第2話 復讐と謝罪

 アイリスはそんなルナフレーナを冷静に眺めている。

 彼女の顔には少しも憐れみの色がなく、その鋭い緑色の瞳は相手の苦しみと屈辱を無言で受け止めている。

 彼女は冷静さを保ちながらも、深い呼吸を一つつき、ドレスについた汚れを見下ろした。


「ルナフレーナ様がおバカなせいで服が汚れたじゃないの。ほんとに、面倒だわ」


 アイリスは愚痴をこぼすように言いながら、指先でドレスの汚れを軽く撫でる。

 漆黒のシルクのドレスに付着した料理のソースが無惨にも広がり、その美しさが損なわれている。

 彼女の表情には不快感が漂い、わざとらしいほどにため息をつく。


「着替えるために、着替え室に案内してくれない?」


 アイリスはわざと優雅な口調で頼む。だが、その目には冷たさが宿っており、ルナフレーナを侮辱するような鋭い意図が込められている。

 彼女はその言葉に苛立ったのか、顔を真っ赤にしてアイリスを睨み返した。


「分家のくせに、宮殿の着替え室を使おうなんて生意気なんだよ。外で着替えろ、このクソ女が!」


 彼女の言葉はまるで毒を含んだように鋭く、侍女たちもその場の緊張感に顔を引きつらせる。しかし、アイリスは一瞬も目をそらすことなく、ルナフレーナの顔を見据える。

 その表情が急に変わり、目つきがまるで猛禽のように鋭くなる。


「ルナフレーナ様が汚したんですよね……ね?」


 アイリスは冷たく低い声で言い放った。

 その声はまるで凍てついた冬の風のように冷たく、鋭い刃物のような威圧感を持っている。

 その瞬間、ルナフレーナの体がぴくっと震えた。

 彼女の表情は凍り付き、先ほどまでの高慢さは一瞬で消え去る。

 アイリスの目が彼女を睨みつけるたびに、まるで彼女の全身を縛り付けるかのような恐怖が迫ってくる。


「は……はい……」


 ルナフレーナはしどろもどろに答える。彼女の顔には青ざめた色が浮かび、声は震えている。

 普段は堂々としている彼女が、今では生まれたての小鹿のようにすくみ上がっている。


「ほら、早くしてくれる?」


「……はい、分かりました」


 ルナフレーナは不本意そうに答え、侍女の一人に向かってアイリスを着替え室に案内するように命じた。

 侍女は緊張しながら深く頭を下げて、「はい、ルナフレーナ様。すぐにご案内いたします」と応えた。

 彼女は恐る恐るアイリスの方を見て、その冷たい表情に一瞬たじろいだが、すぐに頭を下げ、先導するように歩き出す。


 アイリスは軽く頷くと、ドレスの汚れを一瞥しながら、毅然とした足取りで侍女の後に続いた。彼女の背中からは、自分の立場と威厳を決して揺るがせないという強い意志が感じられる。


