第11話 試験と逆鱗
ルーフェンヴァルト学院の特別試験室は、学院の中でも一際目を引く豪華な部屋であった。
壁は深紅と金の装飾で飾られ、天井には手彫りの模様が施されている。
机や椅子も、試験室らしからぬ重厚な造りで、所々に精緻な彫刻が施されている。とはいえ、皇女の暮らす宮廷に比べると少し質素ではあるが、それでも一般の試験会場とは比べ物にならない華麗さだった。
試験開始の時を告げるチャイムの音が部屋に響くと、試験官が軽く咳払いをして、静かに宣言した。
「それでは、試験を始めてください」
ルナフレーナは机に広げられた試験問題を見下ろし、最初の一問目をじっと見つめた。が、その次の瞬間には既に顔をしかめていた。全く分からないのだ。
昨夜のお祭りで夜更かしした疲れもあって、頭の中が霞がかったようにぼんやりと重い。どこか遠くから響いてくる声のように、試験官の声が耳元で微かに反響していた。
「あぁ……眠い……」
彼女は心の中で不平を漏らしながら、しばらくぼんやりと机の上を眺めていたが、突然顔を上げると、待機している侍女に目を向けた。
「ねぇ、熱いコーヒーを持ってきて。すぐにね」
侍女は一瞬、驚いたようにルナフレーナを見つめた。
試験中に飲食などあり得ないことなのだが、しかし相手は皇女。
特別室を用意されている立場の彼女にとっては、この程度の要望は当然のごとく許されるものだ。侍女はすぐに頭を下げると、急いでコーヒーを取りに行こうとした。
一方、試験官たちはルナフレーナの指示を聞いていたが、何も言わずに黙って見守っていた。
さすがに試験中の飲食には目を見張るものがあるが、皇族としての特別待遇を熟知している彼らにとって、何も注意せず見守る方がかえって自然に思えたのだ。
ルナフレーナは侍女が出ていくのを横目で見送ると、再び机に向かいながら小さくため息をついた。
試験問題の一文を追おうとするものの、眠気が襲ってくる度に頭がうつむき、視界が揺れていく。
「……早くコーヒーを持ってきてよ……」
侍女が戻り、湯気の立つカップを机にそっと置くと、ルナフレーナは軽く笑顔を浮かべて、フランクに言った。
「ありがとう、助かったわ」
普段は傍若無人な皇女が侍女に気さくにお礼を言う姿は、彼女の人柄の一面を垣間見せるものだった。
彼女はカップを手に取り、熱いコーヒーを一口飲むと、少し元気が戻ったように背筋を伸ばして試験問題に向き直った。
だが、問題文を読み進めるうちに、彼女の顔には再び困惑と苛立ちが浮かび上がる。
「……全然、分からないじゃない。こんなの作るなんて、どうかしてるわよね」
小さく嘆息しながら、手元のペンをくるくると回していたが、やがてじっと侍女に視線を向け、呆れた口調で愚痴り始めた。
「この私に分からない問題なんて作る方が悪いと思わない? もうさ、こんな問題作った人、絞首台に送った方がいいと思うんだけど、どう?」
侍女はその言葉に思わず目を見開き、一瞬言葉に詰まった。
普段なら聞き流してしまうべきだが、さすがに「絞首台」とまで言われると、どう反応すべきか困惑してしまう。
「そ、それは……ちゃっと……」
ルナフレーナは侍女の顔を見て、肩をすくめて笑う。
「ああ、冗談よ、冗談。そんなことで人を絞首台に送るわけないじゃない」
冗談だと言いながらも、彼女の口ぶりはどこか本気にも聞こえなくもない。
侍女も、どう返してよいのか困った表情を浮かべながら、少し引きつった笑みを浮かべていた。
部屋の端に座る試験官は、皇女が試験中に侍女と談笑し、冗談混じりの会話を交わしている異様な光景に一瞬顔をしかめたが、何も言わず、ただ黙って見守るしかなかった。
ルナフレーナにとって、特別試験室は自室のように振る舞える場所のようで、緊張感など皆無のまま試験が進んでいった。
彼女はコーヒーをすすりながら、当たり前のように侍女と談笑を続けていた。試験中だというのに、周りの空気などまるで気にしていない。
