有名おもちゃメーカーが、この「最高に美味な納豆」を効率よく再現する為の専用器具を売り出した。
魯山人先生のエッセイには、何回混ぜるべしという具体的な数字は書かれていない。それ故、メーカーは器具の開発にあたり、何回混ぜるのがベストなのか実験を行った。実験には味覚センサーが用いられ、その結果、一番コクが増すのは424回混ぜた時であるであることが判明し、無事「納豆を最高に美味しくする器具」の発売に至ったのである。423回でも、425回でもなく、424回。そんな僅かな回数の違いで生じる差を数値化できるとは、味覚センサーとは凄いものだ。
それにしても、「美食家」……なんか……なんとなく、こう……格好良い響きではないか。そう名乗る為に国家資格などを必要としないのもいい。
その言葉にほんのりと憧れを抱いた私は、いつか自分も納豆を424回混ぜてやろうと野望を抱いていたのだが、中々実践に至らずにいた。
何故ならば、我が家から一番近いスーパーはどのメーカーの納豆も高いのだ。
買い物のタイミングが悪いのかもしれないが、私がお気に入りのおかめちゃんマークがキュートな小粒納豆は、常に九十五円以上(税抜き価格)する。他のメーカーのものに比べたら控えめなお値段ではあるものの、下手したらコンビニで買った方がもう少し安いという強気の価格に、「……今日の所は、勘弁したる」と心の中で捨て台詞を吐く日々なのである。
本当に424回混ぜたものが「ベスト オブ 納豆」なのかを確認する為には、様々な回数で混ぜた納豆を食べ比べる必要があるだろう。そうなると、小分けにして試すにしても最低でも3パックは欲しい。5、6パックあればなお良いだろう。が、肝心の納豆が高い!
美食家を装いたし、されど、出費は抑えたし。遠いスーパーまで足を延ばすのも面倒だ――そんな葛藤から、中々試す機会に恵まれずにいたのだ……が。
なんとこの日、いつものスーパーでおかめちゃんが七十円台で売られていたのである。心の中で快哉を叫び、1セット3パック入りを2セット買い物かごに放り込んで、うきうきと会計を済ませ帰路に着いた。
――午後三時、おやつ時。
目の前には2セットの納豆がある。夕飯はケ〇タッキーのチキンフ〇レバーガーにしようと心に決めていたので、納豆はおやつ代わりに食べることにしたのだ。
ここに来て、ふと、今更ながらの疑問を抱いた。
「いくら健康食品とは言え、この量の納豆を一度に食して良いのだろうか」
グー〇ル先生にお尋ねした所、血液凝固を防ぐ薬を服用している方には納豆に含まれるビタミンKがよろしくない、と書かれた記事を発見した。その他に、意外とプリン体が多いとか、イソフラボンも豊富なのでエストロゲンの分泌がしっかりしている方の過剰摂取は推奨しない等、カロリーや腸内細菌への影響なども考慮すると「一日45g程度の摂取が望ましい」との記述がある。
改めておかめちゃんに掛けられていた外装フィルムを確認すると、「内容量 納豆50g×3」と記載されている。
あれ? 1パックで摂取量ちょいオーバーじゃん。それを6パックか。
――うん、まあ、毎日この量を食べる訳でもなし、一食くらいは平気平気――
胸の裡でそう呟きつつ、まだ未開封だったことを幸いに、1セットをそっと冷蔵庫に戻す。一体、何時からこんな守りの人生に入ってしまったのだろうと情けなく思うも、「痛風とか、怖いもんは怖いんじゃ」、これもまた本音なのだ。
さて、気を取り直し、3パックの納豆でお楽しみタイムに突入である。
用意するものは、納豆×3パック、小鉢×4鉢、醤油と辛子、刻み葱適宜。以上である。
出来る限り「魯山人味道」の記述通りに実践する心算なので、今回はパック付属のタレは使わず、醤油を用意した。手順は以下の通りだ。
1. 納豆を4鉢に分ける。それぞれをA、B、C、Dとする。
2. Aの納豆を100回混ぜる(50回混ぜたタイミングで醤油、辛子、刻み葱を投入。その後50回混ぜる)
3. Bの納豆を200回混ぜる(50回、100回混ぜたタイミングで都度、醤油、辛子、刻み葱を投入。その後100回混ぜる)
4. Cの納豆を420回混ぜる(50回、100回、200回混ぜたタイミングで都度、醤油、辛子、刻み葱を投入。その後220回混ぜる)
5. Dの納豆を424回混ぜる(200回混ぜるまでは4と同工程。その後224回混ぜる)