 ルナフレーナは、その場に立ち尽くしながら、悔しさと怒りで体を震わせていた。彼女は自分の指を抱え込みながら、恨めしそうにアイリスの背中を睨みつける。

 だが、先ほどの恐怖がまだ彼女の心に残っており、何も言い返すことができないまま、その場で唇を噛みしめることしかできなかった。


 アイリスが去った後、ルナフレーナは悔しさと憤りをこぼし始める。

 顔には怒りの色が浮かび、その瞳には忌々しい輝きが宿っていた。


「分家のくせに、皇族であるこの私を一瞬で射すくめやがって……」


 ルナフレーナは声を低くして呟く。

 彼女の声には苛立ちが滲んでおり、その口調はまるで自分自身に向けた呪いのようだった。


「あんな奴に教育されたら、ストレスで自律神経失調症になってしまう。誰があんな冷たい奴に従うもんか!」


 彼女は自分の指をさすりながら、痛みを感じるたびに顔をしかめる。

 その苛立たしさは増すばかりで、どうしようもない不満を一人でぶつぶつと口にしていた。

 それを聞いていた侍女の一人が、少しでも彼女の気持ちを和らげようと、そっと声をかけようとしたその瞬間、ルナフレーナは突然、勢いよく振り返った。


「よし、決めた! ここで格の違いを教えてやる!」


 そう叫ぶように言いながら、その顔には一種の狂気じみた決意が宿っている。

 侍女たちはその激しい態度に驚き、互いに不安そうに顔を見合わせる。

 どうせ、ロクな事を考えていないだろう。そんなことを言いたげな目だ。

 やがて、一人の侍女が恐る恐る声を上げた。


「ルナフレーナ様、もうおやめになった方が……これ以上、争いを起こすのは……」


 だが、ルナフレーナはその言葉を一蹴するように、怒りのこもった目で侍女たちを睨みつける。


「アンタはバカじゃない? あんな悪女に屈したままだと、皇族の名が廃るってもんでしょ!  賊を討伐せずして、皇威はならず」


 その言葉に侍女たちは息を呑む。彼女たちはルナフレーナの激しい気性を知っているが、それでも公爵令嬢であるアイリスに危害を加えることが危険であることも理解していた。

 彼女たちは何とか説得しようとするが、ルナフレーナの決意は固いようだった。


「いいから、さっさと水の入ったバケツを用意しなさい!」


「……かしこまりました、ルナフレーナ様」


 皇女であるルナフレーナがそう命じでは、侍女たちは従わざるを得ない。

 彼女たちは、再び不安げに顔を見合わせながらもバケツを取りに向かう。

 ルナフレーナはその姿を見ながら、満足げに唇を歪めて微笑む。


「ふん、これでアイリスに格の違いを見せつけてやるわ。あの女の高慢な顔を、今度は私が引きずり下ろしてやるんだから」

 

 食堂を出たルナフレーナは、怒りと復讐心に突き動かされるようにして、廊下を進んでいった。

 見上げるほどの高さを誇る天井には、まるで一つの芸術品のような繊細で美しい装飾が施され、一定間隔で吊り下げられたシャンデリアが光を放っている。

 広い通路の磨き上げられた床は、天井から降り注ぐ光を反射し、まるで夜空に輝く星々を映し出しているかのようだった。

 彼女の顔には不敵な笑みが浮かび、何か計略を練っているような目つきだ。

 

「ついてきなさい。今度こそアイリスに思い知らせてやるわ」


 侍女たちは無言で従いながらも、その目には不安と戸惑いが浮かんでいる。しかし、ルナフレーナの命令には逆らえず、何も言わずに彼女の後をついていく。


 廊下を進むごとに、宮殿の冷たい空気が彼女たちの頬を撫でる。

 ルナフレーナの中で緊張と興奮が混ざり合い、次第に鼓動が速くなるのを感じる。

 やがて着替え室の近くにたどり着くと、扉の前で待機した。

 床を踏みしめながら、彼女の顔には不敵な笑みが浮かんでいる。

 侍女たちは、彼女の後ろに緊張した面持ちで従い、少し距離を置いて彼女を見守っている。


 間もなく、二人の侍女が両手に大きなバケツを二つ持って現れる。

 そのバケツには冷たい水がたっぷりと入っており、揺れるたびに水面がきらきらと光を反射している。

 侍女は重さに耐えかねて少しふらつきながらも、なんとかルナフレーナの前にたどり着いた。


「ルナフレーナ様、お持ちしました……」


「ご苦労。さて、一つ貸しなさい」


 ルナフレーナはそのバケツを受け取り、自分の手でしっかりと握りしめる。そして、周りの侍女たちに向けて鋭い目を向けた。


「よし。今からやることを説明するわ。この扉が開いたら、私の合図でアナタ達もその手に持ったバケツの水をアイリスにぶっかけるのよ」


 その命令に、侍女たちは再び顔を見合わせる。

 一人の侍女が、困惑した表情で口を開く。


「ルナフレーナ様、それはさすがに公爵家の令嬢であるアイリス様に対してはこのような事をしては不味いのでは……」


 しかし、ルナフレーナは侍女の言葉を遮るように、「安心しなさい」と強い声で言い放つ。


「責任は皇女であるこの私が全て取る。公爵と言えどもしょせんは貴族。皇族である私と比べるまでもないわよ」


 彼女の言葉には揺るぎない自信と、皇族としての絶対的な権威が込められている。

 侍女たちはその言葉にますます困惑し、視線を下に向けて逡巡している。しかし、ルナフレーナの目には狂気じみた決意が宿っており、逆らえばどんな罰が待っているかわからない。


