今のところはまだ何も

尾八原ジュージ

今のところはまだ何も

 一度話しておきたいことがあって。

 まだ物心ついたくらいの、小さい頃の記憶なんだけど。


 そう前置きして、彼は話し始める。


 ぼくは当時三歳くらいだったかなぁ。その日のことだけは、妙によく覚えてるんだよね。

 母親と二人で海に行ったんだ。

 海水浴って季節じゃなかったけどいい天気で、波打ち際で波追いかけたりして楽しくてね。母親と遊んで、お昼におにぎり食べて、その後疲れて寝ちゃった。

 で、目が覚めたら自分の家で、ちゃんと寝室の布団の上で寝てるんだよね。ぼくが寝ちゃったからお母さんが運んでくれたのかなって思って、まだちょっとぽけーっとしてた。そしたらドアがさっと開いて、「あら起きたの」って、知らない女性が顔を出したんだ。

「おばちゃん誰?」

 ってぼくが聞いたら、その人いきなりぎゅっと顔をしかめてさ。なんかその顔がすごいインパクトで、実は海よりそっちのが印象強いくらいなんだけど。

 なんかさ、その見知らぬ女性が、ぼくの母親ってことになってるんだよね。

 父に聞いても祖父母に聞いても、誰もがそう言うわけ。この人がきみのお母さんだよって。

 で、それまで母親だと思ってた女の人は、いなくなっちゃった。私物とかもないの。きれいさっぱり。

 みんなが口を揃えるんだよ。きみのお母さんはこの人だよ、ずっと前からこの人なんだよって。ぼくはすごく混乱したし、もう本当のお母さんには会えないんだって思うと悲しくて、たくさん泣いた。それに新しいお母さん――ぼくは当時、心の中でそう呼んでたんだよね――その人にもずいぶん冷たくした。そのたびにあの、ぎゅってしかめる顔をされちゃったりして。今思えば申し訳ないんだけど。

 でも、子供だったからかな。そのうちだんだん納得しちゃって、「新しいお母さん」のこともちゃんと好きになったんだよね。「前のお母さん」のことはそりゃ好きだったけど、「新しいお母さん」はぼくが戦隊もののテレビ見てても怒らないし、幼稚園にも通わせてくれる。以前のぼくは同世代の子と遊ぶことも知らなくて、母親とべったりだったわけ。新しい母親はそういうのじゃなくて、なんていうか、もっとあっさりした距離感があるんだよね。

 お母さんが変わったことは家庭内のタブーみたいになってて、子供心にもそれがわかった。だからなんとなく聞いたりしにくかったんだけど、ずっと気にはなってたわけだ。

 で、大きくなってから戸籍謄本をとったりしたけど、両親に離婚歴なんかないんだよな。DNA鑑定もやったよ。信頼できそうなところで何社か頼んだから、確かだと思う。やっぱり今の母親が、遺伝上のぼくの実の母なんだよね。


 ある日突然母親が入れ替わっちゃうって、ありそうなホラー……っていうか、あるよね。フィクションでも、実話をうたってるような怪談でも。

 だからそういうことって本当にあるのかもしれないなって、結構真面目にそう思ってたんだよね。いや、思いこもうとしてたというか、そういうことにしておいた方が安心できたというか、なんというか……少なくとも自分の場合は、何か不思議なものの力でそうなったんだって、そう思いたかったんだな。

 でも、ちゃんと種明かしがあったんだよ。

 成人した後に、父方の祖母が教えてくれたんだよね。亡くなる半年くらい前だったから、たぶん自分の死期を悟って話してくれたんだと思う。


 早い話がさ、ぼくが最初に母親だと思ってた人、父の従姉だったわけ。

 当時ぼくの母がメンタルを病んでて、遠方で療養してたんだって。父は仕事が激務で、育児を主体的にするとなると、どうしたって会社を辞めなきゃならない。そこでベビーシッターとして名乗りをあげたのが、その従姉さんだったんだよね。その人、当時離婚して実家に帰ってきたばかりで、ちょうど仕事もしてないし暇だからって。で、当時二歳くらいのぼくの面倒を、その人がみることになった。

