中で光る

きみどり

中で光る

 コツコツという音がして顔を上げると、ガラスを隔てた向こう側に礼子れいこちゃんがいた。どことなくイタズラっぽい笑みを浮かべ、片手には虫とり網を持っている。

「どうしたの?」

 僕は立ち上がって、掃き出し窓を開けた。途端にセミの鳴き声がうわんうわんと流れ込んできた。

 僕の部屋は一階にあって、畳の部屋に無理やり学習机を置いている。だから、机のすぐ横が窓で、それを開ければ友達を部屋に招くことができる。

 レイちゃんはアルミサッシにもたれかかって、猫みたいに目を細めた。

「ゲンちゃん、虫とり行こうや」

 首から下げている緑色の虫カゴは空っぽだ。

「えっと……」

 言葉に詰まっている僕に、レイちゃんは小首を傾げた。

「忙しいん?」

「いや……」

 顔だけひょっこり部屋に入れて、僕の机の上を覗き込む。そこには宇宙図鑑が開きっぱなしになっていた。

 ニヤリとされて、なんとなく血の気が引く。

「さすがハカセやな。夏休みやのに勉強しとる。もちろん宿題ももう全部終わっとるんやろ?」

 やっぱり。そんな思いで僕はうつむいた。

 くんとか、くんとかいうのは、僕をからかう時のあだ名だ。本当は元太げんたなんだけど、僕は外で遊ぶのが得意じゃないし、体つきもヒョロヒョロで、完全に名前の逆をいっている。

 ハカセというあだ名も、敬意が少しはこめられていることもあるけど、ほとんどは冷やかしだ。

 大方、レイちゃんもをしに来たのだろう。

 沈黙が落ちる。図鑑の横に置いていたグラスから、カランという音が響いた。

「なあ、そのカルピスもろてもええ?」

 不意にレイちゃんがグラスを指さした。いいよ、と差し出す。エアコンのおかげか、台所から持ってきたばかりだったからか、表面に水滴は浮いていない。

「おーきに! ちゃうねん、ノド渇いてしもて」

 虫とり網を立てかけて、レイちゃんはそれを両手で受け取った。何が「ちゃう」んだろうとぼんやり考えていると、彼女はなぜだかお抹茶をいただく時みたいに、両手の中でグラスをくるくると一回りさせていた。

 それから急にグイッとやったかと思うと、ノドを鳴らして一気飲みし、腕で口を拭う。

「うん。お金持ちの家のカルピスやったわ」

 腕から覗く顔の上半分が、少し赤い気がする。着ている服の色のせいだろうか。

「ごちそうさん」

 返されたグラスを受け取る時に、互いの指がかすかに触れた。スッと引っ込めた両手を後ろで組んで、レイちゃんは「あんな?」と斜め下を見た。

「ゲンちゃんが、すぐしんどなるんは知っとるんよ。せやけど、一緒に遊べへん? 野球とちごて虫とりはスポーツちゃうし、しんどなったら座ればええ。せやったら、いけるやろ?」

 チラッと見上げられて、僕の胸にじわっと何かがにじみ出した。

 僕は外遊びが得意じゃない。だけど、嫌いなわけでもない。虚弱な僕は、周りのペースについていくことができなかった。オマケに引っ込み思案で、何でもすぐに諦めて、我慢ばかりしてきた。

