血塗られトーリの冒険

平手武蔵

月の暗黒龍と封印の巫女

 お母さんなんて、大嫌い。

 とうとう僕は家を出た。

 胸がドキドキ止まらない。

 でもきっと大丈夫。


 まあるい大きなお月さま。

 今日はご機嫌、明るいね。


 あれあれ、なんだかおかしいよ。

 どんどん、端から欠けていく。

 お月さまが赤くなった。

 いつもと違って、なんだか怖い。


 どうと風が吹く。

 あれはなんだろう。

 どうと風が吹く。

 何かがこっちにやって来る。

 どうと風が吹く。

 真っ黒、大きな龍だった。


 泣きじゃくる男の子をぺろり、一呑み。


 まあるい大きなお月さま。

 今日もご機嫌、明るいね。


 ――寓話『月に棲む龍』より一部抜粋


「トーリ、よくお聞き。そうやって、あなたが言うことを聞かず悪い子でいると、月からやって来る龍に食べられてしまうのよ」

「ふうん。じゃあ、アタシは悪い子のままでいい」

「龍に食べられてしまってもいいのかい?」

「食べられたりしないよ。だってアタシは冒険者になるんだもん。龍なんて簡単にやっつけてやるんだから!」

「……読んであげる話を間違えたかしら。全く、誰に似たのかね。つべこべ言わず、母さんの言うことをちゃんと聞きなさい」


 そんな跳ね返りの少女であったトーリ。月日は流れ、長じて彼女は自由を謳歌する冒険者となっていた。


 飽くなき夢と希望の出発点――荒くれ者が集う冒険者ギルドは今日も熱気にあふれていた。

 汗と土の混じった独特な臭いが充満する冒険者ギルドから出て行く四つの影。今日の一仕事を終えたトーリを頭目とする一党は、馴染みの酒場へとやって来ていた。空いているテーブル席へ適当に座り、トーリは「エール四つ!」と大声で注文した。

 ほどなくして、エールの入った陶製ジョッキがテーブルへと置かれる。各々がそれを我先にと取っていった。


「お前ら、今日もよく頑張った! 何はともあれ乾杯!」

 トーリの声を合図に「乾杯!」と、男たちの声とともにジョッキが合わせられた。陶製ジョッキから涼やかな音をさせ、トーリたちはエールをあおった。

 仲間の三人のうち、針金のような剛毛の黒い短髪、髭、体毛が特徴的で、大剣を携えた大柄な男にトーリは声をかける。

「今回はお前のお手柄だったな、バルト。一人であの大トカゲを引き付け、よく耐えた。だからアタシの剣が奴の首元に入ったのさ」

「いやあ。姉御の指示が良かったからさ」

 バルトは言葉少なく答え、男臭い笑みを浮かべて頭をかいた。壮年の男であるが、二十代そこそこのトーリの実力と豪胆さを認め、姉御と慕っていた。


 冒険者談義に花が咲く。命をかけて強敵と戦い、生還できた者だけが味わうことを許される甘露な蜜の味。冒険者の本懐はここにあると言っても過言ではない。

「人を年寄り呼ばわりするな! 大体お前はいつも――」

 突然始まる仲間の口喧嘩。これもまた冒険者にとって平常運転である。バルトはため息をついていた。

 この喧嘩は残り二人の仲間、歴戦の勇士たる老神官と若き天才魔導士によるものである。戦闘に関しては相性抜群であり、お互い憎からず思っているようだが、冒険者としての考え方に合わないところがあるのか、いさかいが絶えなかった。

 トーリは二人の喧嘩が終わるまで、意識をこの席から別の場所にやることを決め込んだ。


「あそこにいるの、『血塗られ』じゃないか?」

 少し離れた別の席から交わされる、中年男たちの会話がトーリの耳に入っていた。

 血塗られ――それがトーリの冒険者としての二つ名である。冒険者ギルド内で二つ名を得るということは本来とても栄誉あることなのであるが、その物騒な響きのため当の本人は全く気に入っていなかった。

「今日はあの大物、ジャイアントリザードを仕留めたらしいぜ。太い首を一刀両断」

「マジかよ。どんな馬鹿力なんだよ。あんなに若くて綺麗な子なのにな」

「性格も結構きついらしいぜ。告白とかされても俺はゴメンだな」


 中年男たちは当事者を目の前にして分不相応で下世話な話を繰り広げ、トーリもさすがに看過できなかった。椅子を引いて大きく音を立てて立ち上がると、男たちにつかつかと詰め寄って行った。あんぐりと口を開けた様子が実に滑稽であった。

