第5話 エネルギーと着想

 そんな、

「自由」

 と

「平等」

 というものを考えた時、社会主義というものの裏返しが、

「独裁政治」

 ということであった。

 ナチス下においての、ドイツ民族は、それを分かっていたことだろう。

 何といっても、

「まわりの国から、搾取される形になり。さらには、領土は奪われる」

 工場施設も、

「賠償金が払えないのであれば」

 ということで、

「他国から侵略され、強制的に、接収される」

 という状態になるのだから、

「強力な指導者でなければ、諸外国に立ち向かえない」

 ということなのである。

 実際に、当時の政府では、完全に、ワイマール体制は崩壊していて、

「どこがやっても、同じ」

 という状態だったことから、その宣伝能力に長けていたナチスの台頭に、ドイツ民族は、待ちわびていたといってもいいだろう。

 そんな状態なのだから、

「独裁者が現れるのも当たり前」

 というもおので、

 ヒトラーが出てきたのは、

「戦後処理の誤りから起こった」

 といってもいいだろう。

 さらに、ソ連では、

「社会主義」

 という国家が生まれた。

 社会主義国家というのは、

「民主主義」

 の限界を正すということで、

「自由を抑えて、平等を取る」

 というものである。

 だから、こちらも、完全な独裁である。

 ただ、独裁といっても、ヒトラーほどの信頼があるわけではないので、どうしても、国家元首は、疑心暗鬼に陥る。

 そうなると、行うことは、

「自分にとって危ないという人間を葬り去ること」

 という妄想に取りつかれることで、行うのが、

「粛清」

 というものだ。

「社会主義においては、粛清は切っても切り離せない」

 という意味で、こちらは、民族を守るわけではなく、あくまでも、

「かわいいのは、自分だけだ」

 ということである。

 そうなると、

「独裁国家」

 ではあるが、そこは、政府の中に、それらの組織をたくさん作り、社会主義国家を世界に広げるという使命を、国家元首が考えてしまうのだろう。

 だから、スパイを送り込んでの諜報活動であったり、民主主義国家の動向を探るということに集中することで、国家全体が、

「被害妄想的になる」

といってもいいだろう。

 そういう意味で、

「社会主義」

 であったり、

「ファシズム」

 というのは、似ているところがあるが、実はそれぞれに対立している。

 そういう意味で、

「民主主義」

 から見ても、この二つは、それぞれに、

「敵対している」

 といってもいいだろう、

 実際にそれぞれの体制に対して、見方は難しいところであるが、

「自分たちとは違う体制というものは、それぞれに、どこか似たところがある」

 と感じているということで、

「共通の敵ではなく、共通する敵」

 ということになるだろう。

 というのも、

「普通であれば、三つ巴のような形になっているとすると、一つをやっつけるということで、もう一つと手を結ぶ」

 ということもありえる。

 ということも考えられ、それが、

「共通の敵」

 という考え方だ。

 場合によっては、

「敵対する相手を手を結んで、今は、実害のひどい方の相手を排除する」

 ということが、世の中では普通にある。

 例えば、

「中華民国において、共産党と国民党が争っているが、お互いの共通の敵ということで、反日というスローガンも下、中共合作ということが行われたりした」

 最終的には、

「アメリカが手を引いたことで、中国共産党が勝ったことで、中華人民共和国が成立したのだ」

 ということである。

 共産党への対策として、

「防共協定」

 というものが、結ばれるケースが多かった。

 日本でも、

「日独伊防共協定」

 というのがあったではないか。

 もっとも、これは、

「立憲君主国」

 である日本と、

「ファシズム」

 である、ドイツ、イタリアと、

「共産主義からの防衛」

 ということでの同盟だったのだ。

 そういう意味で、

「共通の敵」

 として、共産主義を見ていたのは間違いではないが、ナチスというのが、

「自国の利益のためには、敵対している共産主義とも手を結ぶ」

 ということでの、

「日ソ不可侵条約」

 というものを、日本を無視して結んだことで、本来なら、ドイツとの関係を断てば、少しは、戦争を回避できたかも知れないが、それをしなかったのは、どうしても、

