光の届かぬ愛

犀川 よう

光の届かぬ愛

 義兄の部屋に潜り込み寝ている彼にしがみつく。クーラーの冷気を浴び続けた肌はひんやりとしている。硬い胸の表面は熱を奪われていて、冷蔵庫に入っている鳥肉のような温度と質感になっている。わたしは自分の肌を彼に吸い付けると、わたしの熱が彼に伝わっていくような、あるいは彼の熱がわたしを溶かしていくような感覚になる。密着することでしか感じ得ない愛を超えた確信というものが、わたしの胸の中へと染み込んでいく。

 彼は起きることもなく天井に向かって寝息を立てている。厚い胸板と同期するように喉仏がすうすうと動いている。その隆起した生命を眺めていると、安堵する気持ちに中にわずかな性欲のようなむずむずとしたものを覚えてきた。わたしは裸で密着していることで満足しようとしていた自分の節度を破り、彼の喉仏に唇を合わせる。そしてゆっくりと口を開きながら彼の喉元に浮かぶ島を飲み込む。彼の肌とのような感覚を味わいながら、わたしは彼のその先端に舌を合わせる。

 そっとそしてずっとずっとこの愛撫をし続けられることを夢見る。わたしはひんやりとした部屋の中で自分の気持ちや欲望を満たしながらも、魂をすり減らして死にゆく自分を作り上げていく。なんでもない夜に、なんでもない愛のかたちを籠めることによって、わたしは心の自裁をして光を失っていく。


 夏の終わりも見え始めると途端に悲しい気持ちがやってくる。たまに吹く秋を予感させる淋しさという風を感じると、あれだけ嫌だった暑さが懐かしくなる。人は何かをしているうちはうんざりとしていても、終わりが見えると勝手に淋しさを覚える。スポットライトのような熱のある光を浴び続けているときには倦厭していながらも、その光線が自分から逸れた瞬間、存在を引き裂かれたような淋しさと悲しみを覚える。わたしにとってその光とは義兄であった。

 再婚してやってきた義父の連れ子。わたしにとって六歳上の彼は、幼くして亡くなり記憶にも存在しない父のかわりであった。小さい頃から彼はわたしの世話をよくしてくれたし、保護者としての責務を十分なまでに果たしてくれた。幼いわたしにはまだ眩しすぎる現実という光量にも立ちふさがってくれ、わたしはいつも彼に守られてきた。光りある者は影を作り弱い者に安心を与えてくれる。わたしにとって義兄とは神であり光であり、そして影を作ってくれる父でもあった。だからこそ、わたしにとっての初恋に足る存在であり、どこまでもいとおしく、そしてふしだらな欲求を投げつけたくなる相手であった。無謬の存在に抱かれているうちは何も考える必要もないという心地良さに、わたしの心は闇の中へ沈んでいったのであった。


 彼が結婚相手を連れてきたとき、わたしに中にある何かが壊れてしまった。わたしの中には存在しえなかった彼の立ち位置、すなわちただの兄という立場を知ったとき、わたしは自分がどうやって立っていればいいのかすら忘れてしまったような気分になった。「結婚するんだ」という彼のセリフに同期するかのように、顔を朱に染めながらもどこか誇らしげな婚約者を見たとき、わたしの中で理不尽という怒りが湧き上がっていた。彼の光を浴びることができるのはわたしだけであって、にはそんな資格はないのだと感じると、わたしは彼らの前から消えて自室に籠るしか選択肢がなかった。部屋に入り、枕を女に見立てて何度も殺す。わたしの心の奥底にあった闇という蠢きがにょきりとわたしの面前に姿を現し、わたしを嘲笑いながら身体を乗っ取っていった。光のない闇夜に支配されたわたしは、部屋のドア越しに呼びかける兄の言葉すら受け入れられず、ただ、枕と自分を殺して光のない世界へと入っていった。

 