「ところでさ、そこで立ってたら話しにくいから、もっとこっちに来てよ。ていうか、隣に座りなさいよ」
侍女は、その突然の指示に慌てて顔を伏せた。
「それは……畏れ多いことでございます、ルナフレーナ様」
「いいから。私が座れって言ってるんだから、座りなさい」
ルナフレーナのしつこい誘いに、侍女は渋々ながらも小さく頭を下げて隣に腰を下ろした。
その侍女は、皇室に仕えるにふさわしく、端正で品のある容姿をしている。
艶やかなブラウンの髪を後ろにまとめ上げ、白い肌に細かな化粧が施され、少し大きめの瞳が印象的だ。
身に着けているのは深緑色のエレガントなドレスで、シルバーの刺繍が入ったエプロンがその出自の高さを表していた。
ルナフレーナはニヤリと笑って侍女を見つめ、試験問題を指さした。
「さて、せっかく隣に座ったんだし、ちょっと助けてよ。この問題、全然分からないのよ」
侍女は一瞬、目を見開きながら小声で答える。
「ですが、これは試験問題でございますし、私が解答をお教えするのは……」
ルナフレーナは、そんな侍女の返答を軽く手で制し、あっさりと言い放った。
「別に、白紙でも合格だから構わないわ。でも、ゼロ点ってのは皇女として、少しイヤなのよね。別に誰に見られるわけでもないんだけど、私のプライドが許さないってだけ」
侍女は困惑した表情を浮かべたが、ルナフレーナの顔には真剣な色が浮かんでいた。
皇女らしからぬ自由奔放な発言に見えて、その裏にあるのは高い自尊心であった。皇女として「できない」と見られることがどうしても納得いかないのだ。
「……ですが、さすがにルナフレーナ様の試験問題に手を出すなど、畏れ多いことで……」
「細かいこと気にしないでよ、ね? 私だって、できるならちゃんと解くわ。でも、今はあなたが隣にいるんだし、どうせなら少し助けてよ」
侍女はルナフレーナのその堂々とした依頼に一瞬迷いながらも、彼女の強い視線を感じ、ついに小さく頷いた。
「……わかりました、ルナフレーナ様。それでは、ほんの少しだけ」
ルナフレーナは満足げに微笑むと、侍女に解答のヒントを尋ね始め、二人でひそひそと試験問題について話し始めた。
その様子を試験官は遠くから見守り、異様な光景に小さくため息をついたが、何も言わず、ただ静かに試験の続行を見届けていた。
何問か侍女の助けを借りて解くと、ルナフレーナはすっかりご機嫌になっていた。試験中だというのに肩の力が抜け、リラックスした様子でほほ笑む。
「ふふ、なかなか気持ちのいい試験だわ。こんなに気分が良いのは久しぶりね」
彼女は、隣で問題を教えてくれた侍女を満足そうに見つめ、ふと興味が湧いてきたよ うに尋ねた。
「そういえば、あなたの名前はなんていうの?」
侍女は少し驚いたように目を瞬かせ、丁寧に一礼したあと、静かに口を開いた。
「……マリアと申します。マリア・ウィンザァードです」
「あぁウィンザァード家か!」
ルナフレーナの目が輝く。南部の地方貴族として知られるウィンザァード家と聞き、急に親近感を覚えたらしい。
「じゃあ、あなた南部の出身なのね。実はね、私のお母さまも南部のご出身なのよ! なんだか繋がりを感じるじゃない」
ルナフレーナは馴れ馴れしい様子でマリアの肩に手を軽く置き、親しげに微笑んだ。
侍女のマリアは突然の皇女のフランクな態度に戸惑いながらも、礼儀正しく微笑んで応える。
ウィンザァード家の者として、彼女も幼いころから厳しい教育を受けてきたが、皇族と直接関わる機会は多くなかったため、このような親しげな接し方をされるとは思ってもいなかった。
「そうか……それじゃあ決めたわ!」
ルナフレーナは突然の思いつきでマリアをじっと見つめると、ニヤリと自信満々に言い放った。
「あなた、私の専属になりなさいよ。教養もかなりあるし、これからずっと私の側で仕えてちょうだい」