 にじみ出したものがどんどん勢いを増して、僕の胸はワクワクでいっぱいになった。僕は、憧れの外遊びに誘ってもらえたのだ。

 ごくり、と唾を飲み込む。

「でも、チョウとかバッタを捕まえるってなったら、走るでしょ? 僕のせいで逃がすかも……」

「かめへんかめへん!」

 レイちゃんがぐっと身を乗り出した。

「セミとりしよう思っとってん。木にとまっとるとこをガバッてやるだけや。そこで逃がしてもーたらもうあかんから追っかける必要もあれへん」

「でも僕、セミなんてとったことないよ。せっかくセミを見つけても、全部逃がしちゃうかも……」

「うちが教えたる! それに、大丈夫やで。セミとりは逃がしても捕まえてもおもろいねん」

 そう言うと、レイちゃんはニカッと笑ってみせた。頬っぺたの片方に、えくぼが浮かんでいた。

「あ、せやけど」

 それがスッと引っ込み、急に真顔になる。

「クマゼミがおったらうちにやらせてな? クマゼミはレアやねん」

 面食らいながらも、僕は思わず頷いていた。すかさずレイちゃんが「決まりやな」と決定事項にした。




 暑い。さっきまで涼しい室内にいた僕にとっては、外の気温や太陽の光は脅威だ。ジリジリと体力を削られていく。

「どこまで行くのー?」

 自転車で少し前を行くレイちゃんに、そう投げかけてみた。レイちゃんはチラッと振り返ると、進行方向を指さした。

「小学校ー? カブト公園ー?」

 再度声を張り上げ、思いつく場所を並べてみる。でも、レイちゃんはヒラヒラと片手を振るだけで、軽やかにペダルをこぎ続けた。

 じきに、「もしかして」と思う。行く先に森が見えてきて、嫌な予感は確信に変わった。

「井戸の森でセミとりするの!?」

「せや」

 森の入り口で自転車のスタンドを立てながら、レイちゃんは何でもないように言った。

 そんなことしたら、逆に僕らがお化けに捕まえられちゃうよ。とは、言いたくても言えない。だから、遠回しな言い方で、場所の変更を提案してみる。

「みんな、セミとりはもっと別の場所ですると思うけど……」

「せやからええねん。うちらだけのとり放題やで。誰も来てへんから、きっとようさんいる」

 言いながら、レイちゃんは虫カゴを袈裟がけにし、自転車にネット側から突っ込んであった虫とり網を取り出した。柄を最短から最長に伸ばし、着々と準備を進めている。

「ほら、早よ行こ」

「うん……」

 場所を変えてもらうための言葉を必死で考えたけど、何も思いつかない。僕の頭の中は井戸のことでいっぱいになった。

 この森には井戸の残骸があるらしく、「出る」ともっぱらの噂なのだ。めったに誰も近寄らない。

 そんな目に見えて不安がる僕をからかったのだろう。

「手ぇ繋ごか」

 レイちゃんが片手を差し出してきた。

 慌てて、僕は自転車の鍵をかけて、「行こうか!」と宣言した。今さらの怖くないふりだ。

 手を引っ込めたレイちゃんは、笑うでもなく、なぜだか残念そうな顔をしていた。




 蝉時雨が全身を打つ。僕は息を殺して幹を仰ぎ、虫とり網の行く末を見守った。

 レイちゃんが網をかぶせると、逃げようとしたセミは自らネットの奥に飛び込んできた。絡まるように羽をバタつかせながら、ジジジッと鳴き声をあげる。すかさず虫とり網の柄をひねって、ネット部分を二つ折りにして逃げ道をふさいだ。

「な、簡単やろ?」

 レイちゃんはセミを掴み出して、僕の目の前に掲げてみせた。羽の根元を親指と人差し指でつままれたセミは飛ぶに飛べず、ブルブル震えながらジジッジジッと鳴いている。

 その腹に腹弁がちゃんとあるのを見て、僕は「図鑑のとおりだ!」と感動した。まだら模様のある茶色い羽のそいつは、アブラゼミだ。

「頭の方からヒュッてやったらええねん。ゲンちゃんは素人やから、網に入ったらそのまま振り抜いて、地面で網の口をふさいだらええ。素早うやらなあかんで」

 レイちゃんはアブラゼミを虫カゴに入れると、虫とり網を手渡してきた。

 それを両手で握り、僕も目を凝らしてセミを探す。

「ほら、あそこにおるで。そこも、あっちにも」

 レイちゃんは次々と木を指さすけど、僕には見えない。

「すごい……なんでそんな簡単に見つけられるの? 全然わからないよ」

「慣れや」

 保護色という生き残るための知恵を、慣れでこえてくるのか。レイちゃんに対する尊敬と憧れが、さらに跳ね上がった。

 それから、ようやく僕もセミの姿を捉えて、そっと網を伸ばした。「今だ!」と思った瞬間に、ヒュッと網の口を地面に叩きつける。ちゃんとセミが入っていた。

「やった! 初めて捕まえた!」

「上手いやん!」

 レイちゃんの支え持つ虫カゴに、僕のアブラゼミもしまう。先に入っていたセミが驚いてジリィ~ッと暴れだし、カゴの中が賑やかになった。

「でもメスかぁ。オスを捕まえたいなあ」

「どんどんとろか!」

 二人で交互に網を担当して、僕らは見つけたセミを片っ端から捕まえていった。レイちゃんは百発百中、僕はたまに逃げられながら、虫カゴをいっぱいにしていった。憧れのオスゼミもいっぱいとった。