「お前ら、聞こえてんだよ。ずいぶんな物言いをするんだな。さぞかし立派な御仁なんだろうな。……この甲斐性無しども!」

「す、す、す、すみませんでした!」

 トーリの怒髪天を衝く勢いに、そそくさと席を立つ男たち。それをトーリは鬼の形相で見つめ、情けない男たちだと思いながら酒場から出ていくのを眺めていた。そして深くため息をつく。


「こんなはずじゃなかったんだけどなあ」

 奇しくも、そんな嘆きの声が重なった。


 トーリは驚いて、その声が発せられた方向を見た。近くのカウンター席に一人の女性が座っており、目を丸くしてトーリを見ていた。

 見た目の麗しさを自認するトーリであったが、そのトーリですらも息を呑んだ。透き通るような白い肌に整った目鼻立ち。艷やかで真っ直ぐなピンクブロンドの髪。服装は上質な絹のような質感の衣を重ねたものであり、神秘的で独特な意匠をしていた。おおよそ冒険者が集う酒場に似つかわしくない可憐さであった。

「あの……これも何かの縁ですし、少しお話ししてみませんか? 私はメルセデスと申します」

 メルセデスは不安げな表情から一転して、儚げな笑みを浮かべた。冒険者稼業の自分とは一線を画す人生を歩んでいるであろう彼女に興味が湧き、トーリの頭をかすめていた嫉妬は不思議な程に消え去っていた。


 トーリも名乗り、一旦仲間に断りを入れてからメルセデスの隣のカウンター席に座ると、件のセリフを発することに至った経緯を話した。

「そんなことだったのですね。トーリさんにもそのうち、きっといい人が現れますよ。冒険者……なんだか憧れますね。とても自由で。何かに縛られなくて」

「そんないいもんじゃないさ。そういうあんたのことを教えてくれよ」

 メルセデスは氷だけになった陶杯を揺らし、少しばかり溶けた水を飲んだ。華奢な喉がこくりと波打った。

「驚かないで欲しいんですけど、私……月からやって来る龍を封印している巫女の一族なんです」


 ――ぷっ。


 トーリは思わず吹いてしまった。堰を切ったように笑いは止まらなかった。

 大人になり切れない子供がよく言う、自己愛に満ちた空想のようであった。「笑わないで欲しいんですけど」の間違いじゃないのかと思い、トーリは平静でいられなかったのだ。

 メルセデスの顔がみるみる赤らんでいく。

「トーリさん、嘘だと思ってますね! 本当なんですから!」

「ごめん、ごめん。悪かった」

 メルセデスから冷静に話を聞くと、大体こんなところだ。


・寓話『月に棲む龍』にうたわれる龍は実在する。

・メルセデスの祖先が月神の加護を受け、封印の巫女となって龍を月に封印した。

・月が完全に星の影に入ってしまう、月食の時は封印の力が弱まる。

・封印の力が弱まった際、月神の加護を受けた巫女の一族が祈りを捧げていた。

・月神の加護は一子相伝であり、メルセデスは当代封印の巫女である。


 やはり寓話の域を出ているようには到底思えず、トーリは話半分に聞いていた。なぜそのような作り話を吹聴しているのかは分からない。しかしトーリは純粋にメルセデスが醸すどこか浮世離れした雰囲気を好ましく思い、この場限りの付き合いでもあるし、無粋なことを言ってその世界を壊したくなかった。

「なるほどな。大体分かったけど、メルセデスはなんでこの酒場で一人で飲んでたんだ? あんたみたいな恰好は見たことがないし、この街の人間ってことでもないんだろ?」

 その問いに、答えはすぐに出なかった。

 トーリはメルセデスの様子を確かめる。少しうつむき加減に、カウンターに置かれた空の陶杯を両手で包むように握っていた。

「私……生まれてからずっと里で暮らしてきたんです。結構街からも離れていて、まあ田舎ですね。都会にずっと憧れていました。でも封印の巫女になると生まれた時から決まっていて、里から出るのを禁じられていたんです。この世界をもっと見てみたかった。だから里をこっそり抜けてきちゃいました」


 旅商人に無理を言って、荷馬車の荷室に入れてもらったこと。初めて里の外で夜を明かしたこと。荷馬車に何日も揺られ、お尻が痛くなったこと。ようやく街にたどり着いたら、人が多くて酔いそうになったこと。右も左も分からず歩いていたらお腹がすいて、どうにかこの店で食事にありつけたこと。

