第2話 日本国の誕生

 実際に、日本は、その道を歩むことになるのだが、

「海軍における、真珠湾攻撃」

 さらに、

「陸軍における、マレー上陸作戦」

 などと、うまくいった作戦もあったが、実際には、真珠湾において、

「宣戦布告前の攻撃だった」

 というアメリカの策略に嵌ってしまったことが、当初の目的であった、

「相手の戦意を挫く」

 ということに失敗したのが、最後まで尾を引いたといってもいい。

 特に、アメリカ人に対して、

「だまし討ち」

 ということでの、いくらハワイといっても、史上初といってもいい、

「アメリカ領土への、奇襲攻撃」

 というものが、

「だまし討ち」

 によって行われたということは、アメリカ国民には、許しがたいことであった。

 結果、日本が中国に対して感じたのと同じような思いを、アメリカ国民に感じさせたということで、ちょうど、当時の、

「反日感情」

 と一緒になり、

「戦意喪失」

 どころか、

「戦意高揚」

 という感情に、火をつけてしまったのだ。

 それが、相手国に対しての一番の誤算であっただろう。

 しかし、何よりも、一番の誤算は、

「日本国内にあった」

 といってもいいだろう。

 というのは、

「そもそもの作戦として、相手に先制攻撃からのずっと優位な体制を保ち、そこから講和に持ち込む」

 という作戦だったはずなのに、当初から、軍の活躍と、兵器が最新鋭だったということもあり、

「向かうところ敵なし」

 という状態だった。

 軍も当然、

「士気の高まりは最高潮」

 ということになり、

「イケイケどんどん」

 である。

 もちろん、国民もマスゴミも、戦勝ムードに最高潮に湧きまくるだろう。

 だが、こうなってしまうと、和平や講和を持ち込むということができなくなってしまった。

 というのも、ここまで快進撃が続けられたのだから、

「このまま、どんどん占領地を広げていって、相手から和平を持ち込んでくるくらいにさせればいい」

 と思ったとしても、無理もないだろう。

 そこへもってきて、

「国民の士気を、マスゴミが煽る」

 という状態になったのだから、

「戦争をやめる」

 などという選択肢はすでになくなってしまっていたのだ。

「戦争反対」

 などというと、当時の特高警察がやってきて、

「非国民」

 と言われ、逮捕され、

「拷問を受ける」

 という今では信じられない状態だったのだ。

 それだけ、戦時というのは、国民に権利はなかった。

 というのも、当時の日本は、

「大日本帝国」

 ということで、主権は天皇にあるのだ。

 天皇が、

「宣戦を布告」

 を行い、その中で、軍や国民に対して。戦争完遂を命令し、さらに、戦争目的達成のために、国民は、一部の自由をはく奪されるというのが、

「立憲君主国」

 における、

「臣民」

 というものになるのだった。

 つまり、日本という国は。

「戦争を始めると、まず、軍や国民の士気を高め、戦時体制を維持することで、戦争にまい進する状態を作る」

 という必要があるのだ。

 ここで、

「戦争反対」

 などという意見が出てきて、万が一、それが蔓延しそうなものなら、

「目的をもって行っている戦争の、目的までもが揺らいでくることになり、相手国との戦争の前に、内部から、戦時体制が瓦解していくことになり、戦争どころか、国家の安泰すら危ぶまれることになり、敗戦ところか、亡国まっしぐらということになってしまう」

