第4話 自由と平等
「人型ロボット」
というのが、
「アンドロイドや、サイボーグ」
といった、
「人工知能」
などによって、制御されるものと違って、
「巨大ロボットもの」
というと、考え方としては、
「地球エネルギー」
や、
「宇宙から降り注ぐエネルギー」
というものを使ってのエネルギーで動くロボットが、
「人間の役に立つ」
ということから、開発されたもの。
という発想がある、
だから、
「巨大ロボット」
というと、
「まるで、工事現場での、ショベルカーのような、重機を感じさせるもの」
と発想が似ているような気がする。
最初は、
「実写が多かったが、そのうちに、アニメの技術が進んだからなのか、アニメによる、ロボットものが増えてきた」
そうなると、
「実写では、表現できにくいものを、アニメであれば、表現できるということで、ロボットアニメの時代に入ってきた」
というのも、代表的なものとして、
「合体もの」
というのが増えてきた。
「それぞれの機能を持った戦闘機であったり、戦車のようなメカが、合体することで、一つの巨大ロボットに変身する」
というものである。
巨大ロボットでなくとも、
「合体することで、一つの大きな戦闘機になる」
というパターンもあり、一時期、
「合体もの」
というブームがあったりした。
しかも、その合体ものとして、面白いのが、
「正義のヒーローに変身する」
という設定の中で、
「二人が合体して、一人のヒーローに変身する」
というものも流行ったのだ。
それが、
「巨大ヒーロー」
という場合もあるし、
「人型の等身大ヒーロー」
というものの両方もあった。
しかも、人間の合体で、ヒーローになる場合は、最初は、実写が多かった。
つまり、
「アニメが増えてくる前から、合体という発想はあった」
ということである。
子供心に、
「二人の人間が、一人のヒーローに変身することで、喧嘩のようなことにはならないのか?」
と思ったが、等身大ヒーローの方の元々の発想が、
「友情」
というものからきているもので。
「お互いに、喧嘩になったり、意見が合わなかったりすると、変身が解けてしまう」
という発想であった。
だから、正義のヒーローになって、悪をやっつけたり、目の前で苦しんでいる人を助けるには、
「喧嘩なんかしていられない」
ということで、
「友情の大切さ」
というものを、皆に植え付けようという発想だったのだろう。
そんな友情をテーマにすることで、
「大切なのは、友情と助け合い」
ということになると、敵の方には、そんな概念がないことで、相手が仲間割れを起こしたりして、自滅するということも、たまにあったりした。
もっとも、テーマが、結局は、
「勧善懲悪」
ということになるのだから、最後には華々しく、敵をせん滅するということを求められるので、
「必殺技を繰り出すことでやっつける」
という結末になるのだった。
しかし、この発想がいいのだろうか?
民主主義の世の中なので、
「自由、平等、博愛」
ということのはずなので、
「博愛」
ということを考えると、
「相手を完膚なきまでにやっつける」
というのが、果たして教えとしていいことなのだろうか?
ということである。
昔の大日本帝国の時代であれば、戦時などで、時代劇による、
「勧善懲悪」
であったり、
「当時の戦闘機のドッグファイトにより、相手を撃墜する」
というのが、
「正義」
だったりするのだ。
もっとも、戦闘機のドッグファイトというのは、お互いにズルをするわけではなく、
「正々堂々」
と渡り合っているわけなので、ある意味、スポーツのようなものである。
時代が、そうさせたという背景があるにしても、勧善懲悪というよりも、お互いに、国を憂いて、国防という意味で戦っているのだから、一種の、
「スポーツマンシップ」
といってもいいのではないだろうか?
そういう意味では、
「戦時高揚の意味」
と、
「いずれは、戦闘機乗りを志す」
という、
「人材育成」
という意味を込めた、一種の、
「プロパガンダ」
としては、悪くはないことだと思う。
「時代が、そうだった」
ということなので、
「人を殺戮するという目的のものは、すべてが、ダメだ」
ということになると、話はおかしな方向になるだろう。
だとすれば、
「警察官が、拳銃や手錠などを携帯している」
というのも、違反ということになるのではないか?