「満州国建国」

 において、

「国際連盟を脱退する」

 という、世界的な孤立を招いたことが、大きな原因となっているのだ。

 それを思うと、日本という国は、

「優柔不断で、国際情勢にお世辞にもたけていたとは言えないだろう」

 ということであった。

 そんな、

「三つ巴」

 というものと、似ている言葉で、

「三すくみ」

 というものがある。

 この二つは、よく似ているようだが、実際にはまったく違っているものであった。

 というのは、まず、

「三つ巴」

 というのは、

「三つの力が完全に均衡していて、それぞれが、雌雄を決するには、巴戦というものを行って決める」

 というやり方である。

「巴戦というのは、それぞれに、一度対戦する形で、先に2勝した方が勝ちだ」

 というものだ。

 三人いて、一人が全勝するということは、残りの二人は、

「絶対に、1敗はしているということになるので、その時点で、勝ちが決定する」

 というものだ。

 しかし、これが、

「1勝1敗」

 というのが、2組できると、もう一人も、

「1勝1敗」

 となるのが確定しているので、もう一度、頭からやり直しということになる、

「では、先に全敗ができた場合には、あとの二人は、どちらかが全勝となるわけなので、その時点で、二人がまだ雌雄を決していなければ、戦うだけで、二人の間で決定していれば、その勝者が、最終的な勝者」

 ということになるというものだ。

 これが、いわゆる、

「巴戦」

 と呼ばれるもので、

「決着をつける」

 ということが前提であっても、巴戦によって、決着をつけることができるというものである。

 しかし、これが、

「三すくみ」

 ということになると、まったく話が違ってくる。

三すくみというものは、

「じゃんけん」

 であったり、

「ヘビ、カエル、ナメクジ」

 というような関係をいう。

 つまりは、

「それぞれの力が均衡しているわけではなく、それぞれの力関係が、方向的に均衡しているので、お互いに手が出せない状態」

 というものを指すと言われている。

「ヘビはカエルを食べ、カエルはナメクジを食べる。そして、ナメクジは、ヘビを溶かしてしまう」

 ということで、いわゆる、

「力の均衡によって、お互いが生き続けられる」

 というものだ。

 そのどちらか二つだけがいるのであれば、

「強者が弱者を食べる」

 という、

「自然の摂理」

 によって、弱肉強食が行われるということだが、そこに、もう一つが入ることで、完全に力の均衡が保たれると、それぞれに、襲うことができず、動けなくなってしまうという形の、ある意味、

「核の抑止力」

 というものに似ているといってもいい。

「自分にとっての弱者に襲い掛かれば、それが相手にとっての天敵なので、天敵を倒してもらった後で、ゆっくり、自分にとっての弱者を食えばいい」

 ということになるので、それぞれ、本能で、力関係を分かっているので、何もできないということになる。

 三すくみの関係というのは、距離というのも、少しかかわってくるような気がする。

 基本的に、

「相手に襲い掛かられても、終わりである」

 ということは分かっている。

 しかし、逆に、

「自分にとって、弱者に対して襲いかかるとどうなるか?」

 ということであるが、その場合は、

「もう一方の、自分を襲おうとして、虎視眈々と狙っているやつにとっての、強者に襲い掛かることになるわけなので、もう一方に、自分に対しての抑えを、自らで壊してしまう」

 ということになる。

 これは、

「力の均衡を破る」

 ということであるが、よくよく考えると、

「力関係は、均衡していても、距離が、皆同じだと考えると、有利不利というものは歴然としてくる」

 というのは、

「ヘビがカエルに、カエルがナメクジに襲い掛かるスピードと、ナメクジがヘビに近づくスピードを考えれば歴然だ」

 といえるだろう。

「だったら、ヘビがカエルに襲い掛かっている間に、ナメクジが襲ってくるということはない」

 と考えられる。

「カエルを食べている間に、ナメクジが近づかないようにすればいい」

 という考えもあるが、それはあくまでも、

「その時だけのこと」

 としていえるだけだった。

 もし、ヘビとナメクジだけになってしまうと。どうなるだろう?

