第4話 サディスティック①

 この日、ルナフレーナとアイリスは宮廷の庭園にある池の近くの東屋でお茶をしていた。

 池はまるでターコイズブルーに染められたような深い青色をしており、その水面には色とりどりの睡蓮が浮かんでいる。

 白やピンク、紫といった様々な花びらが広がり、光を受けて輝くように美しさを競っている。

 水面下には水草がゆらゆらと揺れ、水の中で生きる花のように色を添えていた。


 池の中を悠然と泳ぐ鯉たちは、その青い宇宙のような水の中で尾ひれをきらめかせながら、踊るように泳ぎ回っていた。赤、白、金色の鯉たちは水中で優雅に舞い、青い水面を背景に鮮やかなコントラストを描いている。

 この静かな景色はどこか幻想的で、時が止まったかのような安らぎを感じさせる。


 この池と東屋は、ルナフレーナのお気に入りの場所である。

 周囲の喧騒を忘れさせ、自然の美しさに心を癒されるこの庭園の一角は、彼女がよく訪れる場所の一つだ。

 幼い頃から、この池の側で何度も時間を過ごし、静かな水の音に耳を傾けたり、美しい鯉たちを眺めたりしていた。


 今日もそのお気に入りの場所で、二人はお茶を楽しんでいる。しかし、話している内容はその美しい情景とはまったく釣り合わない、くだらないものであった。


「ねえ、アイリス、あの緑の鯉を見て」


 ルナフレーナは池の中を指さし、緑がかった鱗を持つ一匹の鯉を示した。その鯉はほかの鯉たちと違って、一匹だけ少し離れた場所を泳いでいる。


「あの鯉、実は動物性の餌や飼料を一切食べないの。その上、どういうわけか他の鯉をつついて攻撃的になることも多いのよ」


 アイリスはその説明を聞きながら、ルナフレーナの言葉に興味を示す。


「へえ、そんな特徴があるのね。でも、それがどうしたの?」


「だから、私はあの鯉に『ヴィーガン』って名前をつけたの」


その言葉を聞いたアイリスは、思わず吹き出しそうになる。


「ぷはっっ。ヴィーガン? そのネーミングセンス、なんというか独特ね。確かに、少し面白いけど」


「そうか? そんなに面白いか」


 アイリスは微笑みを浮かべながらルナフレーナのセンスを認めると、別の鯉を指差す。


「じゃあ、あの白と黒が混じった鯉は?」


「あれは『サピエンス』な」


「サピエンス? どうしてそんな名前を?」


「だって、あの鯉は賢いのよ。他の鯉たちが来ると、うまく餌を取られないように立ち回るし、逆に自分が餌を取れそうなときは攻撃的になるからよ。まるで人間みたいじゃない?」


 ルナフレーナの言い草とその独特なネーミングセンスに、アイリスは思わず大爆笑してしまった。

 口元を押さえて、椅子に座り直しながら、笑いが止まらない様子だ。彼女の肩は揺れ、目には涙が浮かび始めている。


「本当に、ルナフレーナ様のネーミングセンスには脱帽だわ。本当に面白いわね」


「アイリスくらいだぞ。そんなに笑ってくれるの」


 ルナフレーナはそう言うが、その表情には満更でもない様子で、喜びが隠せない。アイリスの反応に、どこか誇らしげな笑みを浮かべ、彼女の独特なセンスを楽しんでもらえていることに気分を良くしている。