 メルセデスはそれ以外にも、ここに来るまでの色々と苦労したことをトーリに話した。明日の路銀も満足になく、どうやらかなり無計画な旅であったようだ。こんなはずではなかったというボヤキはそこから来ているらしい。

「それで一人だったのか。その……龍の封印はいいのか?」

「封印の儀式は月食の時にしか行いませんから、それまでに里へ戻れば大丈夫です」

 少し不可解な言葉だとトーリは思った。『封印の巫女』という設定を貫くのであれば相当の片手落ちだ。


 なぜなら今日は――。


「そう言えば今日って月食だったよな。ギルドの占星術士が言ってたような」

 それを聞いたメルセデスは少し慌てた様子になり、今日の暦をトーリに聞いた。

 トーリは訝しく思いながらも少し笑って、今日の暦をメルセデスに伝えた。

「どうしよう。ダメだ、ダメだ。間に合わない。儀式の時はいつもオババが言ってくれてたから! 私のバカ! 私のせいで龍が出る!」

 トーリを見向きもせず、メルセデスは酒場の出口に向かって駆け出した。その尋常ではない様子に、ようやくトーリもこれは本当に龍が出るのかもしれないと思った。

「ちょっと嬢ちゃん! 食い逃げかよ!」

「悪い! 大将! 後でアタシがまとめて払う!」

 トーリもメルセデスを追って外へ出た。


 メルセデスがいた。息を荒くして夜空に浮かぶ月を見ていた。

 皆既月食――月が満月から新月へと欠けていく段階はすでに終わり、赤い月が煌々と夜空に輝いていた。

「これからどうなるんだ! メルセデス!」

「暗黒龍エスピルケ……。赤い月から、かの龍がやって来ます!」

 うなるように音を立て、突風が吹いた。トーリは無意識に顔を手で覆ったが、手の隙間から月を見続けていた。

 赤い月を背景に羽ばたくような黒い影。それが徐々に大きくなっている。寓話のあの一節がトーリの頭に浮かんだ。


 どうと風が吹く。

 あれはなんだろう。

 どうと風が吹く。

 何かがこっちにやって来る。

 どうと風が吹く。

 真っ黒、大きな龍だった。


「いや、待て待て! 龍は一体どこに向かっているんだ! この街に来るとは限らないだろう!」

「私が龍を呼び寄せます!」

「何をするつもりだ! メルセデス!」

「ここから封印の光を浴びせれば、怒って向かって来ることでしょう! 儀式の補助がないと無理かもしれないですけど……近寄って来たところで今一度封印の光を浴びせ、封印を試みます! でもここでは被害が……! お願いです、トーリさん! この辺りで極力何もないところに案内してください! まだ少し時間はあるはずです!」


「なんの騒ぎだ! 姉御!」

 男の太い声。大声を聞きつけたのか、バルトが酒場の外に出て来ていた。それに連なり、老神官と若き魔導士の姿も。さらに冒険者ギルドの見知った顔がちらほらあった。

「お前ら! 今日の月をよーく見てみろ!」

 トーリの呼びかけに対して、要領を得ない表情をした面子が大半であったが、赤い月に浮かんでいる影の大きさ、その悠然とした動きを皆が認めると大変な騒ぎになってしまった。


「暗黒龍エスピルケ! 皆も知ってる、月に棲む龍だ! あれがどこかで暴れる前に街の外におびき出し、封印あるいは討伐する!」

「あれをおびき寄せるって……そんなことできんのかよ!」

 トーリの宣言に、どこかの誰かから待ったをかける声があった。

「できます! 今、ここでそれを証明します!」

 その華奢な体からは想像できないほどの大きな声でメルセデスが言った。冒険者ギルドの面々にとって、どこの誰とも知らない、一見何もできなさそうな彼女であり、面々が再びざわめきだした。