確かに今は、拳銃を日ごろから携帯することはしていないだろうが、実際に使用命令が出ることだってあるだろう。
つまりは、
「この世から、悪というものがなくならない限り、警察の存在は永遠であり、暴力が蔓延こる要素はなくならない」
ということになる。
何といっても、
「自衛のための、武器の所持は、世界に出れば、法律で認められているというところはたくさんある」
ということである。
問題は、それをキチンを分かっていない場合のことだ。
以前、日本人が留学ということで、アメリカのどこかの州に滞在している時、ちょうど、ハロウィンという行事があった」
日本では、まだまだ普及されていない時期だったということもあって、アメリカに留学したその青年が、隣の家に、仮装して侵入したという。
その時、
「とまれ」
という英語を分からずに、動いてしまったがために、
「銃で撃たれて死んだ」
という事件があった。
そこで、今までにもあったかも知れないが、
「銃社会」
というものが問題になったりもした。
確かに死んでしまった人はかわいそうだとも思うが、
「そもそも、考え方が甘かった」
といえるのではないだろうか?
というのも、
「アメリカという国は、州によって、銃の所持が認められている」
というのが大前提で、その州は認められていたということである。
そして、
「ハロウィンというお祭りであっても、勝手な住居不法侵入には変わりがない」
という、
「どこの土地であっても、共通ともいうべき、基本的な法律を失念していた」
ということ。
そして、
「そもそも、言葉もハッキリ分からなかったり、その国の風俗習慣というものを、勉強していなかった」
ということで、
「殺されても仕方がない」
といえるだろう。
それを思うと、
「射殺することになってしまった方が気の毒だ」
という気がしてならないのだった。
今の時代は、どこの国にでも簡単に行けるようになって、留学というのも多くなっている。
特に日本などでは、
「インバウンド」
とかいうバカな制度で、
「外人が人件費が安いのと、金をどんどん使ってくれるから」
というだけの理由で、どんどん受け入れているが、それが、数年前に流行って、いまだに収束していない、
「世界的なパンデミック」
というものを拡大させた原因になっているということを、いまだに政府は分かっていないのである。
しかも、外人どもは、日本のことを分かってきているのかどうか分からないような、とんでもない暴挙をする連中だっている。それこそ、大迷惑なのに、政府は、そんな外人どもを雇うと補助金を出す。
なとという、
「日本人が払っている税金を何だと思っているのか」
と文句の一つも出てくるというものだ。
だから、
「あまり、外人がやってくるというのは、歓迎する気持ちにはなれない」
と思っている人が、一定数以上はいるということであろう。
脱線してしまったが、要するに、大日本帝国という、
「立憲君主の国」
が、敗戦によって、民主主義国家に生まれ変わったということであるが、だからといって、
「昔のやり方が間違っていた」
という発想は、一足飛びで危険なことであろう。
確かに、民主化を急ぎ、武装解除や、平和国家として、統治をおこなうということが急務だったので、
「強引な民主化」
もあっただろう。
何といっても敗戦国なのだから、その混乱は致し方のないことで、復興までの十数年は、
「住む家もない」
あるいは、
「明日の食べ物がない」
という状態で、
「栄養失調で、毎日のように、人がばたばたと死んでいく」
ということになったのだが、それでも、
「毎日のように、爆弾が、雨あられと降ってきて、空襲が終われば、そこには、廃墟と死体の山があった」
という地獄絵図よりはましだったと、本当に言えるのだろうか?