 ということになるだろう。

 実際に、日本は、最終的に、

「無条件降伏」

 をしたことで、

「戦争が終わる」

 というだけではなく、その後の占領下における、混乱などが、問題だったりしたのだ。

 そもそもが、無差別爆撃などによって、国土のほとんどは、焦土と化していた。

 廃墟の中からの占領政策ということであったが、まずは、

「武装解除」

 が一番だった。

 そして、いくつかの政策がとられたのだが、

 特に、農地改革であったり、財閥の解体などの具体的な対策が行われ、それを総称して、それまでの大日本帝国としての、

「立憲君主」

 という体制から、

「民主主義体制」

 への変換が必要だった。

 特に問題となるのが、

「新憲法の作成」

 だったであろう。

 何といっても、憲法というのは、

「国民を取り締まるものではなく、国民を統治するための法律を作ったり、その法を守る政治家などを取り締まる」

 というものだからである。

 大日本帝国では、軍部が、戦争遂行のために、どうしても、その強権によって、国民の権利を奪うということを行っていたが、それは、民主国家ではありえないことだ。

 だから、新憲法を作ることによって、原則として、

「国民主権」

「基本的人権の尊重」

 そして、何よりも、

「恒久平和」

 ということが原則となった憲法の制定であった。

 占領された日本であったが、占領政策としては、それほど厳しいものではなかった。

 そもそも、第二次世界大戦に突入した理由はいくつかあるが、その中で一番大きな問題だったのは、

「第一次大戦において、敗戦国であったドイツに対して、無理難題を押し付ける形となった、ベルサイユ体制の崩壊」

 というものであった。

 ベルサイユ体制というものは、

「敗戦国であるドイツに対して、多額の賠償金を課し、それによって引き起こされたハイパーインフレであったり、絶対に返済できるわけもない賠償金に苦しめられる中、ほとんどの植民地も失う」

 というような、それこそ、

「集団リンチ」

 ということで、列強は、

「これで、戦争を起こすことなどできないだろう」

 という甘い考えをもっていたのだろうが、ドイツ国民の中で芽生えたのは、

「独裁政権であっても、強い政府によって、国家が導かれ、今の不幸から助けてくれる救世主を持ち望む」

 ということであった。

 それが、アドルフヒトラーであり、彼が、当時のドイツの象徴として、再軍備を始めたことで、経済復興にもつながり、ドイツ国民に、

「他の国にはない、自分たちの屈強な精神力と団結力で立ち直った」

 という気概から、ナチスを熱狂的に支持した背景があったのだ。

 そういう意味では、

「ナチスを生み出したのは、ベルサイユ体制」

 というものであり、

「他国の考えが甘かった」

 ということになるのだろう。

 だから、日本などの、敗戦国の統治においても、かなりの神経が使われたことであろう。

 何といっても、一番の懸念は、

「第三次世界大戦」

 というものを起こしてはいけないということであった。

 そのためには、

「日本の武装解除とm軍の解体」

 というのが、一番だった。

 そして、もう一つは、日本人の心のよりどころといってもいい、

「天皇制」

 という問題だった。

 実はこれが一番の問題で、

「天皇制を存続させるか?」

 あるいは、

「戦争の罪を天皇にも負わせて、一気呵成に、天皇制を廃止に導くか?」

 というのが大きな問題だった。

 これは、マッカーサーの考えもあったのだが、

「天皇制をいきなりなくすと、占領統治にも支障をきたす」

 ということもあって、

「天皇制を生かし、ただ、戦争犯罪人というのは、厳罰に処す」

 ということから、

「極東国際軍事裁判」

 いわゆる、

「東京裁判」

 というのが行われたのだ。

 この裁判において、元になったのは、

「ドイツを裁く」

 ということで行われた、

「ニュルンベルク裁判」

 に則った、

「ABC級犯罪者」

 というものの処罰だった。

 この、

「ABC」

 というのは、何も、

「罪のランク付け」

 ということではない。

「平和に対する罪」

「人道に対する罪」

「通常の戦争犯罪」

 という種類を、便宜上、

「A級戦犯」

 などという言葉で表現したのだ。

 しかし、

「人道に対する罪」

 というのは、ドイツではあったが、日本ではなかった。

 それは、やはり、人種撲滅を行ったドイツにおける

「ホロコースト」

 を裁くためのことだったのだろう、

 だとすれば、

「731はどうなるのか?」

 ということであるが、証拠がないので、そこは、裁かれることはなかったのだ。

 そんな

「東京裁判」

 においては、7人の処刑者が出たということであり、しかも、その処刑の日というのが、

「昭和23年12月23日」

 だったというのは、皮肉というか、占領軍による作為的なものだった。

 今の上皇である当時の皇太子の誕生日だったのだ。

「いずれ天皇となる皇太子が、自分の誕生日が来るたびに、戦争犯罪人が処刑された日だということを思い出し、戦争を起こさない国にという決意を新たにする」

 ということが狙いだったという。

 日本国において、

「終戦記念日」

 というのが、

「8月15日」

 ということになっているが、これが果たして正しいのだろうか?

