朝まだき

 紫の空の向こうに、煌めく星が押しやられ始めて。


 床に転がっていた平浪がむくりと上半身を起こし、腹をぼりぼりと掻きながら、少し離れた床で既に身支度を終えているりんに、


「よう、りんさん、早いな。まだ夜明けだぜ。俺は漁に出るけど、好きなだけゆっくり寝ててくれ」

「お気遣いありがとうございます。ですが、十分に休ませていただきましたし、いつもこれ位の刻限には起き出しておりますから。それよりも、腕の具合はいかがでございましょう」

「もうすっかりだ。どっちかってえと、昨夜の酒の方が残ってるな」


 平浪はにかっと笑って、腕をぐるぐると回して見せ、


「いや、すまねえなあ、昨夜は先に寝ちまって。火の始末もやってくれたんだな。助かったぜ」

「いえ、勝手を致しました」


 そこに平浪の背後の壁の穴から斑が姿を現した。


「何だ、お前。昨夜は出掛けてたんか」


 斑は平浪の前を通り過ぎ、りんの前に行儀よく座ると、ちらりと顔を上げた。その小さな顔の口元で、何かが蠢いている。

 斑は咥えていたそれをぽとりと床に置いて、前脚でちょいちょいと転がして見せる。


「何だ、そりゃ?」


 平浪がりんと斑ににじり寄り、床を覗き込んで顔色を変えた。


「こりゃウミ毛虫ケムシじゃねえか! こいつは毒があるんだぞ! おい斑、大丈夫か!」


 慌てて斑を抱き上げ、床の上でゆっくりと身を捩るそれを蹴り飛ばそうと脚を振り上げた平浪に、


「にょおん」

「お待ちください、平浪様。よくご覧くださいませ、海毛虫ではございません。これは『舟曳ふなびき毛虫けむし』でございます。毒はございませんよ」

「……舟曳毛虫? なんだそりゃ」


 斑に顔を足蹴にされ乍ら、平浪が改めて床に目を向ける。


「……確かに、海毛虫とは違うような……けど、そんなの聞いたことねえぞ」

「無理もございません。舟曳毛虫は、本来ならば川の上流に住まうもので、海で見られることは滅多にございませんから。これは清流を好みますから、連日の大雨で濁った水を嫌い、こちらまで流れ着いたのでございましょう」


 確かにこの漁村にも、山の方では近頃の大雨であちこちが崩れ、大変なことになっているという噂は届いていた。


「へえ……しかし、おかしな名だな」


 首を傾げる平浪に、

 

「舟曳毛虫は、こう見えて力強く素早い泳ぎで流れに逆らい、滝よりも更にへと目指すたちを持っております。釣り舟などの下に潜り込むと、その強い力で漕ぎ手の思惑と違う方へと舟を曳いてしまうことから、その名が付いたのでございます」

「はあ、こんな小さいなりでねえ。とてもそんな力持ちには見えんが……ははーん、さては昨夜の話の続きだな? まったくりんさんは冗談が上手いな、ガハハハ」

「ふふふふ」

「にゃあん」


 平浪は床に置かれたそれをまじまじと眺めた。言われてみれば、海毛虫にしては身が細長く、体の横に生えた毛の隙間からは、二対の腕か脚のように鉤爪が生えているのが見えた。おまけに体の一端では二本の長い髭のようなものがうねうねと蠢めき、その様はなにやら……と、思案する平浪の腕の中で斑がしなやかに身をくねらせ、とん、と床に着地する。

