第6話 大団円

 日本は、完全に

「地底帝国」

 の、主たる敵ということになる。

 相手からすれば、

「まず日本を血祭りにあげて、そこから世界を」

 と思っていた。

 しかし、日本という国が、思ったよりも、兵器の力が強力であることにびっくりしていた。

 そもそも、地底帝国は、こちらの世界のことを、十分に研究していた。

「日本人よりも、日本の歴史には詳しい」

 といってもいいだろう。

 だから、日本人の中にある。

「武士道」

 というものがもたらせた。

「カミカゼ」

「ハラキリ」

「玉砕」

 などということも分かっていて、それを、

「美徳」

 とすることで、

「日本人というのは、耽美主義な世界に生きている」

 ということも分かっているのだろう。

 しかし、当の日本人に、そんな、

「耽美主義的な思想」

 は根付いているのだろうか?

 実際に今の日本は、確かに攻められると抵抗はするが、平和ボケのために、戦術戦略に関しては、

「疎い」

 と思っていただろう。

 しかし、元々の頭の良さと、シミュレーションとして、ゲームなどで鍛えていることで、少々の頭はあった。

 しかも、兵器開発などに関しては天才的だということで、この合体ロボットというものは、他の精神国には作れない」

 というほど、高性能なものだった。

 問題は、操縦する人間であった。

 何しろ、訓練を受けたはいないし、そもそもが、戦闘用の開発ではない。

「資源開発のためのものを、戦闘用に急遽改造したものだ」

 しかも、

「国家が裏で考えていることを、研究所では、ウスウス感じている」

 ということもあって。

「戦闘意欲というものは、国家の危機」

 ということで何とか保っているが、戦闘員として、乗り込む人たちの選別をうまくやらないと、いけないのが問題だった。

 何とか、3人の。

「戦闘能力に長けている」

 そして、

「平和を望み、そのためには命を惜しまない」

 さらには、

「勧善懲悪である」

 という人たちを選んできた。

 確かに、彼ら以上の、乗組員はいないということであるが、どうしても引っかかってくるのが、最後の、

「勧善懲悪」

 の部分である。

「勧善」

 の部分はいいのだが、

「懲悪」

 という部分が引っかかる。

 というのは、

「悪とは何か?」

 ということになると、最初こそ、

「地底帝国」

 ということを認識していたが、実際に相手と戦ってみると、相手の、

「武士道」

 というものにも似た戦い方に感化されてしまい。

「俺たちは、何を相手に戦いを挑んでいるのか?」

 ということで、彼らは悩むようになってきた。

 そもそも、

「勧善懲悪」

 というのが、前面に出て、

「それが彼らの個性だ」

 ということになっていたのだ。

 その彼らが、自分たちの、

「勧善懲悪」

 というものに疑問を感じるということになってくると、どうなってしまうというのだろうか?

 彼らは、本来であれば、

「三人が一緒の気持ちになってこそ、巨大ロボットを操ることができるのだ」

 ということであった。

 そして、それが崩れた時、彼らは、そのまま、先頭不能となり、

「ロボットとともに、破壊されてしまった」

 という結末を迎えたのであった。

 これが、

「20年前に書かれた」

 という、

「近未来に起こるであろう、地底帝国とのロボットを使っての戦争」

 というマンガだった。

 それが、アニメ化されて、映画化もされ、結構な人気を博していたのだが、

「マンガ」

 でも、

「アニメ」

 でも

「映画」

 においても、結末は、前述のとおりだったのだ。

 それは、実際には、

「そうではない」

 といわれている。

 どういう結末だったのか?

 というのは、昔から教科書に載っている、

「浦島太郎」

「桃太郎」

 などといった、

「おとぎ話」

 というものは、ある程度、その結末は決まっている。

 しかし、中には、

「まだ、続編が存在する」

 といわれているものがあり、それが、

「浦島太郎」

 などであった。

 この話に場合、

「カメを助けた太郎が、どうして玉手箱を開けて、おじいさんにならなければいけないのか?」

 という疑問が残る。

 それを解決することが難しいが、本当はあの話は、乙姫と太郎の、

「恋愛物語」

 という側面もあり、そのため、最後は、

「ハッピーエンドであった」

 ということである。

 しかし、それを当時の明治政府は、

「その結末をよし」

 としなかったのだ。

「開けてはいけない」

 といわれるものを開けてしまったという、

「見るなのタブー」

 これが、大きな問題となって立ちふさがる。

 そういう意味で、矛盾している話を、

「教訓」

 とするのは、さすが、教育という考えがあってのことだったのだろう。

 それを思うと、浦島太郎だけでなく、この

「地底帝国が侵略してきた」

 という話も、

「最初から矛盾だらけだった」

 といえるだろう。

 そうなると、問題は、

「話の終わらせ方」

 であり、

「戦争の終わらせ方」

 であった。

 戦争というものや、結婚などというものは、

「始めるよりも終わる時の方が何倍もエネルギーを使う」

 ということである。

 つまり、その終わらせ方は、

「これから起こる戦闘」

 というものをシミュレーションして、

「いかに着地点を見出すか?」

 という、

「最初から最後まで、その目的のためにまい進する」

 という、

「ブレない心」

 が必要なのだ。

 だから、教訓として、

「人間が操縦してやられるところで終わらせた」

 ということになっているが、実際には、この続きには、大いなる機密が含まれていた。

 実際に、原作者は、結末を描いてはいた。

 しかし、

「出版検閲に引っかかった」

 のであった。

 民主主義において、

「表現の自由」

 というものが憲法で定められているではないか。

 と誰もが思うだろう。

 しかし考えてみれば、

「放送委禁止用語」

 というものが存在したり、

「大東亜戦争」

 という言葉を封印したりと、法律では裁けないが、

「放送倫理」

 という言葉で圧力をかけ、何もできないようにさせられたのだ。

 この話も続きがあった。

「合体ロボットはまた作り直され、さらなる新兵器を備えた完璧といっていいものが出来上がったのだが、今度も完膚なきまでに、相手からやられてしまった」

 ということであった。

 それはなぜかというと、

「乗組員に、アンドロイドを使った」

 ということであった。

「結局、合体ロボットは、敵を前にして、まったく何も動くことができず、ただ、やられただけだった」

 という結末だった。

 これは、

「ロボット開発」

 における、

「フレーム問題」

 ということで、それを、日本政府、いや、研究所は、ひた隠しにしたいがために、国家機密となり、出版検閲にも引っかかったということだ。

「人間はどこまでいっても、逃れることのできないマラソンを、いたちごっことして歩んでいる」

 ということになるのだろう。


                 (  完  )

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いたちごっこのフレーム問題 森本 晃次 @kakku

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