第3話 空想特撮ものと、ロボットもの

大日本帝国の盛衰に関して、

「無謀な戦争」

 であったり、日本が、

「完膚なきまでにやられた」

 という発想は、

「敗戦」

 ということだけを切り取って考えるから、そういう発想になるのであって、

「確かに日本という国は、致命的に資源の少ない国だ」

 ということだから、余計に、

「大日本帝国は、後進国であり、超大国に戦争を吹っかけるというのは、まるで、小学生が、プロに野球の試合を申し込むようなものだ」

 という印象になってしまい、

「すべてにおいて、劣っている」

 と考えがちだが、

「実際にはそんなことはない」

 といってもいいだろう。

 特に、日本という国において、その科学力というのは、

「アンテナ技術」

 においての、

「八木・宇陀アンテナ」

 という技術であったり、

「日露戦争」

 における、

「日本海海戦における陰の立役者」

 といわれた、

「下瀬火薬」

 であったり、

「伊集院信管」

 などの発明、さらには、

「ゼロ戦、ハヤブサ」

 などの航空機開発というものに関しては、世界に誇れるほどの、日本の科学力だったといってもいいだろう。

 だから、弱体と言われた

「明治日本」

 が、

「世界の超大国」

 である、

「ロシア」

 に勝てたわけだし、大東亜戦争における、緒戦での、

「連戦連勝」

 がなしえたわけである。

 大東亜戦争においては、前述のように、

「熟練パイロットの損失」

 というものが大きく尾を引いた。

 というのは、

「新鋭であり、それだけ、高度な操縦テクニックを要するゼロ戦を乗りこなせる人がいなければ、ゼロ戦は、ただの飾り物」

 ということになる。

 戦争後期には、

「鉄などの徴用」

 ということで、兵器を作ることができなくなっていたが、それも、操縦できる人がいないことで、いたずらに、兵器を兵とともに、損失してしまったことが、大いに影響をもたらした。

