光と闇の花嫁

月詠 透音(つくよみとおね)

光と闇の花嫁

 光より来りて闇へと還る


 流転する万物のなかで


 乞い願わくば

 災禍の渦の中であろうが


 ひと時の安らぎのあらんことを


 □


 ふたたび、意識がもどって来る。

 夏の早朝なのだろう、と思った。



 久由岐(ひさゆき)の吐息がわたしの髪をくすぐるように揺らしている。

 彼の太い首筋を両手の平で包み込むように撫でる。



 早朝の時間はクーラーを切り窓を開け放っており、昼間とは全くちがう涼しくも柔らかい風が肌にあたっている。


 隣家の洗濯機を回す音が聞こえ、通りもまだ静かで車の量も少ない。


 直線的で強い日射しが私の背中から尻にかけて射しており、痛みに似た感覚で肌をとらえているのが感じられる。


 シーツの感触とはちがう、体温と硬く厚みのある男性の体の質感に全身を這わせる。

 彼の呼吸に膨らむ胸郭を、広がりのある背中を、力強く隆起した臀部を自身の肌で感じとってゆく。


 敏感になった私の神経が男の熱を吸い、取り残しのないように、それだけを味わうように繰り返してゆく。


 そう。

 全てを自分のものにするように。



 □


 ようやく、大人と呼べる年齢になって気づくことがある。

 久由岐は、母の再婚相手の連れ子であり年上の男の子だった。


 幼い頃から、私は義兄である彼を光として見つめてきた。

 彼の傍らでは、全てが光の小さな粒となって輝いており、私の心の奥底までを同じ光に変えてゆくようだった。

 彼の声が私の耳を優しくくすぐり、笑顔が私の心に刻まれるたびに、胸の奥から柔らかな光が生まれると広がり、闇にふるえる魂を温めてくれた。



 彼と過ごした夏の日々を覚えている。

 湿度のある庭先で遊びながら、彼が私の手を引いてくれたあの感覚と感情。

 夕暮れ時、木漏れ日が私たちの周りに赤黄金あかこがねの光を注ぎ、彼の影が私の前に長く伸びていた。


 その影の中に身を潜め、私は彼のすべてに浸っていた。


 ―――― その影の中で


 私は彼の全てに包まれ、光と影が織り成す世界に身を委ねていた。

 その存在が、私を現実の輝きから遠ざけ、湿り気のある幻想の中で光と闇が交錯する舞台を創り出していたのだ。



 そして、その自身の感情は、知らぬ間にそれ自身を食らい尽くしてゆくとも知らないままに。



 □


 だが、義兄から「結婚する」と聞かされた瞬間、私の中で何かがひび割れた。


 よく言われているところの 薄氷の上を歩いていた足元が突然崩れ落ちるような 感覚だった。


 義兄・久由岐という私の光。

 確実にあると信じて疑わなかった、いつもいつまでもそこにある、一歩先の足を降ろす場所が失われてゆくのが信じられない。


 心の中に黒い影が遠まきに渦巻きはじめると、それは浅い呼吸を繰り返すたびに忍び寄ってくる。




 結婚式の日、義兄は私に微笑みかけたが、その微笑みはもう私だけのものではなかった。

 言葉では理解できる『それ』を信じたくなかった。


 式場の華やかな美しさ、人間の喜びと輝き。

 その真っ白い輝きを体中の細胞が息を止めたように否定している。しかし、現実に視界に入って来るまばゆいものは、否応なく斧となって心の扉を砕きこじ開けてくる。


 義兄の隣に立つ彼女、私の義姉となるその人が、彼の視線をすべて奪っていた。

 私の胸郭は痛みでじれるまでに締め付けられ、背中の筋肉が拘縮し、呼吸さえも困難に思える。


 白いウェディングドレスを引き立てるように赤い布が敷かれたバージンロードを、二人は手を取り歩く。

 なぜ、そこを歩くのは私ではないのか。

 手を取るのは、私ではないのか。

 光を一身に浴びるのは、私ではないのか。


 神父の前で義兄が花嫁と視線をかわし、理解したがたい何らかの行為をおこなう。

 私の中で暗く冷たい嫉妬と憎悪の黒い闇がそれに合わせて広がっていった。



 寒い。


 夜が訪れ、暗い部屋に一人取り残された私は、布団の中で震えていた。

 満月の冷たい光だけが窓から差し込み、床に影を落としている。

 その影を感じながら、涙が止めどなく溢れた。