 それを考えた時、ヘビが起きている間はいいが、ヘビも寝ることになるはずである。その間に、逃げるところもなく、ナメクジが迫ってきたとすれば、

「気が付けば、解かされている」

 ということになるのではないだろうか。

 それを考えると、

「長い目で見れば、いつどうなるか分からない」

 ということであり、もっといえば、

「いつ、襲われるか分からない」

 と考えながら、恐怖におののいている。

 ということを考えると、恐ろしい。

 ただ、客に、

「三匹ともが、三すくみの状態で、身動きできない」

 ということであった時の精神状態と、ナメクジと二匹だけになった時のことを考えると、何とも言えないだろう。

 自分の優位性がまったくなく、

「力の均衡がない」

 という状態での恐怖は、

「二匹になった時」

 であろうが、

「三匹で果てることのない均衡をずっと続けなければいけない」

 というのも、恐怖とストレスで、潰されそうになる。

 この、

「どちらがいいのか?」

 ということは、

「その時になってみないと分からない」

 ということであり、本来であれば、

「どちらも、絶対になりたくないシチュエーションだ」

 ということになるだろう。

 そうなると、

「どっちがいいのか?」

 というのは、それぞれで感じ方が違うだろうから、

「答えは一つではない」

 ということになるだろう。

 そんな三すくみであるが、その発想から思いついたものがあると言われるマンガがあった。

 そのマンガは、

「合体ロボット系」

 のマンガであり、その発想が結構面白かった。

 というのは、

「他の合体ロボットというと、一つの大きな戦闘機に、いくつかの機能を持ったそれそれのマシンが吸いつくような形で一緒になることで、一つの巨大ロボットを作り上げる」

 というような形が多かった。

 しかし、このロボットはもっと画期的で、

「三つの戦闘機が、空中で合体する」

 というもので、さらに画期的なのが、

「その合体というのが、順番を変えることによって、別のロボットに変身するというものである」

 従来の合体ものというのは、基本的に、合体パターンはひとつしかなく、その筐体は、一つしかない。

 しかし、このロボットは、それぞれの機種を、1号機、2号機、3号機としたならば、

順番的に、

「1, 2、3」

「2,3、1」

「3,1,2」

 という形で合体することで、3体のロボットに変身するというものである。

「しかも、それぞれに、機能が違い、

「陸海空」

 とそれぞれの場所に特化した戦闘ロボットになるのであった。

 これが、すべて、三すくみの発想から結びついたというわけではないだろうが、この作家の頭の構造が、

「中身を割ってみてみたい」

 という物騒な発想になりそうなくらい、すごいものに感じられた。

 その戦闘機も、そもそも単独の時は、

「陸海空」

 とそれぞれに特化したものであり、合体して、その先頭が操縦の責任を持つ形になると、その力は、

「百万パワーに匹敵する」

 といわれるほどであった。

 この発想は、

「三すくみだけでは、きっと不十分だろう」

 確かに、三すくみが基本となっているのは分かるが、そこに、

「三つ巴」

 という、

「力の均衡」

 によって、

「力が相殺されるにあたって、別の力が発揮される」

 というイメージが、この画期的な合体ロボットを作ったのかも知れない。

 そして、この話の基礎になっているのは、

「近未来の地球では、資源を使い果たしてしまう」

 という問題が世界的に大きな問題ということで考えられていた。

 これは、今の時代にも続くことで、実際にはなかなか進んでいないのが現状である。

 なぜなら、今の時代は、

「なるべくエネルギーを消費しないようにしよう」

 ということで、いわゆる、

「ケチる」

 ということで、エネルギーの温存を考えている」

 ということなのだろうが、そもそも今の時代の考え方は、それよりも、

「無駄なエネルギーの消費は、自然破壊であったり、することになり、自然の均衡というものを破壊してしまい、結果として異常気象をもたらすことになる」

 ということであった。

 まずは、

「異常気象の発生をなるべく抑えないと」

 ということであった。

 最近の異常気象は、水害、台風などの自然発生的な災害だけではなく、問題として挙がっているのは、

「地球温暖化」

 ということであった。

「夏になると、人間の体温よりもさらに高い毎日を過ごさなければいけなくなり、生きているだけで、死に庄名状況に見舞われる」

 という、それこそ、

「生活どころではない」

 という状況になりかかっている。

 これは、もはや。

「地球温暖化」

 などではない、

「地球沸騰化」

 ではないかといわれている。

 最初は、

「いずれ、異常気象によって、南極の氷が溶ける」

 ということで、

「陸の水没」

 というものの懸念だけであったが、今ではそれどころか、

「暑さのため、人がバタバタと死んでいく」

 というシナリオになっているということであった。

 もっといえば、

「今の世の中、いつ死んでもおかしくない」

 と、それが、

「誰にでもいえることだ」

 ということで、今までほとんど、考えることのなかった。

「自然災害による死」

 というものが、目の前に見えてきたということであった。

 本当であれば、

「地球温暖化」

 であったり、その元々の、

「資源の限界」

 というものに対して。

「新たなエネルギーの発見や、開発」

 ということが行われてしかるべきなのに、

「ケチる」

 ということに舵を切ってしまったのかハッキリは分からないが。実際に、目の前のできごとを、一つずつ解決しなければいけなくなったことでの方向転換なのかも知れない。

 しかし、

「平行で研究すればいい」

 ということなのだろうが、政府が嫌がっているのかも知れない。

「これ以上、国の金を使うことは、甘い汁を吸っている自分たちに、その金が回ってこない」

 ということになる。

 それを考えたのが、このアニメであった。

 このアニメは、今から40年くらい前のものだったのだが、まさか、その発想が、今の世界でフラッシュバックされたかのようになるとは、誰が想像したことだろう。

 そもそもが、このアニメが、

「未来への警鐘」

 というものを鳴らしていたのに、今の政治家は、年齢的に、このアニメの世代が、ちょうど、自分たちの世代だったくせに、その教訓をまったくもっていなかったということであろう。