 夢中になって、どんどん森の深くに入っていく。

「あっ、クマゼミや!」

 今度は僕にも見えた。レイちゃんの指さした先に、羽の透明な大ぶりのセミがとまっている。

 僕の番だった網を、そろりとレイちゃんに手渡した。

 レイちゃんは受け取ったそれをまず遠くから掲げてみて、高さを測る。腕を目一杯伸ばし、つま先立ちをし、そして唇を噛んだ。

「あかん。多分ぎりぎり届けへん」

「近くなら届くんじゃない? それか、ジャンプするとか」

 レイちゃんならそのくらいの芸当は簡単にやってのけそうだ。でも首を振られた。

「それやと失敗する可能性のが高い。せっかくのレアもんやのにしょーもないことで逃がすなんてイヤや」

 二人してクマゼミを見つめる。アブラゼミとは違う、透き通った羽がすごくカッコいい。絶対に欲しい。

 ふと、レイちゃんが僕を見ていることに気づいた。

「ゲンちゃんがとってくれへん?」

「僕が? 無理だよ!」

「お願いや。うちより背ぇ高いし、届くかもしれへん。もう素人とちゃうんやし、その方が確率高いで」

 うつむく僕に、レイちゃんはさらに頼み込んだ。

「ゲンちゃんがやってとれへんかったら諦める。またちゃうクマゼミを探したらええわ。せやけど、目の前におるのに指をくわえて見てるだけなんはイヤやねん」

 じゃあ自分でやってみればいいのに、と思ったが、そもそも届かない網を振っても捕まえることはできない。ヤケっぱちとチャレンジは違う。

 レイちゃんは「クマゼミがおったらうちにやらせてな」と前もって言うくらいに、自分の手でレアものをとりたがっていた。だけど、その気持ちを今、僕に託してくれているのだ。

「わかった。やってみる」

 網を受け取り、僕はそーっとクマゼミの木へと近づいた。慎重に腕を伸ばしていくと、セミの頭よりも少し高いところまで網が届いた。

 ヒュッとやって、網枠を地面に叩きつける。

「やったあー!」

 網におさまったクマゼミを見て、僕らは同時に歓声をあげた。しかも、暴れるセミは、ジャジャジャジャッと鳴いている。オスだ。

「ゲンちゃん、すごぃなあ! もう達人やん!」

が良かったんだよ。レイちゃん、網からクマゼミを出してみて」

「ええの?」

 つまんだクマゼミを二人でまじまじ観察した。黒光りする背中に、ガラスみたいな羽。それには葉脈のような黒い線が走っていて、付け根に向かうにつれて黄緑色になっている。裏返してみると、オレンジ色の大きな腹弁がついていた。

「キレイやなぁ」

「キレイだね」

 まるで宝石を扱うみたいに、レイちゃんはそっとクマゼミをカゴにしまった。

 たちまちカゴの中が恐慌状態に陥る。僕らは顔を見合わせて、ぷっと吹き出した。

「大騒ぎやな」

「もうカゴがいっぱいだよ。少し逃がしてやらないと可哀想かもね」

「ほな、あそこに座ろか。いったん休憩や」

 レイちゃんが指さした先には、コンクリートでできた円柱があった。腰かけるのにちょうどいい大きさだ。

 なんで森の中にそんなものがあるんだろう、と思いはしたけど、さほど気にしなかった。だって、僕らはアブラゼミに、クマゼミまで捕まえたんだから。

 顔の高さまで持ち上げた虫カゴを二人で覗き込む。薄暗い森の中では、セミたちはみんな黒く見えた。

 そこで、ハッと立ち上がる。森の中とはいえ、暗すぎる。

 見上げると、空は鬱蒼とした枝葉におおわれ、まったく見えなかった。夢中すぎて、夜になってしまったのだろうか。いや、そんなはずはない。

 次いで、セミの大合唱がやんでいることに気づいて青ざめた。

 弾かれたように身をひねり、腰かけていたコンクリートを凝視する。

「い、井戸だ! レイちゃん、これ、お化けの井戸だよ!」

 だけど、レイちゃんは答えない。どこか遠くを不思議そうに眺めていた。

「レイちゃん、井戸だってば!」

 やっと僕に視線をくれたレイちゃんは「ゲンちゃん」と口を開いて、また遠くを見やった。

「あれ、なんやろ。めっちゃキレイやで」

 お化けだ。と思って、僕は固まった。レイちゃんは取り憑かれてしまったんだ。もうダメだ。

 言われた方を振り返ることなんて当然できない。でも、視界の端で何かがぽっと灯って、僕は反射的に目を動かしていた。

 イルミネーションみたい。

 まず思ったのがそれだった。草木にいくつもの光が灯っている。その多くは低いところに灯っていて、柔らかなセピア色をしていた。鈴なりになっているところもあれば、まばらにしか灯っていないところもある。