 ということになるのであった。

 そんな科学技術が発達した国家において、

「資源に乏しい」

 というのは、致命的であった。

 そもそも、日本が開国した時、最初は、

「外国人打ち払い」

 ということで、

「尊王攘夷」

 という考え方に伴って、行っていた運動であったが、運動に力を入れていた藩が、皮肉なことに、いや、必然といえば必然に、

「海外の威力を思い知らされる事件を引き起こし、その報復に、攻撃される」

 ということがあった。

 それが、長州藩の、打ち払い令に伴っての、関門海峡砲撃事件に端を発した、

「四国艦隊砲撃事件」

 が起こり、薩摩藩は、生麦事件を発端として、

「薩英戦争」

 というのを引き起こした。

 それにより、

「攘夷の実行は不可能だ」

 ということを思い知った両藩は、坂本龍馬などの力により、

「薩長同盟」

 というのを結んだことによって、双方で、

「今の幕府では、外国の勢力に対抗できない」

 ということで、

「調停を中心とした新しい政府」

 を作るということをたくらむようになったのだ。

 そのこともあって、日本では、

「尊王倒幕」

 という運動が盛んになり、

「幕府を支援するフランスと、朝廷を支援するイギリスとの間の、

「代理戦争」

 という側面もあったりして、

「幕府の滅亡」

 をもって、明治維新がなされたのであった。

 ただ、外国とは、致命的な、

「不平等条約」

 というのを結んでいて、その解消にということで、

「スローガン」

 というものが、

「富国強兵」

「殖産興業」

 というものであった。

「国を富ませて、兵を強くする」

「産業を興して、国を豊かにする」

 ということであった。

 それらの考えによって、

「明治政府ができはしたが、最初の混乱を何とか抑えるまでには、かなりの時間がかかった」

 といってもよかった。

 というのは、

「それまでの武士というものが、どうすればいいのか分からない状態になり、廃刀令などの命令に屈辱でしかないことから、反乱が絶えなかったりもした」

 確かに、

「槍働きの戦など、今の時代では通用しない」

 ということであったので、本来なら、武士も軍隊に入ればいいだけではないかと思うのだが、それまでの、

「武士」

 ということに、誇りをもって生きてきたではないか。

 それが、

「武士道」

 というものであって、それを捨てるというのは、あまりにもひどいということになるだろう。

 日本の科学力というものは、アメリカの発想力と結びついたりして、

「いい方に、回転することもあった」

 戦後の日本では、工業技術が発達して、海外の手法を、

「真似る」

 ということが上手で、

「加工技術が優れている」

 ということで、海外で開発されたものを、日本の加工技術で、新たなものとして、よりよい製品を作り上げることで、経済の成長を支えてきた。

 だから、車の大量生産技術と、高性能なものを作れるという、

「精密機械の部分」

 にて、その手の器用さというものを生かして、

「輸出」

 というものに、力を注げるようになってきたといっても、過言ではないだろう。

 その器用さと、かつての科学技術に長けていたという日本の技術とが、日本の経済発展を支えたことで、生活も豊かになり、その分、

「文化面での発展」

 というのも、大きくなってきたのだった。

 文化面でいえば、

「小説」

 などもそうだが、

「日本固有の文化」

 ということで、マンガが出てきたというのも、その特徴であろう。

 そのマンガが原作となって、当時普及されてきたテレビの番組制作において、最初は、

「マンガの実写化」

 ということで、いわゆる、

「特撮もの」

 というのが流行り出した。

「空想特撮シリーズ」

 ということで、いわゆる、

「SFマンガが原作」

 ということで、

「正義のヒーローと、怪獣や、宇宙の侵略者との闘い」

 というのが、人気になってくる。

 ただ、前述のように、

「ターゲットが、どうしても子供」

 ということで、まだまだ、テレビの普及が少ないことで、

「チャンネル権は、父親にある」

 ということになり、子供が見れないという状態で、視聴率は悪かった。

 といってもいいだろう。

 ここからは、作者の勝手な考えだが、だから、当時は、再放送がたくさん放送された、それが、いつも夕方で、まだ、お父さんが帰ってきていない時間に、学校から帰ってきた子供が見ることになるので、その時間の視聴率は結構高かったことだろう。

「ひょっとすると、本放送よりもいいかも知れない」

 というのは、その時間というのは、ゴールデンタイムといっても、お父さんなどが、

「野球を見る」

 という時間で、子供が、

「怪獣ものを見たい」

 といっても、父親が承諾してくれるわけはない。

「だから、ゴールデンタイムの本放送の時間帯の視聴率が悪くても、再放送であれば、市長室が稼げるということで、その時間にスポンサーもつければ、スポンサー代が稼げる」

 ということになるのだ。

 基本的に再放送では、あまりスポンサーも金を出さないが、

「子供が見てくれる」

 ということは、スポンサーも、子供向けのものが多いだけに、

「お金を出しても問題ない」

 ということになるわけだ。

 それを思うと、当時、夕方の子供番組の再放送タイムは、結構長く続いていたという記憶があるのだ。

 そんな子供番組において、ロボットマンガというのも、

「空想特撮シリーズ」

 と並行して放送された。

 こちらも、同じような、

「勧善懲悪」

 の番組で、それこそ、

「時代劇」

 のような感覚だった。

 しかし、こちらの

「空想特撮シリーズ」

 と、

「ロボットもの」

 の違いというのは、ある程度歴然としていた。

 というのが、

「ロボットもの」

 というのは、必ず、後ろに組織が暗躍している。

 ということであった。

「空想特撮シリーズ」

 というのは、まず、怪獣や宇宙人というものが、敵の存在としてあるわけだが、

「怪獣」

 だけが出てくるのであれば、そのほとんどは、

「生物としての自然発生によるもの」

 ということであった。

 もっというと、

「人間が生み出したもの」

 という、社会教訓のようなものがあった。

 というのも、当時の問題となっていた、

「公害問題」

「核エネルギー」

 などといった、人間が生み出した、

「負の遺産」

 というべき、自分たちが利用したその後の、廃物といってもいいものが、エネルギーとして固まった時、その副産物として生まれたのが、

「怪獣」

 ということで、本来であれば、

「憎むべき相手」

 ということではなく。一種の戒めのようなもののはずなのだが、それを、地球防衛軍や、宇宙方やってきた正義のヒーローが、そんな怪獣を駆逐するという、ある意味、理不尽なストーリーだということである、

