第8話 無責任と言葉遊び

 学習室の空気は重く、ルナフレーナの無関心な態度がその場を支配していた。

 アイリスに無理やり連れてこられたものの、彼女は全くやる気を見せていない。

 机に教科書が一応開かれているが、その中身には目もくれず、窓の外ばかりを見つめている。


 窓の外では、青い空に浮かぶ白い雲がゆっくりと流れ、庭園の木々が風に揺れている。鳥のさえずりが遠くから微かに聞こえ、春の心地よい風が木々の間を吹き抜けていた。

 まるで自然が彼女を誘っているかのように、ルナフレーナの視線はずっと外に向けられていた。


 その一方で、ラフィーナは教壇に立ち、真剣な顔で歴史の授業を続けている。

 彼女の声は落ち着いており、太祖・神武帝フェルディナントの偉業を丁寧に説明しているが、ルナフレーナがその話を聞いていないことに気づかないはずがなかった。

 ラフィーナはため息をつき、しばらく考えた後、彼女に優しく声をかける。


「ルナフレーナ様、ご先祖のことですから、もう少し真剣に聞いてください」


 彼女の声には、皇族としての責任を感じてほしいという願いが込められている。

 教え子への期待、そして歴史の大切さを伝えたいという熱意が感じられた。


 しかし、ルナフレーナはその言葉に一切の反応を見せず、肩を軽くすくめて窓の外を眺め続ける。

 その態度には、まるでラフィーナの存在を完全に無視しているかのような余裕が漂っていた。

 しばらくの沈黙の後、彼女は口を開く。


「もう飽きたわ」


 授業そのものが退屈で無意味だと言わんばかりに、あっけなく投げかけられた。

 ラフィーナの説明がどうでもいいかのように、軽々と切り捨てるような口調だ。


「こんなに良い天気なのに、教室に閉じこもってるなんてあり得ないでしょ? それより、釣りにでも行きたいわね。今から、一緒に湖に行かない?」


 ルナフレーナはそう言うと、笑顔を浮かべながらアイリスに目を向けた。

 その表情には、まるで自分の願望が当然通るかのような傲慢さが滲んでいる。

 彼女は窓の外を指差し、すでに授業のことなど頭から吹き飛んでいる様子だった。


 アイリスは、ルナフレーナの無責任で軽率な

態度に眉をひそめた。

 彼女の目には明らかな苛立ちが浮かんでいる。

 そんな提案に乗る気など、まるでない。しかし、ルナフレーナの性格を知っているアイリスは、単に反対するだけでは効果がないことも理解していた。

 彼女は一度ため息をつき、冷静な声で一言告げた。


「一歩でも外に出たら、血の雨が降るわよ」


 ルナフレーナはその脅しに全く怯む様子を見せず、むしろ軽く鼻で笑うだけだった。


「どうして今から釣りになんて行かないといけないのよ。黙って勉強しなさい。入学試験は近いんだから」


「えーえ、細かいことは気にしなくていいじゃない。とにかく行こうよ! 絶対に楽しいからさ」


 ルナフレーナは悪びれる様子もなく、楽しそうに笑いながら続けた。

 彼女の顔には全く危機感がなく、ただこの場から抜け出して楽しい時間を過ごしたいという考えしかない。試験が近いことなど、頭の片隅にも残っていないようだ。


「だからダメって言ってるでしょ。しつこいと、皮を剥ぐわよ」


「嫌っ!」


 ルナフレーナは顔を顰め、冗談めかした調子で応じるが、その背後にはわずかな緊張が見える。それでも彼女は引き下がらず、さらに挑戦的な態度を取った。


「一緒に来てくれないなら、この場で騒ぎ続けるからな」


 その宣言に、アイリスは顔を強ばらせ、わずかに舌打ちをする。


「うっざ……」


 彼女は小さく毒づきながら、冷たい目でルナフレーナを睨みつけた。

 アイリスの目には明らかに不満と怒りが宿っている。

 彼女の我儘には慣れているものの、ここまでしつこくされるとさすがに堪忍袋の緒が切れかけていた。

 すると、その場の緊張を破るかのように、明るい声が響いた。


「私はぜひご一緒したいです!」


 二人の間に割って入ったのはメイベルだった。

 満面の笑みを浮かべ、何も気にしていないかのように手を挙げた。

 彼女の目はキラキラと輝いており、この場の険悪な空気を感じ取っていないかのようだ。

 ルナフレーナはその突然の介入に驚き、メイベルをじっと見つめた。少し呆れたような顔をしながら、彼女は口を開く。


「ずっと気になっていたんだけどさ……何でお前、当たり前のようにここにいるの? ここ、宮廷だよ?  誰もが出入りできる場末の酒場じゃないんだよ」


 彼女は呆れ顔で言いながら、メイベルの無遠慮な態度に戸惑いを隠せない。


「ご安心ください、ルナフレーナ様。陛下からちゃんと許可を頂いてますから!」


 その明るい笑顔に、ルナフレーナはさらに眉をひそめた。彼女はしばらく考え込み、軽く肩をすくめながら、口を尖らせて愚痴る。


「どうしてお父様はこんな奴に許可を出したんだ……野盗の次くらいに入れちゃいけない奴だろうに……」