 光がないということは闇もない。朝がなければ夜もなく、始まりがなければ終わりもないのだ。すべてが無であることを彼はわたしにした。わたしが生きていられるのは水や空気や食料だけではなく、光があるからだ。それは愛だけではない。彼という存在という光がわたしを存続させてくれているのである。――わたしはあなたの父のような恵みによって生かされているということを、あなた自身も知っているはずではなかったのか――。ドアを開け、彼にそう告げる。彼は困ったような顔をしながらも、ごめんとは一言も言わない。そこに何の罪悪感を持っていないことを知って、わたしはつい、笑ってしまった。所詮、光を与える者には与えられる気持ちなど理解できないのだ。太陽が小麦の気持ちを理解して照らしていないように、わたしはただ、彼の前にいたというだけで光を浴び、闇を作り出していたにすぎないのだ。そう思うととても可笑しくなった。世の摂理から外れても彼を愛したいという気持ちになることはなく、ただ、自分が生きてこれた偶然に憐れみを覚える。

「それでも、好きだったんだよ」

 だけど、いくら自嘲しようが自分を貶めようが、口から洩れてしまった言葉だけは真実を照らし出していて悲しい光を放っていた。彼にもこの言葉だけは伝わったのがわかる。あれだけわたしにとって崇拝していた存在が、この瞬間だけはひとりの男に成り下がっていたからだ。

「……ありがとう」

 彼はそれだけを言って、踵を返した。わたしはその背中を見て、ただ笑いながら泣くだけだった。涙を流す意味も資格もあるのだろうか、わからずに。


――彼が目を覚まし、喉元を支配しているわたしの頭を軽く撫でた。わたしは唇を離して彼の唇に合わせる。彼は黙ってそれを受け入れるどころか求めてくる。

 彼は数日前に自らが光を灯し、また光を与えられてきた者を失ってしまった。その者は火の報いを経て墓の中に納まり、遠く冥府に誘われているのだ。理由はなんであったか。そんなことはどうでもいいではないか。大事なのは彼がわたしのもとに戻ってきたこと。そして今度はわたしが彼に光を与える番になったということ。それだけが輝かしい真実であり、未来につながる唯一の現実であるのだ。

「かわいそうに。義兄にいさん」

 わたしは蛇のように身体を巻き付け彼を包み込む。――大丈夫、あなたがわたしをここまで育ててくれたように、今度はわたしがあなたを守ってあげる。余計な光の前にわたしが立ちはだかり、あなたの後ろに浮かぶ闇にすらわたしが対抗してみせる。だからもう、あの女のことは忘れてしまっていいのよ――と目線だけで伝える。彼はそんなわたしを見てから、差し出すように喉元を突き出した。

 そっとそしてずっとずっとこの愛撫をし続けられることを夢見る。わたしはひんやりとした部屋の中で自分の気持ちや欲望を満たしながらも、魂をすり減らして死にゆくあなたを守ろうとする。なんでもない夜に、なんでもない愛のかたちを籠めることによって、わたしはあなたの心に自裁を強いて光を失わせていく。

 

 大事なものは光を浴びてしか育たない。だけど、十分に育った今は光を与える側になれる。太陽は二つもいらない。わたしがあなたの太陽になればいい。わたしが小さな頃に照らしてくれたあの穏やかで優しい光を、わたしはあなたにお返ししたいのだ。どこまでもいとおしく、そしてどこまでも懐かしい光を捧げたい。そして、あなたの傷ついた闇を祓い救い出してあげたい。あの女はもういないのだ、何も悲しむことはない。最初から偽物の光があなたを惑わせていただけなのだ。


 わたしたちにとっての戸惑いの元は闇へと葬った。だからあなたはそうやってわたしに喉仏を差し出し、光射す安然のもとに身を任せて目を閉じていればいい。光があるところに影があるように、光がなければ影もまた滅せられることを知ったあなたを、わたしの光の届かぬ愛で包んであげるから。

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