 それをまるで意に介さない様子で、メルセデスは錫杖を構えた。

「月神様。月神様。静謐に輝く闇夜の守り手よ。この身に過ぎたる加護により、悠久から定められし使命を全うするため、今一度、その力をお貸しください」

 その言葉に呼応し、メルセデスの姿が不思議と淡く輝き出す。周囲のざわめきも止まっていた。


「封印」


 錫杖から一条のまばゆい光が、月に向かって真っすぐ伸びた。暗黒龍の影を捉えたかと思うと、その影がわずかに揺れた。

 メルセデスは苦しげな表情を顔に貼り付けながら、さらに封印の光を強くする。錫杖を握る手が揺れ始めていた。

「ああっ!」

 突如として光が収まり、錫杖が宙にくるくると弾き出された。カランと音を立て錫杖が地面に落ちる。

 メルセデスもへたり込んでしまった。トーリは彼女の肩を抱いた。簡単に折れてしまいそうなほど細く、呼吸に合わせて大きく揺れていた。

「やっぱり儀式の補助なしでは封印まではできませんでした。でも、かの龍はこれで私を敵とみなしたはずです」

 メルセデスは力なく笑った。冒険者ギルドの面々、皆が揃って彼女を見ていた。疑いの眼差しを向ける者はもはや誰もいなかった。


 また突風が吹いた。先ほどよりもその強さは増している。今度はそれだけではなく、空気をビリビリと震撼させる雷鳴のような音が轟いた。これはおそらく咆哮。暗黒龍の標的となったことを証明するかのようであった。

「よおし! お前ら、これでメルセデスの言うことが本当だって分かったな! 可及的速やかに準備して、街の外まで行くぞ! 北門から真っすぐ出てなるべく遠くだ! そこなら平らで何もなく戦いやすい! 篝火を絶やすなよ!」

「応!」


 ◇


 場所を移し、街の北門、郊外。冒険者ギルドの現状、最大戦力をもってトーリたちは移動していた。惜しむらくは時間帯が悪かった。今日の冒険者としての活動を終えて、しこたま飲んでいた人間も多く、そういった者は街に置いてきたため、災害級の魔物と想定される暗黒龍への備えとしては少し――いや、かなり心もとないところがあった。

 冒険者ギルドを通して領主への報告もしているが、暗黒龍エスピルケなる存在を信じて、この短期間で大軍を動かせるとは到底思えず、未然の対応には頼りにできない。つまり今の戦力でやるしかないのである。


 暗黒龍エスピルケ討伐隊は先頭に馬車が一台。その後ろに篝火を持った冒険者の一団がぞろぞろと小走りでついていくという恰好になっていた。

 馬車の客室にはメルセデスが乗り、封印の光で錫杖の先端を光らせていた。幌からは淡く光が漏れている。暗黒龍が標的を見失わないようにするためである。

 トーリはメルセデスの傍らにいた。強敵を前にして気持ちがはやり、冒険者の一団に混じって馬車に小走りでついていきたいところであったが、何かがあれば折れてしまいそうな彼女が気がかりで、そばにいようと思ったのだ。


「大丈夫なのか」

 トーリは隣に座るメルセデスの手を軽く握った。一瞬びくっとしたものの、メルセデスは握り返した。トーリよりも強い力で。

「大丈夫じゃないです。でも私の責任だから、私がなんとかするしかないんです」

「一人で背負い込むな。あんたの失敗でアタシたちは面倒事に巻き込まれた。それは事実だ。でもここについて来てる奴ら、もう全部を話してあるが、あんたにそんなことを思ってる奴なんて、一人もいないと思うぜ」

「トーリさん……」

「もう一度言うぜ。一人で背負い込むな」

 メルセデスは握られたトーリの手を緩やかに解いた。

「私、もう大丈夫です」

「ならいい。あんたは自分だけができることに集中しろ」


「姉御! 龍が来てるぞ! 想像以上にデケェ!」

 馬車の近くについていたバルトの声に、トーリは馬車の客室から飛び降りた。

 空を飛ぶ漆黒の巨体。まだ遠くにいるが、おおよそ城ほどもあろうかという大きさのそれは悠然と翼をはためかせ、地上にいる冒険者の一団の上空を旋回していた。

 街どころではない。国、いや世界を滅ぼす災厄なのではないかとトーリは思った。冒険者の一団の戦意、士気がみるみる下がっていくのをトーリは肌で感じていた。

 トーリは考える。本当に何も手立てはないのか。ものは試しだと、馬の前に躍り出て馬車を強引に止めた。

「メルセデス! 今ここで封印の光を!」

「はい!」

 メルセデスは地上に降り立つと、錫杖を暗黒龍に向けて封印の光を放った。その光が鎖となってまとわりつき、縛られるように動きが止まった。


 ――グオオオ!