 彼女はまだ笑いが止まらないまま、池の中を見回しながら、「じゃあ、あの金に輝く鯉は?」と尋ねた。


「あれは稚魚から育てた奴で、『デウス』よ」


「デウス?」


「そうだ。あの金ぴかで神々しい感じ、デウスって感じじゃないか?それに、あいつも攻撃的だからな」


「なんで、全員攻撃的なのよ!」


 アイリスが思わず突っ込む。

 彼女の声には呆れと笑いが入り混じり、ルナフレーナの独特すぎる鯉の命名センスに完全に降参した様子だ。

 二人はしばし互いの顔を見合わせ、そして同時に大笑いし始める。


 アイリスは椅子に深く座り直しながら、目に涙を浮かべて笑い続け、ルナフレーナもその笑い声に引き込まれて、心底楽しそうに笑っていた。

 風に乗って、二人の笑い声が庭園に広がっていく。

 そんな時、ひとりの侍女が息を切らせながら急いで二人の元に駆け寄ってきた。


「ルナフレーナ様、ローレンス公爵家のメイベル様がお越しです」


 ルナフレーナは侍女の報告を聞くや否や、表情を曇らせた。


「私は外出中でいないと言っておいて」


 アイリスはその言葉に軽く眉を上げると、「どうしてそんな意地悪するの? ここに呼んであげなさいよ」と諭すように言う。


「だって、あいつは鬱陶しいんだもの。会いたくないのよ」


「それはただのわがままだわ。メイベル様はとても良い人じゃない」


「メイベルがいい奴に思えるなら、お前は人を見る目がないから気をつけろよな。詐欺に騙されるタイプの人間よ」


 アイリスとルナフレーナの軽い言い合いは、だんだん熱を帯び始めて激しさがましていく。そんな最中、突然背後から元気な声が響いた。


「ルナフレーナ様、来ちゃいました!」


 二人が振り返ると、そこには高貴な衣装を身に纏った美少女が立っていた。

 彼女の長い黒髪は光を受けて艶やかに輝き、藤色の瞳が鮮やかにきらめいている。

 端正な顔立ちには品格と優雅さが漂い、その笑顔には親しみやすさと共に、どこか無邪気な魅力が感じられる。


「ゲッ! メイベル!」


 ルナフレーナは思わず口をつぐむ。目を逸らしながら、罰が悪そうな顔を浮かべている。彼女の表情には明らかな不満が滲んでいるが、それでも逃げ場はない。

 メイベルはそんな彼女の様子に気づかないふりをして、軽やかに東屋へと近づいてくる。そして、東屋に足を踏み入れると、丁寧な所作でルナフレーナとアイリスに深々とお辞儀をした。

 その動きは流れるようで優雅だった。身につけた淡い紫のドレスが、彼女の長い黒髪と藤色の瞳を一層引き立てている。

 顔には穏やかな微笑を浮かべ、周囲の空気を和らげるような雰囲気を漂わせていた。


「ルナフレーナ様、アイリス様、お久しぶりです。今日もお美しいですね」


 彼女の言葉は礼儀正しく、相手を褒め称えるものだったが、そこにはどこか執拗さが感じられた。

 言い終わるや否や、彼女は急にルナフレーナに駆け寄り、突然抱きつく。


「それに、ルナフレーナ様は今日もとっても可愛いです!」


「抱きつくな!」


 ルナフレーナは瞬時に顔をしかめ、メイベルの体を引き離そうとする。しかし、彼女の腕はまるで鋼のようにしっかりとルナフレーナの腰に巻きついていて、簡単には離れない。


「てか、なんで呼んでもないのに勝手に入ってくるんだよ! ここがどこだかわかっているのか!」


「そんな冷たいこと言わないでくださいよ。私とルナフレーナ様の仲じゃないですか」


 彼女の声は丁寧で柔らかいが、その言葉の背後にはしつこさが隠れている。

 言葉の内容こそ甘く感じられるが、その実は相手の気持ちを全く無視しており、ルナフレーナの嫌がる様子を全く気にしていないのが明白だった。

 メイベルは抱きつくことが当然の行為であるかのように、彼女の胸に顔を埋めたまま、しっかりと抱きしめ続けている。

 ルナフレーナは明らかに不快そうに顔をしかめ、力づくで振り払おうとするが、メイベルのしなやかな腕は思った以上にしっかりしていて、なかなか離れてくれない。


「こいつ……本当にうざい。マジでぶっ殺すぞ」と、低い声で毒づく。


 メイベルはその言葉を聞くと、片方の眉をひそめてわざとらしく傷ついたような顔を作る。


「酷いです、ルナフレーナ様。でも、そんなところも可愛いです」


 その瞬間、ルナフレーナの顔には完全に怒りと嫌悪が溢れ、「もういい加減にしろ!」と言い放つ。だが、メイベルは笑みを絶やさず、どこかからか湧き出てくるような底知れぬ親しさで絡み続ける。


 そんな彼女の執拗さに、アイリスは思わず苦笑を浮かべながら、二人のやり取りを見守っていた。

 一通り楽しんだ後、メイベルは彼女に向き直るとにこやかに微笑んだ


「アイリス様、皇女殿下の輔導役に任じられたこと、心からお祝い申し上げます。本当に素晴らしいことですね」


「ありがとうございます、メイベル様。でも、まだ何もしていませんし、これからが大変だと思います」


「そんなことありませんわ。アイリス様ならきっと素晴らしい輔導役を務められるはずです」


 ルナフレーナは、アイリスとメイベルの二人の会話を横目で見ながら、やや不機嫌そうにため息をつく。

 彼女の顔には明らかな退屈の色が浮かび、なんとなく居心地が悪そうにしているのが見て取れる。しかし、そんなルナフレーナの様子を察したのか、メイベルは気を利かせるように別の話題を振った。


「そういえば、学院の入学試験、近づいてきましたね。皆さまはどんな準備をされているのですか?」


 その質問に、アイリスは一瞬だけ考えるようにしてから、落ち着いた声で答えた。


「特別なことは何もしていません。ただ、家庭教師の教えを乞いながら復習を重ねています。できることを一つずつこなしているだけです」


 彼女の口調はいつもながらの冷静さを保っており、少しの誇張もなく、自分のやるべきことを淡々と進めているという印象を与える。

 一方、ルナフレーナはその回答を聞きながら軽く鼻で笑った。そして、メイベルに向かって顎を少し上げ、傲慢さを隠そうともしない態度で口を開く。


「私に準備など必要ない。私は皇女だから。入学試験なんて、私の前では何の意味も持たないわ」


 ルナフレーナの顔には、当然というような表情が浮かんでいて、自分が特別な存在であることを信じて疑わないその態度が見て取れる。

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