 ルナフレーナは呆れた声でそう言うが、メイベルは依然としてにこにこしている。 

 まるで彼女の言葉がまったく気にならないかのように。

 その無邪気さは、時にその場の雰囲気を軽くするが、今の状況ではその無邪気さが逆に不安を煽る要因となっていた。

 そこで、アイリスが堪忍袋の緒が切れたように口を開いた。彼女はメイベルの軽薄さに若干の苛立ちを覚えながら、冷静に注意する。


「メイベル様、いい加減にしてください。悪ノリはやめてください」


 アイリスの冷たい目がメイベルをしっかりと捉えている。

 彼女は一瞬だけ戸惑ったような表情を見せたが、すぐに微笑みを浮かべたまま「はい」と素直に答えた。

 アイリスの視線は次にルナフレーナに向けられた。彼女は深くため息をつき、しっかりとした口調で続ける。


「入学までもう時間はそうないのですよ。これ以上の無責任な態度は許されません。学院には他国の王族や貴族の子弟も入学しています。今のような振る舞いでは、帝国の威信に傷をつけるどころか、外交問題にまで発展しかねません。本当に注意してください」


 ラフィーナもまた、アイリスに続いて厳しく言葉をかける。


「アイリス様のおっしゃる通りです。ディオザニア帝国の皇女として、他国の人々に見られているという自覚を持ってください。帝国の未来を担うお立場にあるのですから、帝国の威厳を損なうような行動は慎んでいただきたいのです」


 アイリスとラフィーナは、ルナフレーナの軽率な態度に真剣な表情を浮かべていた。彼女たちはルナフレーナの振る舞いがどれほど重大な問題を引き起こす可能性があるかを十分に理解しており、皇女としての責任をしっかり自覚させようと必死だった。


 しかし、当の本人の反応はまったく変わらなかった。彼女は、二人の言葉が自分に届いていないかのように、軽く笑みを浮かべている。


「他国の王族や貴族? そんなもの、所詮は夷狄いてきでしょ。ただの田舎者に過ぎないじゃないか」


 ルナフレーナは平然とした顔で、あっさりと差別的な発言を口にした。彼女の表情には何の悪意も見えないが、その無神経さが際立っていた。

 アイリスはその言葉に一瞬、表情を強張らせたがすぐに冷静さを取り戻し、厳しい声で注意する。


 「それ、普通に差別発言ですからね。絶対に外では言わないでくださいね」


 彼女の声には苛立ちと呆れが込められている。

 アイリスはルナフレーナがどれほど現実を知らずに育ってきたかをよく理解しているが、ここまでの無神経さにはさすがに疲れを隠せない。

 しかし、ルナフレーナは一向に反省する様子を見せず、さらにふざけた調子で続ける。


「じゃあ、南蛮人ならどう? これなら差別発言にならないでしょ?」


「それもやめてください。差別発言になります」


「南蛮が差別発言?  なら、チキン『南蛮』は差別主義者の食べ物なのか? あの美味しいカレー『南蛮』はレイシズムが生み出した料理ってことなのか?」


 彼女の言い草に、アイリスはまた一つため息をつく。何を言っても、ルナフレーナにはその深刻さが伝わらない。むしろ、ふざけた態度を強めているようにさえ見える。


「違うわよ。料理の話じゃなくて、他者に対してどういう言葉を使うかの問題よ」


 アイリスの声には明らかな苛立ちが混じりつつも、冷静さを保とうと努力している様子が伺える。

 だが、ルナフレーナはそれに対しても軽く笑い、「お前はポリコレか? 公爵令嬢のくせに何ポリコレ気取ってんのよ?」と挑発するように言い放った。


 アイリスの冷たい視線がルナフレーナに鋭く注がれる。その表情には怒りと呆れが混じり、冷たい刃のような緊張感がその場を支配していた。

 彼女は一度深く息を吸い、感情を押し殺すように厳しい声で言う。


「そういう言葉遊びをしている場合じゃないのよ、ルナフレーナ様。皇女としての自覚を持ちなさい。あなたの発言一つが、どれほどの影響を与えるか、まだ分からないのですか?」


「輔導役の次はポリコレですか? 言葉狩りを人道主義に基づく啓蒙活動とでも勘違いしてるんじゃないの?」


 ルナフレーナはその言葉に全く怯むことなく、むしろさらに挑発的な笑みを浮かべていた。そして、彼女は皮肉たっぷりに続ける。


「お前みたいなポリコレ野郎は、ツェッペコルド広場で演説台を設置して民衆に説教でもしてればいいわ。そこで罵倒されて、石でも投げられてれば?」


 その発言は明らかに挑発的で、アイリスを意図的に怒らせるためのものだった。

 ルナフレーナはふざけた様子で、軽々しく言葉を投げかける。

 彼女の口元には薄く笑みが浮かんでいるが、その笑みがかえって空気を一層悪くしているのを感じ取れないようだ。


 部屋全体の空気が凍りつくように一変する。

 アイリスの目はさらに冷たく鋭くなり、彼女の体から放たれる威圧感が急速に増していく。ラフィーナや衛兵たちも、一瞬で顔を強張らせ、部屋の隅で息を呑んで様子を見守っている。