6. A~Dを食べ比べる。
*公平を期すために、投入する醤油、辛子、刻み葱は全ての鉢に同量とする。
A、B、Cの違いは、流石に私でも分かるのではないかと予測する。重要なのは、CとDの違いが分かるのか、という事だ。この違いが分かる様なら、明日からはドヤ顔で「美食家」を名乗っても良いだろう。
私はAの納豆を混ぜ始めた……途端、アクシデントが発生した。
我が家の猫二匹が、私の周りをうろつき出したのだ。普段は人間の食事に興味を示さない二匹だが、こういう時に限って、交互に納豆入り小鉢を覗き込んだり私の腕に頭突きをかましてくる。それをガードしつつ、なんとかAの鉢を混ぜ終えたところで、実験用具(納豆達)を抱え、居間から脱衣場へ移動した。ドアの外では猫達が「ここを開けろ!」と借金取りの如く騒いでいるが、心の中で平謝りしつつ聞こえないふりを決め込み、実験再開。
Bの鉢は、特に何事も起きずに無事混ぜ終えた。この調子でCに取り掛かる……と、途中でまたもやアクシデントが発生した。
練りが300回を超えた辺りで、腕が疲れて来たのだ。
A、Bと混ぜてみて気付いたのだが、納豆を100回近くかき回していると、糸が増えるせいか、意外と箸が重くなってくる。途中で足した醤油などにより多少緩くなりはするものの、既に三鉢目である。600回近く納豆を練り続けた結果、普段使わない部分の筋肉が文句を言い始めた。だが、後はほんの100回程混ぜるだけだ……ほんの……いや、地味に「ほんの」が効いて来るな、コレ。
幸いにして、混ぜの合計回数が350回程になる辺りで糸の質が少し変化し、重みよりも滑らかさの方が勝るようになった。よし、いける。
ともあれ、Cを混ぜ終え、ようやくDに取り掛かる。最後の力で424回無事混ぜ終え、なんとか「いざ実食」までたどり着く。
気付けば脱衣場の外はすっかり静まり返っているが、油断してはいけない。猫という生き物は、待ちの狩りをする生き物だ。扉一枚隔てた向こうで、彼等が私という
まずはA。私は普段納豆を食べる際にはあまりかき混ぜない方なので、この時点で既に違いを感じる。普段より糸を多めに纏った大豆は箸に絡み易く、いっぺんに結構な量が持ち上がるお陰で、一口の満足感が凄い。美味しかった。
次にB。見た目からしてAとの違いがある。糸というより、そこに纏わる気泡の存在感が大きい。その泡のお陰か、口に入れた大豆がAのものよりも滑らかに感じられる。成程、確かにこれは美味しい。食べ応えが欲しいならA、滑らかさを求めるならBと、好みでねり分けても良さそうだ。
さてC、Dだが、当然というか、こちらの二鉢の見た目はほぼ一緒である。そしてA、Bとの圧倒的な違いは、そのエアリー感だ。ねりあがった糸は気泡を通り越し、完全に泡立っていて、そこに豆が混じってるような状態である。大豆の表面も明らかにつるりとしていて、一瞬ならば、タピオカ入りのカプチーノにも見えない事もない。滑らかさを備えつつもしっかりと一塊になったそれは、例えるなら冴えない色をしたスライムのようだ。
Cの鉢を手に取る。混ぜている最中はあんなに重く箸に絡んで来たというのに、いざ実食の段になるとふわふわと豆が逃げてしまい、中々上手くいかない。仕方なく、行儀悪くも小鉢から口へダイレクトに流し込む。
「これは飲み物ですか?」「いいえ、納豆です」……独特のぬるん、つるん、とした食感に、脳内の小人たちがそんな会話を交わす。流石に「飲み物」は大げさにしても、明らかにA、Bと違う食感、というか喉越しに驚いた。うん、美味しい。とても美味しい……が……
「Bの方が美味しい……ような……?」
この感想を持った時点で、既に味覚センサーに負けているということである。当然、この後に食べた、4回しか混ぜ回数が変わらないDとの違いなど、私に分かる訳がなかった。
私に、「美食家」と名乗る資格はなかった。それが分かっただけでも良しとしよう……消沈しつつ脱衣場のドアを開けると、既に猫の姿は無かった。彼等は違いの分からない人間の事など、とうに見限っていたのだ。
寂寞とした思いと小鉢達を抱え、私は洗い物をする為にキッチンへと向かうのであった。
ねるべし、ねるべし 遠部右喬 @SnowChildA
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