 つまり、

「自然エネルギーが、いずれはなくなる」

 と分かっていながら、何ら対策を打ってこなかったのだ。

 政治的には、目の前の、

「東西冷戦」

 であったり、今のような、

「ゲリラ」

 に対する備えであったり、

「新興超大国の台頭」

 などによる、世界情勢の不安定さが、

「エネルギー問題」

 だけではない、もっと切羽詰まった問題だった」

 ということで、言い訳をするだろう。

 確かにそれも言えるが、だからといって、平行で考えるということができないわけではないだろう。

 それが分かっているのに、そちいらの方は分かっているくせに、完全に後回しだ。

「予算がない」

 というのがその言い訳であるが、本来なら、

「こういう時のために、予備費というものがあるはずだ」

 ということのはずが、まるで、昔のアニメのように、政治家が、

「自分たちの甘い汁がなくなる」

 ということを恐れて、できることをしてこなかったことが、今のような、

「自然災害」 

 であったり、

「地球沸騰化」

 というような、非常事態を招いたのだ。

 何度でもいうが、

「結果として、なっていたことなのかも知れないが、少なくとも、もう少し、何とかなるだけの状態だったことだろう」

 といえる。

 逆にいえば、

「いまさら遅すぎる」

 という部分も結構あり、あとは、

「いかに滅亡を遅らせるか?」

 ということになるとしか言えないだろう。

 そんな世の中が今から40年前にいわれるようになり、

「似たような、プロローグのロボットアニメ」

 あるいは、ロボットに限らないアニメが開発され、どんどん売れたり、映像化されたりしたというのは、実に皮肉なことだ。

 それが分かっていながら、何もしない政府、それが、

「民主主義」

 というものの正体だ。

「では社会主義ならよかったのか?」

 と、考えられるが、

「社会主義であれば、もっとひどいだろう」

 ともいえる。

 社会主義は、国家が、

「平等」

 という介入をするだけで、あとは、いかに、

「自分たちの独裁を守るか?」

 ということしか考えていない。

「下手をすれば、自分たちさえよければそれでいい」

 ということではないだろうか。

 これは全世界での共通した考えであろうが、いくら、口では、いいことを言っても、やっていることは、

「どうせ、俺たちが生きている間は、安泰だ」

 という気持ちがあるからだろう。

 資源問題だけであれば、普通に考えて、数十年は大丈夫だろう。

「自分たちの子供、いや、孫の代」

 くらいになると危ないだろうが、そうなると、その世代の人間が考えればいい。

 というのが、それぞれの国家元首や、政治家の考え方であろう。

 そのロボットアニメの場合は、そんな未来を予見していた。

 そこで、民間の研究室がたくさんできて、

「人類の未来」

 のために、

「持続性のあるエネルギーの開発」

 ということで、模索している時代だったが、

 一つの研究所が、新しい資源を、発見した。それは、宇宙からの無数にやってくる、一種の、

「宇宙線」

 というエネルギーであった。

 これはそのままだと、人体には有害なので、それを加工する形で、地球が取り込むというマシンを開発していたのだ。

 しかし、地球にいる別の高等生物、地中で人知れずに平和に暮らしていたのだが、

「その宇宙線をエネルギーにしていた」

 ということであった。

 彼らからすれば、

「加工されてしまうと、自分たちが生きることができなくなる」

 ということで、出てきた答えは、

「これまでの共栄を捨てて、人類の滅亡を図る」

 ということであった。

 その情報を聞きつけた博士は、

「地底勢力と戦うため」

 ということで、巨大ロボットを創造した。

 しかも、相手は、

「地中で蔓延っている連中」

 ということだ。

 調査してみると、彼らも、

「巨大ロボットを駆使して、攻めてくる」