 誰もが、このままではアイリスがキレれてしまうと察したのだ。


 ルナフレーナもようやく、その場の空気が変わったことに気づいた。

 アイリスの表情を見て、笑みを引き攣らせる。彼女がブチ切れる寸前だと悟り、内心で焦りを感じ始めたのだ。しかし、その緊張感に気づかない者、いや、むしろこの場の重々しい空気を楽しんでいる者がが一人いた――メイベルだった。

 アイリスの厳しい視線やルナフレーナの怯えた表情、そのやり取りのすべてが、まるで愉快なコメディショウを見ているかのように彼女にとっては面白かったのだ。


 ルナフレーナはアイリスを挑発するくせに、彼女の逆鱗に触れるとウサギのように怯える。

 その一連の流れが、メイベルにはおかしくて仕方がない。

 彼女は隣で楽しそうに笑いを噛み殺しているが、目元には明らかに愉悦が宿っている。


 アイリスは静かに立ち上がった。

 その動作には一切の無駄がなく、ゆっくりとルナフレーナに歩み寄る。

 彼女の足音が静かに響き渡り、まるで処刑台に向かう囚人を見送るかのような冷たさが漂っていた。


 彼女はその様子を見て、明らかに不安な表情を浮かべた。

 自分が挑発しすぎたことを、ようやく後悔し始める。

 アイリスが彼女の前に立ち止まると、その顔には冷酷さが浮かんでおり、異端審問官のような冷徹な威圧感があった。


「ルナフレーナ様」


 アイリスの声は低く、抑えたトーンでありながら、有無を言わせぬ響きがある。


「ふざけたことばっかり言っていると、うっかり殺してしまうかもしれないから、注意してくださいね」


 表面的には丁寧な口調だが、その裏には容赦のない威圧が隠れていた。

 一歩でも間違えたら、本当に命を奪いかねないかのような冷酷な雰囲気が漂っていた。

 アイリスの顔は笑っていない。目の奥には冷徹さが宿っており、誰が見ても本気で怒っていることが分かる。


 ルナフレーナはその瞬間、全身に寒気が走った。

 普段はどんなに強気でも、今は明らかに違う状況だと理解し、彼女の顔色は急速に青ざめていく。

 脈が速まり、息が詰まるような感覚に襲われながら、ルナフレーナは必死に頷く。


「……わ、分かった……」


 今は、これ以上ふざけてはならない状況だと理解しているのだろう。

 アイリスはその様子をじっと見つめ、無言で相手の怯えた姿を確認する。

 彼女の表情には一切の同情がなく、ただ冷静に、しかし強い圧力を保ったまま立っている。その態度は、ルナフレーナに二度と同じ過ちを繰り返さないように釘を刺すかのようだった。


 一方、メイベルは依然として楽しげな笑みを浮かべていた。

 アイリスがようやく怒りを抑え込み、ルナフレーナに最後通告をしたときも、彼女

はその場を和ませるわけでも、狼狽えるわけでもなく、この状況がどうなるのかワクワクしているかのようだった。

 彼女の笑顔は変わらず、視線は二人の間を楽しげに行き来していた。


 ラフィーナや衛兵たちはその異様な光景を見守りながら、心の中で静かに呆れ始めていた。

 ルナフレーナ、アイリス、そしてメイベルのそれぞれが三者三様に異常な性質を持ち、その組み合わせが宮廷の一室を奇妙な緊張感で満たしているからだ。

 長年にわたり、皇族や貴族たちを教育してきたが、ここまで異様な個性を持つ者たちが集まるのは珍しいことであり、何とも言えない不安感が彼女の胸に残る。


 衛兵たちもまた、静かにその場を見守りながら、冷や汗をかいている。

 彼らは帝国の威信を守るべく訓練を積んできたが、このような精神的な圧力には無防備だ。誰も口を開かず、ただ彼女らのやり取りを息を飲んで見守っているだけだった。


「わかったなら、黙って勉強するわよ」


 アイリスが冷静な声で命じるように言うと、ルナフレーナは、最初こそ「それは……ちよっと」と断ろうとしたが、アイリスの鋭い視線が再び彼女に向けられると、言葉を飲み込んだ。


「……はい、わかりました……」


 その威圧にはさすがに逆らえないと感じたルナフレーナは、渋々と勉強に戻ることを決めた。

 アイリスが自分の席に戻ると、その場の緊張感は徐々に薄れ始める。

 しかし、ルナフレーナの表情には依然として不満が色濃く残っており、机に向かいながらも、釈然としないといった顔をしていた。

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