 なにせ従姉でしょ。むかしからの知り合いだから信用できるし、ありがたいって安心して預けて、父は仕事に集中してたらしい。ぼくも懐いて楽しそうにしてるし、任せておいても大丈夫だろうと思って。

 でもだんだん、従姉の行動がおかしくなってきた。

 まるで本当に父の妻であるかのように振舞い始めたらしいんだよね。近所の人に「妻です」って挨拶したり、ぼくに自分のことを「お母さん」って呼ばせてたり。挙句の果てに「二人目が欲しい」って父にすり寄って、それで問題が表面化した。

 これはもう任せておいたら駄目だってことになって、でも従姉はなかなか離れなかったんだよね。「母子を離れ離れにするなんて残酷だ」とか言って、もう話が通じない。

 なんでも昔、祖父母やぼくの大伯父大伯母――つまり父の従姉の両親と「うちの息子と娘がいとこ同士で結婚したらいいかもね」なんて、冗談で話したことはあったらしい。もちろんふたりが幼稚園とか、その頃の話だけどね。きっと仲がいい子たちだったんだと思う。大人たちもほほえましいと思ってそんな話をしてたのかもしれない。ぼくの父だって本気にしてなかったしね。

 でも、当の従姉だけは違ったらしい。ていうか、かくいう自分も他人と結婚して、ぼくと同い年くらいの子供だっていたそうなのに、「本当は、急に許嫁がいたことを思い出したから離婚したんだ」って、大真面目にそう言い切ったらしい。実は離婚当初、彼女は周囲に「子供の親権を父親側に無理やり取られた」って説明してて、それでみんな同情してたんだよね。それがすごい手のひら返しでさ。

 当然従姉の言い分は通らなくて、もういよいよぼくと引き離されるってときに、ぼくを海に連れて行ったんだ。

 ぼくが眠ったら車に乗せて、ふたりで海に飛び込むつもりだったって。

 間一髪で父が追いついて、未遂に終わったらしいんだけど、危ないところだったよね。もしかしたらぼくは、タッチの差で死んでたかもしれない。


 ところで母がメンタル病んだのって、夜眠れないのが原因だったらしいんだよね。

 夜中になると、「自分が寝ている布団の周りを、髪の長い女の影がぐるぐる歩き回る」って夢をさ、誇張でなく毎晩見たらしい。それで病んでしまったんだって。

 どうしてそんな夢を見るのか、当時はわからなかった。「生霊の仕業」だなんてリアリストの母にとってはナンセンスな話だったし、それにその夢を従姉と結びつける人がいなかったんだな。事情が明るみに出る前は、従姉は両親の結婚やぼくの誕生も、当たり前に喜んでるように見えたらしいから。

 でも後から考えたら、夢の中で布団の周りを歩いてたのは従姉だったのかもしれない――確定じゃないけど、少なくとも母はそう思ってるみたいなんだ。

 確かにあの人は髪が長かったっけ……まぁ、それだけじゃなんとも言えないけどね。


 その従姉? もう亡くなってるよ。

 車で、ひとりで海に飛び込んだんだって。

 だからもしも幽霊ってものが本当にいるとしたら、今でも彼女はその辺にいて、ぼくのことを見てるんじゃないかって、そう思ってしまうんだな。

 いや、もちろん幽霊なんか見たことないよ。ぼくも両親も元気だし、祟りもない。今のところはね。




 そういう話を、結婚を前提に付き合っている彼氏の口から聞いた。

 全身に鳥肌がたつほど怖ろしかった。彼と出会ったのは本当に偶然だったからだ。

 私がまだ幼かった頃、私の母は突然「本当に好きな人と結婚する」と言い出し、父に私を押しつけて離婚した。だが「本当に好きな人」との再婚は上手くいかず、車に乗ったまま海に飛び込んで自殺したという。

 母の記憶はもう朧気だが、髪の長い人だったことは覚えている。

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