 たしかにキレイだ。

 ぐるっと見回すと三六〇度、暗くて見えない森の奥にまで光は続いていた。

 レイちゃんが囁く。

「なあ、ゲンちゃん。宇宙図鑑にもこんな景色のっとった?」

「……のってたかも」

「ロマンチックやなぁ。どれが何座やろ」

「もっと近くで見てみない?」

 自分の口から出てきた言葉に、自分で驚いた。さっきまでの恐怖は、きれいさっぱり消え去っていた。

 少し考えて、レイちゃんが片手を差し出す。

「手ぇ繋げへん?」

 僕は頷いて、その手を握った。

 二人で光のそばにしゃがみこみ、息を飲む。

「セミの脱け殻や。光っとる」

「だからセピア色だったんだ」

 レイちゃんが脱け殻をひとつつまみ上げ、中を覗き込む。

「なんも入ってへん。やのに、なんで光っとるんやろ?」

「光ってるんじゃなくて、光が入ってるのかな?」

「どないして?」

「わかんない」

 僕も脱け殻を覗いてみる。中には何もないのに、それはたしかに光っていた。

「見てみ」

 お椀にした両手に脱け殻が二つ。手の平からじんわりとした光が広がり、それを覗き込むレイちゃんの顔も不思議に照らされていた。星の映りこんだ瞳がキラキラしている。

「レイちゃん、キレイ」

 気づけば呟いていた。顔を上げたレイちゃんとばっちり目が合う。

 しばらく見つめあって、やがてレイちゃんが目を伏せた。長いまつ毛が柔らかな光を弾いている。つんとした唇が、ぽつりと言葉を紡いだ。

「あんな、うち、ゲンちゃんのこと……」

 まつ毛がかすかに震え、言葉が途切れる。

 ぐっと何かを飲み込むようにすると、顔を上げたレイちゃんは笑顔を咲かせた。

「うち、ゲンちゃんとずっと遊びたかってん。今日はほんま、おーきに」

 誤魔化したのはバレバレだった。レイちゃんは気づいていないだろうけど、そっと大事に包んでいる二つの脱け殻が、よりその事をあばいていた。暗闇で照らされると、ちょっとした凹凸おうとつも際立つんだ。

 レイちゃんの眉間に寄る苦悶を、僕は見て見ぬふりをした。

 脱け殻を丁寧に草木に帰し、「さて!」とレイちゃんが立ち上がる。

「帰ろか。実は親に『やれ』言われてることがあるんや。ちょっとでも進めな怒られてまう」

 ああ、夢は終わりだ。

 そう思った瞬間に現実が戻ってきて、僕らは元の森にいた。

「この子たちもバイバイやな。ええか?」

 二人で虫カゴを開け、セミを逃がしていく。最後に放ったクマゼミが、羽をキラキラ輝かせながら飛んでいった。

 あんなにいっぱいだったのに、カゴの中にはもう何もいない。

「暑いなあ。帰りにジュース買うていかへん?」

 賛成して、僕らは帰りに駄菓子屋に寄った。

 地面に置いた瓶の口に、ギュッとキャップを押し込む。ビー玉が落ちて、シュワッと泡が上がった。

「プハー! やっぱラムネはうまいなあ。遊んだ後に飲むんは格別やわ」

 ごくごく飲んで、あっという間にラムネはなくなった。瓶の中にはビー玉だけが残っている。それを空にかざすと、太陽の光が青く透けた。

「ビー玉、キレイだなぁ」

 レイちゃんも瓶をかざす。

「割ったら出せるで」

 クマゼミみたいに自分のものにしてみたい。

 でも僕は首を振った。

「このまま持って帰るよ」

「そっか。ほな、うちもこのまま持って帰ろ」

 またねと言って、僕らは別れた。




 だから、迎えた新学期に僕はショックを受けた。

「礼子さんはお父さんの仕事の都合で引っ越しました」

 先生の言ったことが、ガンガンと頭の中で反響する。

 教室にレイちゃんはいなかった。前から決まっていたことなのか、一学期に使っていた机さえもなかった。ロッカーの名前も、飾ってあった習字も片付けられて、まるでレイちゃんなんて最初からいなかったみたいに全部が消えていた。

 とぼとぼ家に帰ってきて、カルピスを水で割って飲んで、なんとなく宇宙図鑑を開く。あの日見た光景によく似た写真がのっていた。

 何も入っていないのに光っていたセミの脱け殻。あれは、お化けだったのだろうか。

 お化けみたいだ、レイちゃんも。

 今日の学校を思い出しながら、そんなことを思う。教室はレイちゃんの脱け殻になってしまった。だけど、レイちゃんはいないのだけど、レイちゃんを思い出す僕はいる。

 頭の中がぐしゃぐしゃして、少し不思議な気持ちになった。

 顔を上げると、学習机の棚にラムネの瓶が置いてある。もう中身はないけど、ビー玉は残っている。

 なんとなく手にとって、窓にかざした。

 光を含んだビー玉がキラリと輝いた。

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