葉見ず花見ず

遠部右喬

第1話

 あれは、十年以上前の出来事――



「ねえ、おばあちゃん。あの人、あそこで何してるの?」


 私は、右手に繋いでいた祖母の手を軽く引っ張り、小声で訊ねた。


 その日、私達一家は法要の為、少し離れた処に住む祖母の家を訪れていた。薄青く高い秋空は澄んでいるのに、時折、やけに生温い風が吹く日だった。

 法要は一時間程で終わり、私と祖母は散歩に出た。そして、そのおじさんを見掛けたのだ。


 祖母の右手側に広がる原っぱの道端寄り、その五メートル程先に、真っ赤な花の一群があった。その中に、少し猫背のおじさんが一人、太陽に背を向けて、なんだか寂しそうに俯いて立っていた。

 祖母も既にそのおじさんに気付いていたのだろう。繋いでいた私の手をぎゅっと握り、前を向いたまま少し怖い顔で、


「しっ、気付かない振りをして。お顔は前に向けたままにするの」

「どうして?」

「後で教えてあげる。兎に角、前を見て歩くの。おばあちゃんが『いいよ』って言うまで、お話ししても駄目」

「……はあい」


 私達が少しだけ急ぎ足になっておじさんの横を通り過ぎる時、大輪の花が風にパタパタと揺れる音が聞こえた。思わずそちらを向きそうになった私の手を、祖母が引っ張る。慌てて前を向く私をちらりと見て、祖母は微かに頷いた。


 原っぱから随分と遠ざかってから、


「もう、いいよ」


 やっとそう言ってくれた祖母に、私は知らずに詰めていた息を大きく吐いた。


「ねえ、あのおじさんは誰? 何してたの?」

「あの人は、もう居ない人」

「? いないひと? おばあちゃんも見たでしょ?」


 首を傾げる私に、祖母が困った様に笑う。


「そうだね。ゆきちゃんにもんだもんね」

「うん」

「でも、さっき見た人のことは、お父さんとお母さんには言わない方がいいよ」

「なんで?」

「それも、後で教えてあげる」


 そんな話をしながら、私達は手を繋いで歩き続けた。あの後は原っぱを避けた為、家の前の道に戻るまでに随分と時間が掛かってしまったっけ。

 祖母の家に帰り着くと、歩き疲れた私の為に、祖母は座布団と薄掛けを用意してくれた。早速横になった私の横で、同じ様に横になった祖母が、


「おばあちゃんも、ゆきちゃんと同じ。居ない人……幽霊が見えるの」

「え、あのおじさん、ゆうれいだったの」

「そう。幽霊は、見える人と見えない人が居るの。ゆきちゃんのお父さんとお母さんは見えない人だから、こんな話をしたら、怖がっちゃうかもしれないでしょ? だから、内緒にしておく方が良いの」

「……ゆきも、こわい……」

「大丈夫、幽霊なんて大したことはしないから。でもね、曼殊沙華の咲く時期は、よーく注意しないといけないよ」


 聞き慣れない名前に、私は首を傾げた。


「まんじゅさ……しゃ、げ?」

「曼殊沙華。さっき沢山咲いてた赤い花のこと。多分、ゆきちゃんのお家の周りには生えてないから、知らなかったんだね……他の幽霊は別にいいの。でもね、花開いた曼殊沙華に触れてる幽霊は、見たらいけないよ」

「どうして?」

「曼殊沙華はね、『葉見ず花見ず』とも言ってね、葉っぱと花が同時に生えてくることは無いから、そんな風に呼ぶんだよ。葉も花も、決してお互いを見ることがないの」


 祖母は少し怖い顔になって声を低め、


「それと同じで、死者はあの花に触れている間は、決して生者に見られてはいけない。もし見られてしまったら……」


 私はごくりと息を呑んだ。


「ただの幽霊が、恐ろしい何かに変わってしまう。それで、自分を見た人を連れ去っっちゃうんだよ」

「どうしてそんなことするの?」

「……ゆきちゃんも幼稚園でかくれんぼしたことはあるよね? 鬼に見つからないようにする遊び。あれと同じで、昔からそういう決まりなの。誰がそう決めたのか、何でなのかは、おばあちゃんも知らない。幽霊にも、どうしてかは分からないんじゃないかねえ」


 私は祖母にしがみついた。


「連れてかれちゃうって、どこに?」


 祖母は私の背を優しく撫でながら、うーん、と唸って、


「根の国、かもね」

「根の国?」


 死んでしまった人達が行く世界を「根の国」って呼ぶの、屹度、曼殊沙華はこの世と根の国に跨って生えてるんだろうね……そう教えてくれた。


「そんな怖い花、だれが植えてるの? ぜんぶ抜いちゃえばいいのに」

「あれは球根……根っこだけで増えるんだけど、植えた覚えがなくてもいつの間にか生えたりもするから、ちょっと抜いたくらいじゃきりがないんだよ。それに、おばあちゃんやゆきちゃんみたいに人以外には、ただのお花だからね。お花は何も悪くないし、抜いちゃうのは、ちょっと可哀想じゃない?」

「……うん。かわいそうかも」

「でしょう? だから、この時期は気を付けてね。絶対に、曼殊沙華を見落としたらいけないよ」

「うん」

「さ、もうお昼寝しなさい。起きたらおはぎを作ろうね。お母さんと一緒に、お手伝いしてくれるよね?」

「うん!」



 ――その後も私に色々なことを教えてくれた祖母は、一月ひとつき前の夏の終わりに根の国に旅立ってしまった。悲しかったけど、私は子だもの。もしかしたら、祖母が会いに来てくれるかもしれない……そんな風に自分を納得させていた。


 だから、夜中に水を飲もうとキッチンでコップを手に取り、何気なく窓を覗いた時。

 庭の片隅で、漏れた明かりの中に浮かぶ見慣れた背中に、迷わず声を掛けたのだ。


「おばあちゃん!」


 おばあちゃんが私を振り返った。その瞬間、あの日の事を思い出した。


 曼殊沙華の季節は、いつもより気を付けなければいけなかったのに。ああ、でも大丈夫、庭に曼殊沙華なんて誰も植えてないもの。ほら、おばあちゃんだって笑ってくれて……少し悲し気な顔になって……消えた。


 おばあちゃんの立っていた場所には、いつの間に咲いていたのか、すらりと茎を伸ばした、大きな、毒々しい程に美しい真っ赤な花が一輪。


『だからあれほど言ったのに』


 耳元で囁かれる、酷く割れた、笑いと怒りがこびりついた声。背後から私の両目を覆う、しわしわでいびつな手。

 私の手からコップが滑り落ちる。


 それが割れる音を、私が聞くことは無かった。

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葉見ず花見ず 遠部右喬 @SnowChildA

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