 斑は再びりんの前に腰を下ろすと、きちんと行儀よく揃えた手の先で蠢く舟曳毛虫を小さな桃色の鼻でりんに押しやった。


「にゃあ」

「これを、わたくしに?」

「にゃあ」

「なんだお前、りんさんに贈りものの心算なのか」


 俺にはえのかい……と、平浪がわざとらしく唇を尖らせる。りんは屈み込み、平浪に聞こえないよう斑の耳元で、


「もしや、夜の間中これを探して下さったのですか?」

「にゃ」

「なんとお優しいこと。ありがとうございます」

「? 斑がどうかしたかい?」

「いえ。斑様は美しいだけでなく、優秀な狩り手でいらっしゃいますね。では、有り難く頂戴いたします」


 りんは前脚で顔を洗っている斑に礼を言い、腰に下げていた竹筒の中に舟曳毛虫を滑り込ませた。


「え、そんなもん要るのかい? ってえか、そんな所に入れて、そいつぁ死んじまったりしないのかい?」

「ご安心くださいませ、舟引毛虫は見た目よりも丈夫なのです。一月ひとつきでも二月ふたつきでも、このままで過ごすことが出来るのですよ」

「そうなのか。けど、そいつをどうすんだ? もしかして薬にでもするのかい?」


 興味深げな平浪の言葉に、りんの、常から上がっている口角がさらに上がる。


「いえ、ある方にお渡しします」

「ある方?」

「はい。その方はこういったを集めておられるのですが、自由のきかない身の上でいらっしゃいます。ですから、わたくしがその方に代わり、旅すがらに見付けたものをお届けしているのです」

「こんなのを欲しがるなんて変わったお人もいるもんだ。もしかして、高く買ってくれるのかい?」

「残念ながら代価は頂いておりません。なにせ、親同然の方でございますので」


 平浪は納得顔で頷き、


「ああ、だからあんなに面白い話を集めてるんだな。商売の為なんて言ってたが、本当はその人に話して聞かしてやりたいんじゃないのか? そんなつらして、案外りんさんは優しいなあ」


 ガハハと豪快に笑う。


「それにしてもよ、そいつにそんな力があるってんなら、そりゃ確かになんかに使えそうだよな」

「――興味が、おありですか?」


 底冷えする風の様な囁きが部屋をよぎる。

 途端に斑が、びくん、と身を縮込め、目をまん丸にして耳を後ろに伏せた。背から尻尾の先までの毛が、ぞろり、と逆立つ。笑みを浮かべるりんの口元が、常よりもぎゅうっと弓型に吊り上がり、細い目が更に細まった。その奥がうろよりもなお昏い色を帯び、りんを中心に、空気が重みを増す。

 が、平浪はどちらの変化にも気付いていない様子で、空を仰ぐ様に天井を一睨みすると、ふむ、と小さく唸り、


「そら、銭になるなら興味はあるさ。けどまあ、俺にゃあ使い道も思いつかねえし、思いついたところで、屹度碌なことになんねえよ。それに、そいつぁ舟をどうにかしちまったりするんだろ? そんなやつで儲けたら、漁師仲間に顔向けできねえってもんだ。なあ、斑」

「……にゃ……」


 りんから立ち上っていた不穏な気配が霧散し、同時に斑の背からも緊張が抜ける。


「にゃあん」


 斑が耳をぴくりと動かした。遠くから、漁師仲間が平浪を呼んでいる声が聞こえる。


「おっと、もう行かんと。りんさんはゆっくりしててくれて構わないぜ」

「いえ、わたくしももう出立いたします。平浪様、斑様、大変お世話になりました」


 りんは深々と頭を下げ、柳行李に手を伸ばす。


「こっちこそ、薬をありがとな。昨夜も楽しかったぜ。気が向いたら、いつでも寄ってくれよ」

「ありがとうございます」

「それじゃあな」


 一足先に外に出た平浪が「ああ、そうだ」と呟き、小屋の脇にまわった。そこに干してあった海藻に手に取り、出て来たばかりの小屋を覗き、


「りんさん、良ければこいつを持って……って、ありゃ?」


 平浪の視線の先、藁座の上で体を丸めた斑が眠たげな顔を上げ、小さく「にゃあん」と鳴いた。まるで、端から己しか居なかったかのように。


 首を傾げ小屋の内と外を見まわす平浪の鼻を、微かな樟脳のにおいがくすぐり、それもすぐに海風に散った。

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舟曳毛虫―ふなびきけむし― 遠部右喬 @SnowChildA

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