「効いているぞ! メルセデス!」

 驚いたことに城ほどの大きさであった暗黒龍エスピルケは徐々に縮み始め、今では2階建ての建物ほどの大きさまで縮まっていた。

 そうなったところで、封印の光が弱くなり、鎖が引きちぎられてしまった。

「ダメです! 儀式のように力が入っていきません! 光を注いだままにすることで大きさはこのまま抑えられそうですが、封印は失敗です!」

「これで十分だ、メルセデス! ここからはアタシら冒険者の出番だ!」

 トーリは己が一党のバルト、歴戦の勇士たる老神官、若き天才魔導士に目を合わせ、頷きあった。

 そしてミスリル製の双剣を腰帯から抜き、空高く掲げる。射貫くような視線で暗黒龍を見て高らかに宣言する。

「暗黒龍エスピルケ。『血塗られ』トーリがお相手しよう。いざ尋常に勝負!」


 暗黒龍に肉薄しようと地面を踏み込んだところで、老神官から強化魔術バフの光をもらう。その効果も申し分ない。

「相変わらず、いい腕だ!」

 トーリの言葉に、老神官は鍛えられた二の腕に力こぶを作り、快活な笑みを浮かべた。

「バルト! ついて来ているな!」

「もちろんだ! 姉御!」

 バルトは背中の大剣を抜くと上段に構え、同じく老神官から受けた強化魔術を利用して大きく跳躍。暗黒龍に袈裟斬りを放った。

 硬質な金属に対するような高い反発音により、その攻撃はいとも簡単に弾かれた。暗黒龍の全身を覆う漆黒の鱗は相当の強度を持っているようだ。

 しかし暗黒龍は少しのけぞっていて、一瞬無防備になっていた。その隙をトーリは見逃さない。トーリは双剣を撫でるように振りつつ、暗黒龍の体を足の方から駆け上がった。

 斬り付けるたびに火花が生じ、暗黒龍の姿を不気味にも美しく明滅させた。一撃はかすり傷程度しか負わせられていないが、トーリの狙いはそれではない。

 

 狙いは目。どんな硬い表皮を持つ魔物であろうと、目は弱点になっていることがほとんどだ。

 トーリは首元から一段と高く跳躍し、その目を落下の勢いのまま斬り刻もうと双剣を構えた。

 満月のような琥珀色の瞳。綺麗な瞳だと、今の状況を忘れそうになったところで、それが嗤ったような気がした。

「姉御! 危ない!」

 バルトの大声で我に戻った。暗黒龍の顎の中に光球が発生していた。ブレスが来る!

炎の矢ファイアボルト

 若き魔導士が絶妙なタイミングで炎の矢を放った。やはり彼は天才か。すんでのところで首の向きが変わり、何もない平原にブレスが放たれた。

 着弾点に火柱が上がり、猛烈な熱気にトーリは顔を歪めた。この威力をこの距離で当てられていたらひとたまりもなかった。

 体勢を立て直すため、トーリは跳躍から着地するといったん後ろに下がった。

「こいつはしびれるな」

 先ほど暗黒龍に一太刀浴びせていたバルトは両手持ちの大剣を片手で持ち、顔をしかめながら空いた片手をぶらぶらさせていた。

「まあ、やるしかないだろう。限界まで」

「せいぜい、お供させてもらいます」


 戦況は一進一退をたどった。しかし確実に劣勢に追い込まれていた。

 人と龍。一番違うものは何か。それは肉体の強度だ。人間は一撃で当たり所が悪ければ戦闘不能になってしまうのに対して、龍は何度でも耐えることができる。持久戦になれば弱いのは圧倒的に人間だ。