 ということであり、その性能は、

「陸海空」

 に万能なロボットであった。

 人類も、一体のロボットで、

「陸海空」

 を制覇できる、

「万能ロボット」

 を作ればいのだろうが、どうもそんな暇もないということで、

「陸海空に特化できる、合体ロボット」

 というものを開発したのだ。

 その間に、他のロボットを開発しようとも考えたが、

「それよりも、この戦闘ロボットの、量産体制というものが急がれる」

 ということが、急務だったのだ。

 実際のこのロボットは、かなりのエネルギーを持っているようで、地底帝国の敵とも、対等に戦えていた。

 そもそも、人類にての、

「ロボットによる戦争」

 というのは初めてだったので、

「劣勢もしょうがない」

 といえた派、それは相手も同じことで、そもそも、地上の連中と、一線を構えるつもりは最初はなかったのだ。

 しかし、彼らが、

「地表の人間と、共存はできないかも知れない」

 と考えるようになったのは、今に始まったことではない。

 というのは、その原因というのが、

「東西冷戦時代」

 にさかのぼるのだ。

 その頃の代名詞といえば、

「核開発競争」

 ではなかったか。

 つまりは、その時代の途中で、

「核の放射能はあなどれない」

 と、いまさらながらに気づいた人類は、その核実験の場を、

「地下に求めた」

 ということであった。

 いずれは、

「宇宙空間」

 ということも考えたが、何しろ、真空の宇宙空間で実験しても、その効果はほとんどないことが分かっている。

 そうなると、あとは、

「地下核実験」

 というものしかないということになるではないか。

 実際に、

「地下核実験」

 というものを行うことになると、

「地下帝国」

 の人たちは、びっくりである。

 その当時の核実験くらいでは、地下帝国の科学力では十分に防げていたが、それが、そのうちに、

「放射能汚染」

 ということになると、少し変わってきた。

 しかも、それによって、結果として、

「宇宙からの、人間が加工しようとしているエネルギーなしには生きられない」

 という身体に変わっていった。

 そもそも、彼らをそんな風にしたのは、人間だったのだ。

 そういう意味で、

「核開発を行い、その実験を何度も繰り返し、それを地下に求めた」

 という、

「核開発競争」

 にかかわったすべての人間が悪い。

 ということなのだろうが、

「地下帝国の連中からすれば、もうそんなことはどうでもいい。地上の人類は、すべて的なのだ」

 ということになる。

 その考え方を誰が諫められるのか?

「いやいや、諫めることなどなく、完全に地上の方が悪いのだ」

 という前提の下に、そのアニメは、

「地上の人類中心の考え方で動いていく」

 つまり、政府は、それらをすべて分かっていた。

 なぜなら、地底帝国から、人類に対して、

「宣戦布告」

 をしてきたのだ。

 政府は、

「全世界の混乱」

 を恐れて、その事実を隠蔽した。

「混乱が起これば、俺たちが、混乱に紛れて殺されてしまう」

 ということでの、保身に走ったのだ。

 この期に及んで、

「自分の身がかわいい」

 という政府だったのだ。

 そのため、一部の人間だけには、警戒させるために、話をしている。それも、

「地底帝国が、地上を侵略しようとしている」

 ということが、その目的とされた。

 そして、その中の命令として、

「地底帝国の人間を捕虜とすることは許さない」

 ということであった。

 表向きは、

「あいつらを捕虜にすると、人間に有害な連中なので、少しでも同じ空気を吸うと、有害なエネルギーが発せられ、皆死んでしまう」

 といわれたのだ。

 ただ、実際には、

「やつらの口から、真実が漏れるのを恐れてのことで、実際に有毒な連中だったというのは、あとからこじつけたことであったが、実際に、あながち、有毒というのは、ウソではなかった」

