第7話 力か、偶然か、それとも運命か②

 しかし、その背中にはほんの少しの汗がにじんでおり、内心ではまだ彼女の冷酷な言葉に怯えていることが見て取れる。

 にもかかわらず、彼女は自らの状況をなんとか覆そうと、全力で勝負に持ち込もうとする。


 アイリスはルナフレーナの提案に一瞬だけ眉をひそめたが、その瞳には冷たい光が宿っていた。

 しばらく無言で彼女を見つめた後、ため息をつきながら頷く。


「わかりました。その勝負を受けてあげます。どうぜ、そうでも言わないと頑として動かないんでしょ」


「私のことをよくわかってるじゃないか。さすがアイリスだ」


「ただし、ズルはしないでくださいね」


 その釘を刺すような言葉に、ルナフレーナは顔をしかめた。まだ何もしていないのに、不正を疑われることが自尊心を傷つけたのだ。彼女はアイリスを睨みつけ、口を尖らせて言い返す。


「まだしてもないのに、そうやって決めつけて注意をするなよ! 自尊心が傷ついて、真っ当に成長できなくなんだよ」


 ルナフレーナの言葉には、どこか子供じみた意地が含まれている。

 自分が正当であることを主張し、相手の警戒心を解こうとしているのだが、その言葉はむしろ自分の立場を弱くしているようにも思える。

 アイリスは再びため息をつき、冷ややかな目で彼女を見つめたが、何も言わずにただその場で腕を組んで待った。

 その態度には、不正をするつもりがないかどうかを見抜こうとする警戒心が込められている。


 ルナフレーナは少し居心地悪そうにしながらも、トランプの束に視線を戻す。

 心の中で鼓動が少し速くなるのを感じながら、自分を落ち着かせるように深呼吸をした。

 大丈夫よ、冷静になれば問題ない。ここで負けるはずがない。ルナフレーナはそう自分に言い聞かせ、慎重な手つきでトランプの束に手を伸ばす。


「6割以上の確率で勝てるんだ……焦ることはない」


 彼女はそうつぶやきながら、次のカードに指をかける。

 勝負の瞬間が近づくにつれ、その目は再び燃えるような情熱を帯びてきた。

 何としてでも勝ちたい、そう思いながら彼女はゆっくりとカードをめくった。


 そのカードがテーブルの上に現れると同時に、ルナフレーナの顔には瞬時に絶望の色が広がった。

 クラブのキング――それは、アイリスの勝利を決定づける一枚だった。


 ルナフレーナの目は見開かれ、動揺が走った。心臓が一瞬止まったかのように感じ、体から血の気が引いていくようだった。

 目の前に広がる現実を何とかして拒絶しようと、彼女の頭は混乱し、考えがまとまらない。

 その時、ルナフレーナの手が不意に動いた。


「あっ……手が滑った!」


 彼女はそう叫ぶと同時に、テーブルの上のカードをめちゃくちゃにかき混ぜた。

 カードは四方八方に散らばり、チップも揺れ動く。

 場を乱してしまえば、先ほどの敗北が無効になるかのように、彼女は無邪気で子供じみた行動に出たのだ。

 アイリスの顔には瞬時に怒りの色が広がった。彼女の眉は鋭く上がり、目には冷たい光が宿る。


「やっぱりズルしたじゃない!」


 周囲の侍女や衛兵たちは凍りついたようにその場で立ち尽くし、息を飲んで二人のやり取りを見守っていた。

 しかし、ルナフレーナはアイリスの指摘に対して、全く動じる様子を見せない。むしろ、開き直るように肩をすくめ、手をヒラヒラと振って言い返す。


「ズルはしていないわよ! 手が滑っただけだもん!」


 その言い分には全く説得力がなく、その声には明らかに焦りと自己弁護が滲んでいる。

 さらに言葉を重ねることで、なんとか自分の行動を正当化しようとしているが、その必死さがかえって見苦しく感じられる。

 まるで子供が悪さをした後に苦し紛れの言い訳をしているようだ。


 アイリスは深いため息をつき、再び冷ややかな目でルナフレーナを見つめた。

 その視線には怒りだけでなく、どこか呆れと失望も込められている。


「なら、仕切り直しましょう。でも、次に同じことをしたら承知しないわよ」


 アイリスの声は冷静でありながらも、その底には鋭い警告が込められていた。

 彼女はテーブルに手を伸ばし、カードを整える。

 トランプの束をしっかりと揃え、ルナフレーナに向けてきっぱりと言い放つ。


「もちろんよ。皇女の名において約束しましょう」


 ルナフレーナはその言葉に少しだけたじろいだが、すぐに自分を奮い立たせるように、肩を張って頷いた。彼女の表情には依然として自信があり、まだ自分が勝てると信じているかのようだった。