「さあ、分かったら持ちなさい!」


 ルナフレーナはさらに強く命令すると、侍女たちはやむを得ず頷き、バケツの端を持つ。冷たい水が揺れて波紋を描くのが見える。


「あの女の高慢な顔をびしょ濡れにしてやるわ」


 ルナフレーナは満足げに呟き、扉の向こうからアイリスが出てくるのをじっと待ち構える。その目には、復讐の炎が燃え上がっている。

 その一方で、侍女たちは緊張の面持ちで待機しながらも、不安を隠しきれない。

 それでも、彼女たちは主人であるルナフレーナの命令に逆らうことはできず、心の中で祈るように静かにその時を待っていた。


 しばらくの沈黙の後、着替え室の扉がゆっくりと開いた。

 ルナフレーナの心は待ちきれないような高揚感で満たされ、目を輝かせる。そして、扉の奥に誰かの姿が見えた瞬間、「今よ!」と鋭い声で合図を出し、同時にバケツの水を豪快にぶっかける。

 侍女たちも従わざるを得ず、一斉にバケツを傾け、冷たい水が勢いよく溢れ出た。


 しかし、扉が開いたものの、そこにはアイリスどころか誰もいない。水は勢いよく空中に飛び出し、床に豪快にぶちまけられて大きな水しぶきを上げるだけだった。あたり一面が濡れ、冷たい水が足元に溜まっていく。