 それにこちらは暗黒龍の力を抑えるため封印の光を放ち、無防備になっているメルセデスを守りながらの戦いになる。結果は最初から明白だったのだ。


「ぶっ……ぶっ……ぶっ……」

 大剣を構えたまま、奇妙な声を出しながらバルトが暗黒龍に縋りつくようにずるずると倒れた。最前線で暗黒龍の攻撃を受け続け、彼はここで限界だった。

「バルトォ! わしより若い者が先に死ぬな!」

 老神官は補助に徹するのをやめ、自身に強化魔術をかけて肉体を一回り膨れ上がらせた。メイスを持ち暗黒龍に特攻を仕掛ける。

「ずるいな、じいさんは。俺にも花を持たせてくれよ」

 若き魔導士も魔力欠乏の影響か顔面蒼白だった。杖に炎の力を宿らせるが、その勢いは天才と呼ばれる者の魔術とは程遠い。

 炎の矢、メイスの一撃が同時に暗黒龍を襲ったが、呆気なくあしらわれる。トーリの一党はトーリ以外、昏倒あるいは生死不明となった。周りの冒険者も同様であった。

 ここに立っているのはトーリ、メルセデスの二人、そして暗黒龍だけになっていた。トーリはすでに満身創痍となっていた。


 ゆらり。トーリの体が揺れ、双剣の切っ先が地面に触れてカラカラと音を立てた。暗黒龍を見ることもできていなかった。

 暗黒龍がゆっくり近づいていく。もはや自身の力を抑えているメルセデスを先に襲う必要すらない。勝者の凱旋のようであった。

 悠々と顎を大きく開き、トーリにかみついた。


 ――グオオオ!


 鋭い牙の隙間から血を吹きながら暗黒龍は首をのけぞらせ、トーリを吐き出した。その口の中には双剣が突き刺さっていた。

「『血塗られ』の血が返り血だけなんて誰が言った?」

 ミスリル製の白い鎧が血で真っ赤に染まっていた。

「それにはアタシ自身の血も入ってんだ。どれだけ傷つこうと勝負を諦めない。だからアタシは『血塗られ』なんだよぉ!」

 老神官が施してくれた強化魔術の残滓を使って、渾身の蹴りを暗黒龍の口の中、突き刺さった双剣の柄に向けて放った。


 運良く脳にでも達したか、巨体は空気を震撼させる雷鳴のような絶叫を上げ――やがて動かなくなった。


「トーリさん! まさか本当に龍を倒すなんて!」

 メルセデスが駆け寄ってくる。

「ははは。当然だろ。でも犠牲が多すぎた」

 じくじくとした痛みと体の芯からの疲労でトーリは立つこともできなかった。

「大丈夫です。、やってみせます」


「月神様。月神様。静謐に輝く闇夜の守り手よ。この身に過ぎたる加護により、悠久から定められし使命を全うするため、今一度、その力をお貸しください」

 月神への祈りにより、メルセデスの体が再び淡く輝く。

「月神様の加護は封印だけに使われるものではありません。癒しの力を増幅させる奇跡を起こすことができるのです」

 メルセデスは錫杖を空高く掲げた。

「癒しの雨」

 空からぽつぽつとする何か。優しい光のそれが雨のように降り注いだ。


「生きてる……のか?」

 最後まで暗黒龍の最前線で戦い続けた男の広い背中が起き上がっていた。トーリが真っ先にそれを確認したのは全くの無意識ではあった。

 癒しの雨が降り続け、方々で声が上がり始めていた。他の面々もその大半が生存していたようである。


 癒しの雨という回復魔術は本来、生物に備わる自己回復力を少し補うことができるという程度であり、そこまで重宝される回復魔術ではない。神の御業ともいうべきこの出来事にトーリは安堵し、月神そしてメルセデスに心の中で深く感謝した。


 ◇


「これからメルセデスはどうするんだ?」

 街からの距離でも分かったと思われる騒ぎを聞きつけ、領主の調査もすぐに始まるであろう。あの激闘の後、それに巻き込まれるのが嫌でトーリはメルセデスを連れ、少し離れた丘の上で二人並んで座っていた。

「そうですね。暗黒龍エスピルケを滅した以上、封印の巫女としての役割は不要になったわけですしね。このまま、街で暮らしてみようかな、なんて」

「それもいいんじゃないか?」

「トーリさんならそう言うと思いました」

 メルセデスは立ち上がって、トーリに向かい合った。

「里を出れば、全てが変わる……そう思ってました。でも違うって分かったんです。私、甘えてたんです。里の人たちに施されることを当たり前に思って。一人になってやっと分かりました。巫女以外に何もできない。私……空っぽでした」

 月食はすでに終わり、元通りの満月だ。それを背景にしたメルセデスは月の女神のように神秘的でとても綺麗でやっぱりずるい。

「決めました! 私、冒険者になります。これからは愛称のメルと呼んでください。トーリ姉さま」

「姉さまだって? やめろよ、そんな恥ずかしいの」

「バルトさんだって姉御と呼んでますし、私もそれにならおうと思って」

「バルトが何の関係があるんだよ」

「だってトーリ姉さまとバルトさん。とっても――いいえ、なんでもありません」


 まあるい大きなお月さま。

 今日もご機嫌、明るいね。


 了

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