 という。

 しかし、それも、結局は、

「人間による、地下核実験がもたらしたもの」

 ということであり、

「彼らに責任はないはずだが、結果として、人間が引き起こした災害に違いない」

 ということであった。

 要するに、

「どの角度から見ても、落ち度のすべては人間にある」

 ということであるが、それをひっくりめてすべてを、

「地底からの侵略」

 ということにして、

「過去の過ちを隠蔽する」

 という意味においても、

「地底帝国の存在自体が許されない」

 ということになるのであった。

 そんな地底帝国に対して、地表では、

「やつらに対抗するロボットの政策を行い、さらに、資源の確保が必要だったので、宇宙線加工のための開発が進んだ」

 その時までは、

「やつらのエネルギー源の下が何か」

 というこが分かっていなかった。

 なぜなら、

「相手をの積極ができなかったからだ」

 ということである。

 しかし、そんな政府に不信感のあった博士が、捕虜から、話を聞くと、

大体のことが分かった。

「まさか、我々の国家が、そんなことをしていたなんて」

 とにわかには信じられないと思ったが。

 そもそも、

「捕虜はすべて殺せ」

 というのは、理不尽だ。

 確かに有毒なのかもしれないが、彼らの研究室くらいであれば、それくらいの有毒なら、何とでもなるのであった。

 だからといって。

「国家に逆らう」

 というのもできないだろう。

 それを考えると、政府は、

「どうしていいのか、正直分からない」

 というところまで来ているのであったのを、研究所も何とか分かるところまでは来たのだが、本質的なところが分からなかった。

「政府もそこまでは分かっていなかったのだ」

 ということであったが、それでも、何とか捕虜から聞き出すことで、分からなかった部分が分かってくる。

「本当は、話し合いをすべきなのだろうが、ここまでくれば、そうもいかない」

 と研究所は考えて、

「とにかく、相手を先頭不能に追い込み、そこで、話し合いに持ち込むしかない」

 ということになった。

 こうなると、

「勧善懲悪」

 などというのは、一体どこに行ったということになるのだろうか?

 ということである。

 明らかな、

「迷走」

 であることに変わりはなく研究所だけではなく、国家と、地下帝国。それぞれに、それこそ、この、

「合体ロボットのテーマ」

 ともいえる、

「三者三葉の関係」

 つまりは、

「三すくみなのか?」

 あるいは、

「三つ巴なのか?」

 という関係になってくるということではないだろうか?