「……あれ?」


 ルナフレーナは驚いたように間抜けな顔をし、思わずその場で呟く。

 彼女の顔には混乱の色が浮かび、目が点になる。

 作戦は完璧だと思っていたはずなのに、思い描いていたアイリスの姿は見えず、愚かな仕掛けだけが露呈した形だ。


 すると、扉の死角に隠れていたアイリスが静かに現れる。

 冷たい表情を浮かべた彼女は、ルナフレーナに鋭い視線を向け、その目にはまるで氷のような冷たさが宿っている。

 彼女の顔はさらに青ざめ、驚愕と恐怖が交錯する。


「な、なぜバレた……の?」


 ルナフレーナは声を震わせながら呟く。

 予期せぬ展開に、彼女の動揺は隠せない。


「ルナフレーナ様の声が大きかったから、丸聞こえだったのよ」


 アイリスは冷ややかな口調で言い放つ。

 その言葉には明らかな軽蔑が込められており、彼女の冷静な態度はルナフレーナをさらに追い詰める。


 一瞬の沈黙の後、ルナフレーナは急に振り返り、侍女たちに向かって怒鳴り始めた。


「あなた達のせいで怒られるじゃない! 何をしてるのよ!」


 まるで全てが侍女たちの責任であるかのように喚き散らす。

 侍女たちは驚き、目を見開いて混乱した表情を浮かべる。


「ルナフレーナ様、それは……」


 一人の侍女が口を開こうとするが、ルナフレーナはそれを遮るようにすぐさま声を張り上げる。


「私はやりたくなかったけど、こいつらが私を唆したのよ! 皇威が廃るって言って!」


 侍女たちはますます混乱し、信じられないという顔で互いに視線を交わすと、一人が勇気を出して反論する。


「ルナフレーナ様、どうしてそのような嘘をつくのですか」


「さては、私を貶める気だな! 卑怯な策略だ! 狡猾な陰謀だ!」


 ルナフレーナはより大きな声で喚き散らし、その顔には完全なパニックと焦燥感が浮かんでいる。

 彼女の目には恐怖と狂気が入り混じり、まるで自分の失敗を他人のせいにして逃れようと必死になっているようだった。

 額には冷や汗が滲み、その姿は哀れで醜悪だ。


 アイリスはその光景を冷静に見つめていたが、やがて無言でルナフレーナに近づいていく。

 彼女の歩みはゆっくりとしているが、その目には決然とした怒りが宿っている。侍女たちは恐怖に怯え、思わず後ずさりする。


 ルナフレーナはアイリスの冷たい視線を感じ取り、少しずつ後退る。しかし、次の瞬間、アイリスの手が素早く動き、彼女の頬に平手打ちを食らわせた。

 パシンと乾いた音が廊下に響き渡り、ルナフレーナの顔が大きく揺れる。

 彼女の頬は赤く染まり、打たれた痛みと屈辱で涙が滲んでいる。

 先ほどまでの威勢は完全に失われ、その姿はまるで打ちのめされた子供のようだった。


 ルナフレーナは、震える手で頬を押さえながらも必死にアイリスを睨み返そうとする。しかし、その瞳には明らかに恐怖と混乱が浮かんでおり、かつての高慢な態度は見る影もない。

 頬の赤みが広がる中、彼女は息を荒げながらアイリスを睨みつけるが、その目にはどこか怯えた子供のような弱さが垣間見える。


 アイリスは一歩も引かず、冷たい目でルナフレーナを見下ろしている。

 彼女の姿勢は揺るぎなく、その目には一切の慈悲がない。

 その厳しい視線は、まるで相手の心の奥底まで見通すかのように鋭く、彼女の声には冷酷さが滲んでいる。


「ルナフレーナ様、本当に最低ね。こうして彼女たちを巻き込んでおいて、自分の責任を全て押し付けるなんて、本当に見苦しいわよ」


 その言葉はまるで刃のように鋭く、ルナフレーナの胸を深くえぐった。

 彼女の目が見開かれ、愕然とした表情を浮かべる。

 アイリスの声は冷徹で、まるで目の前の相手を人として見ていないかのようだ。

 彼女の顔には軽蔑の色が濃く浮かび、笑みさえ見え隠れしている。


「彼女たちに罪を被せようとしたことをちゃんと謝りなさい」


 アイリスの声は静かだが、明確な威圧感を持って響き渡る。彼女の瞳はルナフレーナの動きを一切逃さずに見つめている。

 その命令にルナフレーナは一瞬たじろぐが、すぐに意識を取り戻し、顔を侍女たちに向けた。

 彼女の目は焦りと恐れで泳いでいるが、それを必死で隠しながら、侍女たちに向けて口を開く。


「すみませんでした。反省しています」


 その言葉は形だけのものであり、どこか空々しく響く。

 彼女の声には真の反省の色がなく、口先だけの謝罪であることが誰の目にも明らかだった。

 困惑した表情を浮かべる侍女たちに頭を下げるが、そのいかにも反省していない態度にはどうしても距離が感じられる。

 ルナフレーナは次にアイリスの方に向き直り、いかにも潔い様子で、「謝りました。これで許してください」と、やや丁寧な口調で言う。

 彼女の声には緊張と焦りが交じっており、早くこの状況から逃れたいという思いがにじみ出ている。


 アイリスはその態度を見て、一瞬の間、何も言わずに彼女をじっと見つめる。

 その瞳には無言の軽蔑が浮かんでいる。やがて、深いため息をつきながらアイリスは言葉を放つ。


「いいわ。もういい」


 彼女はその一言で終わらせるつもりだったが、続けて少しだけ言葉を加える。


「でも、次はないからね。ルナフレーナ様」


 ルナフレーナはその言葉に安堵の息をつき、何とか自分の威厳を保とうと背筋を伸ばす。しかし、アイリスの目にはまだ冷たさが残っており、彼女が完全に信用していないことを物語っている。

 廊下には重い沈黙が戻り、誰もがその場の緊張感を肌で感じていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る