 彼が私の光であり続けることが、それでも頑なに信じていた何かが涙とともに流れだし、この世界から消えてゆくのを認めざるを得ない。


 その夜から、私の魂は光と温度をうしなった。


 □


 日が経つにつれて、私の心の中に渦巻く嫉妬が、すべてを覆い尽くすまでに大きくなっていった。

 妻である彼女が、私の義兄の光を独占することなど、どうしても、どう考えてもおかしい話であり、許せるわけがなかった。


 彼が彼女に微笑みかけ、優しく語りかける姿を想像するだけで、私自身の表情が歪み、憎しみが膨れ上がり、心の周辺を崩してゆく。

 この破壊を、もう自分で抑え込むことが出来なくなっていると気づくのに時間はかからなかった。



 ついに私は二人が庭で一緒に過ごしているのを見てしまう。


 優しくもゆったりとした時間と光が流れゆく庭の片隅。

 彼女が義兄の肩に頭を預け、彼がそれに応えるように彼女の髪を撫でていた。

 そのまま義兄は何か言葉をかける。


 その言葉が風に乗り私のもとに届いた時、すでに終わっていたものが、終わりの始まりとして私のなかで硬くひび割れた音をたてた。



「どうして……どうしてあの人が彼の隣にいるの?」


 もう幾度も発した心の中の声が、幾千幾万とリピートされる。叫びながら、私はこぶしを握りしめた。


 久由岐が奪われた世界で生きていくことなど私にはできない。

 彼は私だけのものだったはずなのに、光が奪われた現実に、もはや私の心は耐えられなかった。


 □


 私は一つの決意を固めた。


 これ以上、彼女に義兄を取られるくらいなら。


 ―――― このような理不尽がこの世界というのならば‥‥…


 私はこの世界から消え去るしかない。ある晩、世界のどこかで、私は眠りにつく前に静かに自らの命を絶った。



 □


 午前二時十七分。


 叫び、跳ね起きる。

 悪い夢を見たのは、おぼえている。



 ―――― 自身の存在が、そして愛する人が得体の知れない『何か』に奪われてゆく。

 恐らく、そんな薄気味の悪い夢だった。



 半身を起こすと首を左右に振り、すこし残る頭痛を振りはらう。


 寝息が聞こえる。

 となりを見下ろすと穏やかな顔で眠る夫、久由岐の姿があった。


 彼と結婚式を挙げて早くも二週間がすぎていた。


 クーラーの作動音が小さく聞こえ、部屋の湿度と温度は快適に保たれている。


 遮光が完全に効いた部屋のなかで、ベッドに身体をもどす。

 互いに全裸のすがたであり、事後のようである。



 かすかな男の汗の匂いを感じると、じくじくとした性欲が熱をもって這いずりはじめた。


 私の夫だもの、私のモノだもの……


 私の頭の中をその言葉が支配した。

 身体が勝手に動くと、唇を強く吸い、その全てを奪うかのごとく彼の身体をむさぼった。


 久由岐はときおり身体を動かした。

 しかし、それは私への反応ではなかった。


 身体の隅々までを、舌で舐めあげ、手のひらで擦り、柔らかに張る胸をおしつけ、濡れそぼった股で挟み込んでも

 脳髄から背骨がしびれるような快感に口が半分開き吐息が吐き出されてゆくも。


 眠り続ける彼は、私に何も、何ひとつも返さなかった。


 ———— 恍惚の中で、夢を思い出す


 自身の存在が、そして愛する人が得体の知れない『何か』に奪われてゆく。

 その内容を鮮明に思い出した時、強烈な眠気に襲われて私は目を閉じる。



 ―――― また朝は来る。


 久由岐と迎える朝は、のように私の前にあるのだ。






 暗闇の中で、そう信じて。





 ■■■


 この物語は、

 犀川 よう @eowpihrfoiw 様の

『光の届かぬ愛』という作品からヒントを得て創作しました。

 この物語とは比較にならない素晴らしい作品ですのでぜひご覧ください。

 *ホラージャンルのお話しではありません。

 https://kakuyomu.jp/works/16818093083075624584/episodes/16818093083076490668







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