 また、これが、

「地球を侵略しようとする宇宙人」

 が敵だということであれば、

「自分たちが生み出したものではない」

 ということで、相手は完全な侵略者ということで、

「正義は地球人にある」

 という話で、勧善懲悪を貫けるというものだが、なかなかそうもいかない。

 というのも、

「勧善懲悪の話だけでは、放送期間のクール、話が続かない」

 ということであった。

 というのも、これらの番組のほとんどが、30分番組で、

「一話完結」

 というものだった。

 だから、

「一年間」

 というクールであれば、単純に考えれば、52話。途中で、別の特別番組が入ったとしても、45話以上は必要となる。

「宇宙からの侵略」

 というだけが、テーマの番組であれば、とても、

「勧善懲悪」

 というだけで、この期間を持たせるのは、難しいといえるだろう。

 だから、どうしても、バリエーションが必要になる、それが、

「宇宙人にとっては、理不尽なこと」

 という理由も中には含まれた。

 特に、

「地球人が打ち上げた、観測ロケットを、相手が、侵略と勘違いして、地球に攻めてくる」

 というものであったり、

「地球に、宇宙船の故障の修理に立ち寄って、燃料補給をしようと思っただけなのに、いきなり、侵略者扱いをされてしまった」

 ということ、さらには、

「地球防衛のための新兵器の実験場として、打ち込んだその星に、生物がいたことで、突然変異して、地球に復讐にやってくる」

 という話だったりする。

 それらの話は、そのほとんどが、

「地球上における、当時の世界情勢に鑑みたもの」

 といってもよかった。

 そうでないと、なかなか架空の情勢を毎回思い浮かべるのは無理であろう。

 だから、そのほとんどが、当時の一番の国際問題であった、

「東西冷戦」

 というものが、テーマだった。

 それが、

「代理戦争」

 であったり、

「核開発競争」

 であったり、

「国境紛争問題」

 であったりと、どこかで聞いたことがあるような話が多く、そのために、その都度起こる国際問題を、

「宇宙からの侵略」

 ととらえる形での、皮肉だったといってもいいだろう。

 今から思えば。

「よく、当局の検閲がなかったものだ」

 と思えた。

 もっとも、ものが、

「子供向け番組」

 ということもあって、すべてにおいて、検閲もできないし、何よりも、

「民主主義」

 というものが、

「報道の自由」

「表現の自由」

 というものによるということが大きかったのだろう。

 大日本帝国時代に、あまりにも戦時下においての検閲の激しかったことが、今度はその反省から、ほとんど検閲に引っかからないという建前だった。

 実際にどれほどの検閲がかかったのかは分からないが、テレビの視聴者としては、

「ほとんど引っかかっていないのではないか?」

 と思えた。

 それだけ、制作側も気を遣って制作しているということであろうから、ある意味、お互いにうまくいっているということではないだろうか?

 それを考えると、

「放送倫理がしっかりし始めた時代だった」

 といってもいいだろう。

 テレビブームの最初からそうだったことで、それほど、大きな問題にならなかったというのは、それだけ、放送倫理に関して、理解があったということでいいだろう。

 それが、当時の、

「空想特撮物語」

 といわれるものであった。

 そちらが全盛期くらいの頃に、登場したのが、

「ロボットもの」

 と呼ばれる番組だったのだ。

 最初は、

「巨大ロボットもの」

 が主であった、

 そして次第に、

「人型ロボットの、アンドロイドやサイボーグなどというもの」

 が流行り出したのだった、

 どちらにしても、前述の、

「空想特撮もの」

 との違いというのは、ある程度、その違いがハッキリしていたといってもいいだろう。

 というのが、

「ロボットもの」

 というものは、

「空想特撮もの」

 と違って、

「相手が、悪の秘密結社のようなものが暗躍している」

 ということである。

 悪の秘密結社に対して、正義の防衛隊のような組織は、その対応策として、

「巨大ロボットを創造する」

 というストーリーで、悪の組織は、まずそのロボットを倒すという意味も込めて、攻撃用巨大ロボットを出動させ、街を破壊したりして、正義のロボットを誘い出し、そこでやっつけるというストーリーであった。