 アイリスは新たなカードをめくり、その結果をテーブルに広げる。次のカードはハートのクイーン――またもや10よりも大きい数字だった。


 ルナフレーナはカードの結果を見て、一瞬たりとも迷うことなく、その場に立ち上がり、余裕たっぷりに言い放つ。


「また手が滑ったわ」


 その口調には、全く反省の色も誠実さもなく、むしろ当然の権利といわんばかりの自信に満ちた響きがある。

 彼女はこれまで賭博は偶然に身を委ねるものだと、偉そうに講釈を垂れていたにもかかわらず、いざ自分が追い詰められると、平気でルールを無視しようとする。

 その態度は、まるでこの場の全てが彼女の意志に従っているかのようであり、誰も彼女に逆らえないと信じて疑わない。

 その傲慢さは、すでに常識を超えていた。


「あーあ、手が滑ってしまうな。また、やり直しになってしまう!」


 ルナフレーナは一切の躊躇もなく、テーブルの上に広がったカードを掴もうと手を伸ばす。

 自分がルールそのものであるかのように、当然のように結果を覆そうとするのだ。

 彼女の顔には微かな笑みさえ浮かび、どこか楽しんでいるかのような様子すら感じられる。

 そろそろ、このアイリスに現実というものを教えてやる時ね……私が皇女として、この世界のルールを決める者だってことを。

 彼女はそんな考えを頭の中で巡らせながら、カードを乱そうとした。


 だが、その動作よりも早く、アイリスの手が彼女の腕を掴んだ。その掴み方には一切の妥協もなく、力強い。アイリスの目は冷たく鋭く、容赦のない怒りがこもっている。


「承知しないって言ったでしょ」


 その瞬間、アイリスは躊躇なくルナフレーナの腹に拳を叩き込んだ。

 拳が深く腹にめり込むと、彼女は初めて顔を歪め、痛みと驚きが一気に襲いかかる。一瞬声を上げるが、その声は喉の奥で詰まり、苦しげに絞り出される。


「ぐ……は……」


 彼女は屈み込んで息を呑み、顔を真っ赤にしている。今までの余裕も傲慢さも消え去り、痛みによる混乱と怯えが浮かんでいる。

 アイリスはそのまま冷酷な視線を崩さずに、ルナフレーナを見下ろし続けた。


 こ、これは本気で怒ってるやつだ……。鈍感なルナフレーナはもアイリスの本気度を悟り、全身が震え始める。

 彼女の目には明らかな恐怖が見えるが、それでもなお自尊心が残っているのか、しがみつくように言い訳を続ける。


「こ、この手が勝手に動いたんだ!  本当よ、許してくれ~!」


 彼女は泣きそうな声で叫びながら、腕を振り解こうとするが、その力は無力だ。

 今までの堂々とした態度は消え失せ、完全に追い詰められた子供のように見える。

 アイリスは冷淡な表情を崩さず、ルナフレーナの腕をさらに強く引き寄せる。


「言い訳なんて聞きたくない。さっさと行きますよ」


 その言葉とともに、アイリスは無理やりルナフレーナを引っ張りながら、学習室へと向かって歩き始める。

 ルナフレーナは「いやだ、行きたくない!」と叫びながら、引きずられるように足を引きずるが、アイリスの腕力には逆らえない。

 まるで飼い主に引かれる子犬のように、哀れな姿をさらす彼女の顔には、痛みと怯えの色が浮かんでいる。


 アイリスは一切表情を変えず、無言のまま彼女を引きずり続ける。

 ルナフレーナの泣き叫ぶ声が廊下に響くが、アイリスはその声を全く無視しているようだった。

 彼女の足取りは確固たるもので、一歩もぶれることはない。


 その後、静寂が宮廷の一室に戻り、重い空気がその場に漂う。

 侍女たちや衛兵たちは、お互いに困惑した表情を浮かべながら顔を見合わせる。

 誰もが何かを言おうとして言葉を飲み込む。

 ルナフレーナの見苦しい駄々と、その後のアイリスの冷徹な対処に、全員が言葉を失っているようだった。


「……とんだことになりましたね」


 侍女の一人が小さな声で呟く。

 彼女の声には、不安と少しばかりの同情が混じっている。

 周りの侍女や衛兵たちも同じような表情を浮かべ、次にどうするべきか迷っている様子が伺える。


「ええ……でも、俺たちが何とかできる問題ではないですし……」


 衛兵の一人が続ける。彼の顔にも困惑と気まずさが表れている。

 やがて、彼は大きく息をついて、仲間たちに視線を送った。


「我々も、そろそろ仕事に戻りますか」


 その言葉に、場の空気が少しだけ緩む。

 侍女たちや衛兵たちは、それぞれ小さく頷き、散り始める。

 重い沈黙を破るように、彼らは部屋を後にし、それぞれの持ち場へと戻っていく。廊下には足音だけが残り、少しずつその音も遠ざかっていく。


 宮廷の一室には、乱れたカードと、ほんの少しの後味の悪さが漂っていた。

 時間が経つにつれて、空気は再び静寂を取り戻し、その場の出来事はまるで一瞬の嵐が過ぎ去ったかのように、誰も語らないまま消え去っていった。

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