マリアは一瞬、その申し出の意味を理解できず驚きの表情を浮かべた。
皇女の専属侍女などという役目は、名誉ある立場だが、その分責任も重く、簡単に「はい」とは言えないものである。しかも、この話が試験中に突然出されたため、どこまで本気なのかも分からなかった。
「……あの、私は皇女様の専属侍女に任じられるような身分では……」
「いいのよ、気にしないで」
ルナフレーナは手をひらひらと振り、さらにニヤリと笑った。
「私が決めたことなんだから、間違いないわ。それに、お母様も喜んでくれるはず。南部同士のつながり、素敵じゃない」
マリアは微妙に戸惑いながらも、少しずつ心を落ち着け、かすかに微笑んだ。
試験室内が静まり返る中、ルナフレーナは唐突に机から立ち上がり、彼女をじっと見つめて言い放った。
「そうと決まれば、もう行きましょうか」
「え……? どこに行かれるのですか?」
マリアは一瞬言葉に詰まり、困惑しきりにルナフレーナを見上げた。
「どこって、外よ。今日は気分がいいから、試験なんてさっさと切り上げて、食事にでも行きましょう」
ルナフレーナはさも当然といった顔で、悠然と背伸びをした。そして、試験官に向き直り、命令するように告げる。
「私の解答用紙に名前を書いておいてちょうだい。名前だけでいいから」
これまで一言も発さず、皇女の言動を見守っていた試験官も、さすがにこの言葉には反応を見せた。
試験官の男がすぐに立ち上がり、厳格な表情で口を開く。
「ルナフレーナ様、大変畏れながら、そのような事は私共も出来かねます。皇女殿下であっても、試験の規律は……」
その言葉にルナフレーナは軽くため息をつくと、冷たい視線を試験官に向け、凛とした声で遮った。
「あなた、私が誰か分かって言っているのかしら? ディオザニア帝国の皇女よ。同じことは二度言いたくないからお願いね」
試験官は圧倒され、困惑した様子で口をつぐむ。結局、何も言えずに頭を下げるしかなかった。
「では、マリア。行きましょう!」
ルナフレーナはニコリと笑みを浮かべ、強引にマリアの手を掴むと、そのまま特別試験室の扉を開けて、堂々と外へ向かった。
廊下を歩きながらもルナフレーナは愉快そうに鼻歌を口ずさみ、何も気にしない様子で進んで行く。
マリアは初めての大胆すぎる展開に戸惑いつつも、皇女に引かれるまま、半ば強引に廊下を歩いていった。
試験場を後にして、食事を楽しんだルナフレーナとマリアは、宮廷の一室に戻り、ゆったりと世間話をしながらお茶を飲んでいた。
落ち着いた部屋には、柔らかな日の光が差し込み、二人の笑い声が小さく響いている。
ルナフレーナは、試験のことなど完全に忘れた様子で、お気に入りのカップを片手に持ち、リラックスした雰囲気に浸っていた。
しかしその時、部屋の扉が勢いよく開かれた。彼女が驚いて顔を上げると、そこには怒りを露わにしたアイリスが立っていた。
「ルナフレーナ様、今日は随分と早いお帰りですね」
その冷ややかな声に、ルナフレーナは一瞬たじろぎつつも、すぐに飄々とした笑みを浮かべて答える。
「まぁね」
しかし、アイリスはその言葉に、ますます表情を険しくして迫った。
「『まぁね』じゃないでしょ――!」
突然、アイリスの拳が飛び、ルナフレーナの顎を殴りつける。
「痛いっ! いきなり何するのよ!」
「何する、じゃないわよ。試験を受けてる途中で、窓からあなたが宮廷に帰って行くのが見えたのよ! おかしいと思って試験終了後に学院の人に確認したら、あなたが試験を途中で放棄して帰ったっていうじゃないの!」
アイリスの詰問に、ルナフレーナはふて腐れたような顔をして、顎をさすりながら答えた。
「あの試験官……わざわざそんなこと言ったのね。今度、あいつを家族ごと流罪にしてやろうかしら」
「流罪じゃないでしょ。むしろ、ルナフレーナ様の方が懲罰を受ける立場なんじゃない?」
「いや……でもね、あの試験、全然面白くなかったし。どうせ私、試験なんて受けなくても通るんだし……」