「どちらにしても、地獄絵図には変わりはない」
そんな復興から、独立まで、そして、
「もはや戦後ではない」
といわれるまでの日本が、どれほどのものだったのかというのは、想像できるものではないだろう。
何といっても、
「戦争というものを、放棄したと言われる憲法の下、今のところ、自衛隊の存在が微妙というところでの憲法改正議論が以前からあるが、この問題は、そう簡単にできるものではない」
というのも、
「憲法というものは、国民を縛るものではなく、国民を縛るための私法と呼ばれる、民法や刑法を作るという国会議員を戒めるというためのものである」
ということだ。
国会議員が、
「憲法改正」
ということを叫んでいるが、本当にその叫んでいる人が、今の理屈を分かっているのかどうか怪しいものだ。
何しろ、
「議員報酬」
というものをもらいながら、
「国会で寝ている」
というやつがいるだけではなく、
「一度も国会に出てこない」
という、それこそ、有権者の意思を踏みにじるようなやつがいるというのが実情である。
「国会議員を、先生などといって、おだて倒す連中がいあるが、やつらは、いくらもらっているのかね」
と思えて仕方がない人もたくさんいることだろう。
それが、今の時代においての社会というものであり、
「これが、民主主義というもので、自由、平等、博愛などという言葉が恥ずかしくて言えないようなやつの多さに、閉口してしまう」
といってもいいだろう。
完がええみれば、
「自由」
というものが優先されると、
「平等」
ということではなくなる。
というのが、分かってきたことで、
「民主主義の限界」
といわれるようになった。
ということで、出てきたのが、
「社会主義」
であった。
その発展形が、
「共産主義」
なのであるが、
そもそも考えてみれば、民巣h主義委の基本的な考え方として、
「人間は、生まれながらにして平等だ」
といわれるが、果たしてそうなのだろうか?
というのも、
「生まれながらにして平等だ」
というのであれば、生まれる人は、皆平等な世界に生まれてなければいけないだろう。
貧富の差などなく、社会の仕組みとして、
「誰に責任があるか?」
あるいは、
「責任を負わせるか?」
ということで、階級であったり、役職というものが決まってくるわけで、当然、
「責任の重い」
といわれる人が、高い給料をもらうというのは、当たり前のことである。
逆にそうでなければ、その時点で、
「不平等だ」
ということになる。
だから、社会の中で、
「片方が平等であっても、片方では必ず不平等が起こる」
というのが、
「民主主義の限界」
と呼ばれるものだといってもいいだろう。
だから、
「民主主義において、平等というのを口にするのは、何に対しての平等なのか?」
ということをハッキリさせないと、
「漠然としたもので終わってしまう」
ということになるに違いない。
そんな中で生まれた
「社会主義」
という考え方は、
「民主主義が、自由を追求することで、平等を犠牲にしているのだから、社会主義というのは、逆に、自由を犠牲にして、平等を達成しよう」
というものである。
今の社会体制であれば、
「自由と平等は、それぞれに相対するもので、それぞれに、共存できるものではない」
ということは、
「今までの長い歴史」
というものが、証明しているということになる。
だから、問題は、
「自由競争によって、平等の精神がそがれるのがいいか?」
あるいは、
「平等を求めることで、自由競争がそがれるのがいいか?」
ということであり、
「社会主義」
あるいは、
「共産主義」
という考え方が出てきた時、その考え方を、
「素晴らしいものだ」
ということで、絶賛したジャーナリストも少なくなったことだろう。
しかし、共産主義というのは、大きな問題がある。
これは、
「ファシズム」
というものにも共通することであるが、そこに君臨するものとして、
「一党独裁」
という、
「強力な政府」
ということである。
ナチスでもそうだったではないか。
第一次世界大戦の敗戦国となったことで、戦勝国から、莫大な賠償金を要求され、領土もかなり取られて、戦勝国で分け与えられる。
そして、ドイツという国は、貧困にあえぎ、惨めな暮らしを強いられているところに、
強大で、一党独裁を目指し、
「民俗の優位性」
であったり、
「民俗復興」
を解くことで、
「この人についていこう」
ということになったとしても、それは無理もないことであったといっても過言ではないだろう。
そんな状態で、どんどん、国土が増えていくのだから、それまで、虐げられたドイツ国民は、自分たちを苦しめた他の国に対しての、
「報復」
ということで、誰が、ナチスに反対する人など出てくるわけはない。
もし反対などしようものなら、国家から虐げられる前に、近所から村八分にされる状態だっただろう。
もっとも、ナチスはそんなことも分かっていたので、
「国家秘密警察」
などというものを最初から作って、情報統制から、国民の心理まで強制的に管理するということになったのだろう。
だが、そんなナチスドイツのような、
「ファシズム」
というのは、
「ドイツ民族」
というものだけの発展を考えた。
そもそも、大戦後に、まわりの国から迫害される形になったのだから、ドイツ国民全員が、
「ナチスと同じ考え」
だったということが後押しして、ナチスは、完全な独裁国家となったのだ。
そこで行った。
「ホロコースト」
ユダヤ人迫害というものであるが、
「やったことは、人道に背く」
ということになるので、
「やり方が間違っていた」
ということになるのだろうが、
「自分たちの民族を守るため」
ということで、
「他の民族を排除する」
というのは、普通にありではないだろうか?
