前提となる近況につきましては、前回・前々回の投稿にあたってください。
ただし相当に重い内容です。
普通の人生を歩まれている方や、精神が疲弊気味の方は読まないでください。
https://kakuyomu.jp/users/insyde/news/822139845387705116
https://kakuyomu.jp/users/insyde/news/822139846003059162
*精神内容を反映しているのか、とりとめのない文章です
話はかなり端折りますが、妻の容態はかなり思わしくなくなってきました。
このような身近な者を介護する看護するという内容ですが、変な話、エッセイとして投稿するとかなり読まれるのではないかと予想されます。
とあるSNSでご自身の看護介護の様子を投稿されている方がいらっしゃいました。その方の投稿を見ると(ある方面で)私よりはるかに過酷な模様で、それはそのような投稿を見ないと一生知ることもないような話でした。
正直、価値のある話だと思いました。
私も妻の介護看護の様子を、また徒然に思う事(正直言って苦しみが大半になると思われますが)を、エッセイなどの投稿記事として投稿することは価値のあることではないか?とも思いました。
が、やはり止めることにしました。
まったくもって、今のこの現状と現状に向かう自分自身を、人に伝えてよい事として自身の中で飲み込めていないというのが理由のひとつです。
待て、ここで書いているじゃないか!と思われる方もいるかもしれません。
すみません、私の甘えです。
ここを読まれている方は、すくなくなりとも私との関係性が強い方と思いますので、単なる私の吐き出しですが読んでいただくと感謝する次第です。*何か日本語がおかしい気がしますが頭が疲れていてよくわかりません
昨日ですが、知人の紹介でお寺の住職さんに悩みを聞いてもらうというか、いまの苦しみをぶちまけました。
愛する者に死が迫っているであろう現実に、自分が何をすればいいか?何を考えるのが正解なのか?分からない。
助けてくれると思っていた人間は助けてくれず、裏切りに近い形で私(私達)を見捨てた者もいる。
と思えば、大した関係でもないのに、その人なりに手助けをしてくれる人もいる。
いったい人間のつながりって何なのだ……。
人が人を想い、その人の為に出来る最大の事って何なのだ!
そういったことを、ぶつけました。
私は人に物事を相談する際は、慎重に相手をみるほうで、
『この人に話せる悩みの範囲はこれくらいだな』
と話の内容を推し量って出していくのですが、
目の前の住職に対しては
『この人は話せる』
と判断できたので、とにかく洗いざらいぶちまけました。
*判断材料はその人がどれくらいの器を持っているか?を様々な応答や態度・表情・雰囲気などから直感的に見ています。
住職は、とにかく私の話を受け止めるように聞いたあと
「すまんが貴方の問いに答える事はできん。
ただ、貴方は自身の中でもう答えは持っている。
無意識に答えに、たどり着いている」
と、
テンプレートみたいな返答をなさいました。
まあ、この手の回答は、どういった人物が口にするか?で全く違うものになると思います。
軽薄な人間がそう言えば「こいつ答えきれなくて逃げの口上を打ったな」と私は思うでしょう。
ただ、今回の住職は私と相性が合う面があったのか、話をしていくうちに次第に私の頭の中の悩みはまとまっていきました。
自分は今の現状に対してどう考えればいいのか?
妻を前にして、どのような考えを持てばいいのか?
死を前にした人間にどう接していくのが正解なのか?
私の頭の中を支配しては回転していた様々な悩みがまとまっていき、ひとつの気づきに達します。
『私は、妻がこの世界からいなくなるかもしれないという恐怖に飲まれていた』
ということです。
私自身はいままで、その恐怖と戦っている・恐怖に立ち向かっていると思っていましたが、
住職との会話から冷静に自分をみた時に『恐怖に飲まれている』との気づきにいたりました。
これは説明が難しいんですけど、今までの自分は『飲まれていない』と思っていたわけです。
そして何故か『飲まれている』と気づいた時、霧が晴れるようにさまざまな悩みが一気に解きほぐれていきました。
これは不思議です。
飲まれているという現状は変わらない。でもそこに気づいた時、根底的な気持ちの持ちようは変わるみたいなのです。
あまりに自分は妻を失う事を恐れていた。その事に意識がとらわれ過ぎて、考えが固着・膠着していた。
妻が生きるか死ぬか……これは非常に重要な問題ですが、問題として飲まれると自己を見失うのです。
視点をもう一段上に置き、この問題は確かに大事だが『今の自分には答えを出せない問題・乗り越えられない問題』としっかり認識して
意識する、しない
ここを明確にコントロールする必要がある。
意識することも大事だが、同時に(意識的に)意識しないことも大事なのです。
天が定めし人間の寿命……私如きが関与できる領域と、出来ない領域をしっかりと認識する必要がある、そのように思いました。
では、視点をもう一段上に置いた時、
絶対的に私が考えの核として置いておかないといけないのは何なのか?
それは妻の生き死にに鋭敏になる事ではなく、
『妻の傍らにいる私自身が穏やかな男でいる』事ではないかという考えにいたりました。
もし私が……逆の立場になっていたとします。
自身の命の不安を抱えたまま病床に就いていたとして、自分の容態に必死に全力で介護介助している妻の姿があったならば……どう思うだろうか?
必死に介護してくれるのは嬉しいが、どこか罪悪感を感じるだろうと思います。
それは嫌だ、自分の為に苦しまないでほしいと思うでしょう。
その介護者の苦しみを生み出す源となる思考こそが『命に対する過剰な心配』なのだと考えます。
これに飲み込まれてはいけないし、考えの核としてはいけないのです(私の場合)。
命に対する心配は当然ながら大事、しかし、それを核とせず
妻の前では穏やかな男でいつづける
これを自身の考えの核としたいと思います。
この人と出会えてよかったと思っている。
妻にもそう思って欲しい。
ならば、どうすればよいか、、、
私自身が取り乱さず穏やかな心持ちでいることです。
これが住職との会話の中でいたった結論です。
とりとめないですが、こんな感じです。