アイリスの目が鋭く光り、じっとルナフレーナを見据えた。冷たい怒りが、その目に宿っているのが明らかだ。
「真面目に生きるんじゃなかったの? 勉学に励んで、礼儀も学んで、ちゃんとした皇女として生きる、って言ったのはどこの誰よ?」
その言葉が突き刺さり、ルナフレーナは思わず口をつぐむ。
お祭りの余韻も手伝って、一瞬だけ情熱的に「皇女としての責任」なんて口走ったものの、今となっては恥ずかしいことこの上ない。
彼女は不機嫌そうに口を尖らせ、顎をさすりながら再びアイリスにふて腐れた視線を送る。
そのやり取りを見ていた侍女のマリアは、すぐに立ち上がり、頭を下げた。
「アイリス様、申し訳ありません。私が無理にルナフレーナ様をお連れしたのです。全て私の責任でございます」
だが、アイリスは冷ややかな視線をそのままに、容赦なく応じる。
「いいえ、責任はこの馬鹿皇女にあるのよ。どうせ、ルナフレーナ様が無理やり連れだしたんでしょ」
ルナフレーナは思わず唇を噛んで顔を逸らし、心底嫌そうな顔で呟いた。
「……別に、試験なんて受ける必要ないでしょ。私なら、入学なんて特例でどうとでもなるし」
「明日、もう一度一緒に試験を受けに行くわよ」
アイリスの静かな一言に、ルナフレーナは一瞬体を硬直させ、思い切り顔を背けた。
「行かない」
「なんですって?」
彼女の声が一気に低くなり、部屋の空気が一段と冷え込むようだった。
顔を背けるルナフレーナを、アイリスの視線が鋭く射抜く。威圧感は明らかに敵意を含んでいる。
その瞬間、背中にぞっと冷たい汗を感じた。
アイリスの怒りは本気で、ただで済まされないことが分かる。
彼女は、慌てて表情を取り繕い、乾いた笑みを浮かべた。
「じゃぁ……行きましょうか、ね? 明日、もう一度」
ルナフレーナの乾いた笑みを見て、アイリスは呆れたようにため息をついた。目を閉じ、一瞬疲れを感じさせる仕草をしながら、ぽつりとこぼす。
「まったく……ルナフレーナ様が問題を起こせば、結局は輔導役である私の責任になるんですからね」
その一言に、ルナフレーナは少し照れたように笑みを浮かべる。
「そう堅いこと言わないでよ、アイリス。私なんて、適当でもなんとかなるんだから、あなたも気楽にやればいいじゃない?」
軽々しく言い放つルナフレーナの言葉に、アイリスの視線は冷たいままだ。だが、ルナフレーナも、ただの強がりで言っているだけではないらしい。
ちらっと目を横に逸らすと、小さく咳払いをし、少しだけ真剣な声で続けた。
「……まぁ、アイリスも色々と苦労してきたよね。ここまで疲れたでしょ?」
アイリスがほんのわずかに目を見開くのを見て、ルナフレーナは素早く話題を切り替えた。
「よし、じゃあそこで少し休んでよ。ほら、そこに座りなさい。私が、特別にお茶を淹れてあげるから」
意外な言葉に、アイリスは少し呆気に取られた様子で、椅子に腰を下ろす。
ルナフレーナはその横で、気取った仕草でお茶を淹れ始めた。
ティーポットからゆっくりとお湯を注ぎ、手際よく香り立つ紅茶をカップに注ぎ分ける。いつもはどこか乱暴な手つきの彼女も、こうして目の前でお茶を淹れていると、どこか優雅ささえ感じられる。
「これ、私が庭で育てたハーブを使ってるの。どう? 特製のハーブティーよ」
ルナフレーナは誇らしげに言いながら、カップをアイリスに手渡した。
彼女はその様子に少し呆れつつも、彼女の気遣いに微笑みを浮かべた。
「まさか、ルナフレーナ様がわざわざお茶を淹れてくださるなんてね。ありがとうございます」
アイリスは素直に礼を述べると、ハーブティーに口をつけた。
口に含むと、柔らかく広がる香りが心を落ち着かせ、じんわりとした温かさが身体に染み渡るのだった。
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