当然、やり方によるという意味でである。
実際に、国によっては、
「他民族が流入してきて。国家体制がめちゃくちゃになった」
というところも少なくはない。
何といっても、
「植民地政策」
というのが、実際には、そんなものではなかったのか?
ということになれば、アジア諸国が、
「鎖国をしていた」
というのも無理もないことだった。
そういえば、大東亜戦争の後にあった、
「極東国際軍事裁判」
というものにおいて、日本人の被告が、被告としての弁論に入った時。
「ペリーを連れてこい」
といったという話がある。
これは、そもそも、
「日本はそれまで鎖国をしていて、別に鎖国をしたままでもよかったものを、アメリカが、大砲で攻撃するなどという脅しをかけるものだから、仕方なく鎖国を解いたのだ」
ということで、大東亜戦争の原因は、
「黒船来航にさかのぼる」
ということを言った人がいたというが、まさにその通りであろう。
戦争犯罪人を裁くということで、
「では、どの時代からさかのぼって議論する必要がある?」
ということが、実は大きな問題といえるだろう。
そもそも、この裁判は、
「勝者が敗者を裁く」
ということで、最初から、平等ではない裁判なのだ。
要するに、
「戦争犯罪人」
というものを裁いておかないと、また次の戦争を招きかねないということは分からなくもないが、それを裁くのが、
「勝者だ」
ということは、
「実に本末転倒だ」
といってもいいだろう。
というのは、
「日米戦というものを、大東亜戦争という言葉を使ってはいけない」
ということからして、
「歴史の隠蔽」
といえるのではないだろうか?
大東亜戦争というのは、
「日米戦」
というものが始まる少し前の閣議決定で、決まったもので、
「日本側には日本側の、大義名分があった」
のである。
それを否定するということは、
「戦勝国側に、それなりの、後ろめたいことがある」
という証拠であることを、自らで公表しているようなものだった。
その、
「大義名分」
というのは、
「大東亜共栄圏」
というものであった。
欧米列強が、昔に行った、
「植民地」
という形での、アジア諸国を占領しているという事実が、元々あり、
「日本が、アジアの国を解放し、その後に、日本を中心として、アジアの新秩序を打ち立てる」
というのが、戦争のスローガンであり、
「大義名分」
だったのだ。
だから、
「大東亜戦争」
という言葉を否定するということは、
「自分たちが今まで植民地としてアジアを搾取してきたことが、戦争の原因だ」
ということを自らで宣伝しているものだと言えないだろうか。
そもそもが、この裁判自体が、
「勝者による裁判」
ということで、公平性は最初からなく、
「力の理論」
というもので、押さえつけるという考えがありありだったのだ。
もっとも、そこかで、誰かが
「収拾をつけなければいけない」
ということは当たり前のことなのだろうが、そのために、
「勝者による裁判」
というのがまかり通るとうのが、民主主義だということであれば、それこそ、
「民主主義の限界」
どころか、
「崩壊だった」
といってもいいだろう。
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