 ただ、このアニメの発想とすれば、

「三つ巴は仕方がないが、三すくみはまずいだろう」

 ということであった。

 というのは、

「資源の限界」

 ということ、お互いにエネルギーの共存ができないということで、自分たちが助かるには、

「一刻も早く相手を撃滅することだ」

 ということであった。

 しかし、地底帝国はそうではなかった。

 彼らの科学力は、

「地球人類が加工するエネルギーをこちらに来ると元に戻せるということができるマシンを開発していた」

 もちろん、彼らにも限界はあるが、それは、人間の限界よりも、はるか先のことであった。

 となると、人類の加工する機械の開発を止めるだけで、

「人類を滅亡させられる」

 ということであった。

 だから、

「地上の人間からすれば、全面戦争しかない」

 ということであったが、

「地底帝国からすれば、持久戦で、ただ、相手が開発したものを壊すだけでよかった」

 ということだ。

 しかし、これが、

「地底帝国にとって、有利だということであった」

 なぜなら、

「相手は神出鬼没でもよかった」

 ということだからだ。

 相手は、どこからともなくやってきて、兵器を壊してさえいけばいいのだ。

 地底帝国は、異次元の世界も自由に行き来できる能力があり、さらに、透明化というものできた。

 だから、人間には相手の根拠はおろか、前線基地も見つけることができず、まるで、

「見えない相手と戦っている」

 というだけだった。

 確かにレーダーには映るが、それでミサイルを撃ち込んでも、相手はどこにもいないということで。もう、勝機は、

「接近戦しかない」

 ということであった。

 それを研究所の方だけが分かっていて、

地球防衛軍は、あくまでも、ミサイルによる、遠隔攻撃しかしなかった」

 いや、

「しなかったわけではない、できなかったのだ」

 やはり、研究所の合体ロボットに頼るしかないということになるのだろう。

 しかし、研究所の方でも、

「すべての事実」

 を知った以上、同情が湧いてこないわけはないだろう。

 中には、

「こんな国はもう嫌だ」

 といって、向こうに寝返る連中もいた。

 しかし、相手からすれば、それは許されない。投降していった連中が、処刑されているということを知った研究員は、それでやっと、

「あいつらと、正面切って戦う」

 という気持ちになったのだ。

 それも不幸中宇の幸い」

 といえるが、

「地底帝国」

 としても、

「こっちも望むところだ」

 ということを考えていたに違いない。

 地底帝国は、元々、地上にいたことがある民俗だった。

 元々は、地上の連中と同じ民族であったが、ある意味科学力が発達してしまったことで、他の国から危険視されるようになった。

 そこで、

「鉄は熱いうちに打て」

 ということで、他の国が協力して、この帝国を滅ぼ同を考えたのだが、帝国も頑強に抵抗し、かろうじて地下に逃れたのだ。

 しかし、これは、人類にとっては、

「黒歴史」

 であった。

 だから、各国の歴史書にそんな証拠が残っているわけではない。だから、

「地底に帝国が存在する」

 などということは誰も知らない。

 そのために、

「地下核実験をやったんだ。地下に文明が存在するなど知ってればやらないさ」

 ということであったが、実は、この地底においやった事実を、何と、日本は、皇室の書き残したものに、残っていたのだった。

 さすがに、皇室文書を日本人が疑うというわけにもいかず、日本政府は最初は悩んでいた。

 しかし、

「国際社会に逆らうわけにはいかない」

 という、

「世界的に言い訳をしたい時に用いる詭弁を使う」

 ということで、

「あの国は、地底からの侵略者だ」

 ということで、

「国際的に葬る」

 ということで閣議決定し。このことは、

「国家の最高機密だ」

 ということで、世界に従うことにしたのだ。

 日本という国は、昔はそんな国ではなかったはずなのに、どうしてこんな国になったというのだろう?

 そもそも、

「押し付けられた民主主義」

 に無理があったということであろうか。

 日本は、基本的に、大日本帝国の時代までは、間違ったことは言っていなかっただろう。

 それは、自国の体制を、

「立憲君主国」

 として、いい悪いは別にして、ブレることなくやってきた。

 しかし、戦争に敗れたことで、

「民主主義」

 を押し付けられ、

「民主国家:

 ということで言い訳ができることを学んだ。

 だから、政治家は、言い訳しかしないのだ。大日本帝国の時代であれば、軍の上層部も、政府も、強引ではあったが、それなりに、言い分は間違っていなかった。今の政治家のように、

「民主主義の自由」

 を盾に、言い訳をして、

「自由に、私利私欲に走れるという立場を生かして、私利私欲に走る」

 ということだ。

 しかし、

「私利私欲に走れる」

 というのは、その立場を利用して、まみれているわけで、それも、

「民主主義の自由というものが、平等を犠牲にしてきた」

 ということが原因であったことが招いたものではないだろうか?

 だから、今の政府は平気で、

「地底国家を新竜者として葬り去る」

 ということを決めたのだった。

 そういえば、誰だって、必死になって戦うだろう。

 しかも、相手が明らかに攻めてきているのだ。

 今まで日本は、

「平和な国」

 ということで、感覚がマヒし、

「平和ボケ」

 になっている。

 つまりは、

「日本という国を攻撃されると、さすがに敏感になり、攻めてきた方が明らかに悪いという理屈以外を考えられないようになり、相手を殲滅するということだけが、唯一の正義だ」

 ということになるのだ。

「本当の正義はどこにあるのか?」

 誰にも分からない。


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