 実際には、ざっくばらんに話しているが、そのストーリー展開は、もう少し定義がある話であろうが、さすがに、

「空想特撮もの」

 ほど、勧善懲悪に特化した話が、毎回あるわけではない。

 だから、これらの話は、

「一話完結」

 というものではなく、クールを通して、共通の敵との闘いというのが、テーマとなるのだった。

 つまり、ストーリーのスローガンは、

「悪の組織の壊滅を目指す」

 というものだったのだ。

「組織同士の戦い」

 とおうことで、

「自然発生的」

 であったり、

「宇宙からの侵略者を倒す」

 という、

「空想特撮もの」

 とは、明らかな一線を画していた。

 だから、それぞれにファンはいるというもので、

「どちらも好きだ」

 という人ももちろんたくさんいるだろうが、

「どちらかの方が、より好きだ」

 という人が結構多く、子供たちの間で、ファン層が分かれるというのも、無理のないことであっただろう。

 そして、

「巨大ロボットもの」

 と、その後に出てきた。

「人型の、アンドロイドやサイボーグ」

 というものでも、その違いが明らかだったりする。

 というのは、

「巨大ロボットもの」

 というのは、基本的に、

「リモコン装置」

 のようなものを使っての、

「遠隔操作によるものでの、操縦」

 という形をとるか、あるいは、

「操縦精機があり、その中に乗組員が乗り込んで、直接操縦するか」

 というものであった、

 つまりは、

「ロボットに意志というものはなく、あくまでも、人間から操縦される」

 というものであった。

 中には、

「操縦されるものの中には、意志を持つロボットもいて、あくまでも、ロボットは操縦する人間との間の信頼関係で動く」

 ということをテーマとしたものもあった。

 もちろん、ごくまれなケースであったが、

「画期的な発想だ」

 といってもいいだろう。

 しかし、今度は、

「人型」

 つまりは、

「等身大」

 のロボットということで、いわゆる、

「アンドロイド」

 と呼ばれる、

「構造が完全に、ロボットである」

 というものと、さらに、

「サイボーグ」

 と呼ばれる、

「元々が人間だが、その頭脳を、ロボットの身体に移植したというような、形のいわゆる、超人類」

 というものもある。

 それぞれに、基本的には、

「人間が作った人工知能であったり、移植した人間の脳が、働くことで、自分の意志を持って行動する」

 というものだった。

 サイボーグの場合は、実際に、倫理的な問題も大きい。

 というのは、

「死んだ人間の脳を、そのままサイボーグに移植し、その人間を、ロボットとして生かし続ける」

 というものだが、宗教的な意味ということなのか、それが、果たして許されることなのか?

 という、問題になるのだ。

 ただ、それを最初から論議をすれば、話が進まないので、そこは、ある程度スルーすることが多かっただろう。

 ただ、

「なぜ、サイボーグを作ったのか?」

 というところでの、悪の組織の暗躍が問題だったりする。

 作品の中には、

「人間の欲」

 というものが、あからさまに出ていて、その内容として、

「金儲けのために、死の商人と呼ばれる兵器開発の組織が、戦争で儲けるために、サイボーグを送り込み、どこかの国で戦争を起こさせる」

 という暗躍のためであった。

 つまりは、

「金儲けのために、人間が卸しあう戦争と起こさせる」

 という、これほどの理不尽さはないというストーリーから、

「悪の組織」」

 で、サイボーグ開発を行っていた博士が、自分の作ったサイボーグを使って、悪に立ち向かうというストーリーのものもあった。

 ただ、こちらと似た話が、

「アンドロイド」

 の方でもあった。

 とにかく、

「悪の組織」

 としては、まず目的が、

「金儲け」

 であった。

 金儲けをして、そこから世界征服のための下準備をするというのが、その根底にあるということもあるが、

「とにかく、理不尽以外の何物でもない」

 ということになるのだった。

 そんな悪の組織というものを、いかにやっつけるかというのが、

「人型ロボット」

 の役目であった。

「正義の組織が、ロボットを使う」

 というよりも、

「アンドロイドやサイボーグ」

 が自分の意志で、人間のために、戦うという話になっていることが多いのだ。

 だから、問題になるのは、

「アンドロイド」

 であった、

「サイボーグは、脳は元々人間なので、そうでもないが、アンドロイドは、人間が作った人工知能というものが、問題となるのだ」

 ということであった。

 人工知能は、その力をいかに発揮するか?

 ということで、実際に問題となるのが、

いわゆる、

「フランケンシュタイン症候群」

 と呼ばれるもので、

「理想の人間を作ろうとして、怪物を作ってしまったフランケンシュタインが、人間を攻撃する怪物が増えるのを懸念した」

 という発想から出てきたもので、

 ロボット開発における、

「ロボット工学三原則」

 というものに抵触しないか?

 ということがテーマとなる。

 つまり、

「人間を傷つけてはいけない」

「人間の命令を聞かなければならない」

「ロボットは自分の身は自分で守らなければいけない」

 という三原則を、

「矛盾なく行わなければいけない」

 ということで、その三原則には、

「犯してはならない、優先順位が存在するのだ」

 それでも、矛盾というのは、どうしても起こるというもので、それが、

「ロボットもの」

 というマンガであったり、特撮のストーリーになるというもので、そもそも、この、

「ロボット工学三原則」

 というものが、

「SF小説家による提唱」

 ということで、

「自分の小説でのネタ」

 として書かれたものであり、その完成度は、かなりのものであり、今でも、

「ロボット研究のバイブル」

 ということで、大学や各企業のロボット開発に、深いかかわりを持つことになるのであった。

 そんな時代の十数年後に、日本での、

「ロボットもの」

 というものが考えられた時、

「アンドロイドにおいては、特に、この三原則が大きな影響を持つ」

 ということになるのだった。

 ただ、サイボーグにおいても、その悲哀は大きかったりする。

 何しろ、

「人間というものの、存在、さらには尊厳というものが、影響しているからである」

 といってもいいだろう。

 どちらにしても、

「その発想は果てしないものがあり、無限の可能性を、ロボットが認知できない」

 という皮肉な結果になっているということを、その頃の作者と呼ばれる人たちが分かっていたというのも、画期的なことだといえるだろう。


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