 しかも、名目が、

「終戦記念日」

 である、本来であれば、

「敗戦日」

 という命名のはずではないだろうか?

 それに、この、

「8月15日」

 という日にちも、これはあくまでも、天皇が国民に対して、

「ポツダム宣言を受け入れ、無条件降伏を行った」

 ということでの日であって、確かに、日本人向けであれば、問題ないのかも知れないが、世界史的に言えば、

「8月15日というのは、何の拘束力も、何もない日」

 ということになる。

 諸外国に、

「無条件降伏を受け入れる」

 ということは、すでにそれ以前に報告されていたし、何よりも、

「天皇の玉音放送で戦争が終わったわけではない」

 ということだ。

 だから、本来であれば、

「戦艦ミズーリの甲板上で、停戦の調印が行われた、9月2日が、本来であれば、日本がいうところの、終戦記念日だ」

 といってもいいだろう。

 しかも、もっといえば、

「終戦記念日」

 というものを、最初に、日本国の、休祭日を決める時、

「建国記念の日」

 ということでの、候補に、何と、

「8月15日」

 というのがあったということを聞いた時、開いた口が塞がらなかった。

 何といっても、この日は日本にとっては敗戦の日であり、立ち直る日ではない。まだ、

「独立を果たした日」

 というものを、

「建国記念の日」

 ということであれば分かるのに、なぜ、わざわざ、終戦記念日とした日に当てたのか? 

 ということであった。

 しかし、これも分からなくもない。

「武装解除」

「軍国主義の解体」

 というものが始まり、

「民主化に踏み出した」

 という記念日だということであれば、

「なるほど」

 という理屈もあるというものだ。

 しかし、実際には、そんな生易しいものではなく。まだまだ、再軍備であったり、軍国主義を続けようという勢力もあり、他の主義からの介入などもあり、とにかく、

「混乱の時代を極める始まりだった」

 といってもいいだろう。

 それでも、日本という国は、6年半近くにわたり、占領軍を受け入れる形で、最終的には、委任統治の時代を抜けて、新憲法も発布され、独立を果たした。

 とは言っても、まわりの影響も大きかった。

「社会主義勢力の台頭」

 により、

 お隣の朝鮮で、南北に分かれての戦争が勃発した。

「代理戦争」

 と呼ばれるものの、最初の戦争で、そのおかげもあってか、日本は、復興を果たすことができたのだ。

「戦争特需」

 というものだったのだが、それが、日本においての、

「奇跡」

 と呼ばれた、運の良さだったのかも知れない。

 戦後、十数年で、

「もはや戦後ではない」

 と呼ばれ、それから、

「東京オリンピック」

「大阪万博」

 などというものが、日本の復興からの成長の象徴ということで言われるようになると、日本は次第に、

「経済大国」

 ということになっていったのだった。

 ただ、それも長くは続かず、昭和の終わりに、

「バブル経済」

 というものを最後に、

「バブルの崩壊」

 とともに、

「失われた30年」

 と言われた、

「暗黒の時代」

 を迎えるようになったのだ。

 経済成長はほどんどなく、政治家が、ろくな政策を取れないばかりか、民営化などという、

「国家にだけ都合のいい政策ばかり」

 ということで、国民のほとんどは、苦しむことになったのだった。

 確かに、

「時代は、繰り返す」

 などというが、

「ここまで政府の政策がひどいとどうなるか?」

 ということを、思い知らされたのだった。

 それが、

「民主主義を掲げる日本国」

 というもので、

「大日本帝国」

 と単純な比較はできないが、政治家などが、どれほど、国を憂いていたのかということを考える、

「大日本帝国の時代の方がよかった」

 と考える人が出てくるのも仕方のないことではないだろうか。

 そんな日本国というものが、歩んでいた時代。

 自分たちの親や、さらにその親が頑張ってきた時代を批判することはできないと思うが、政治家によって、潰されたものもある。

 そもそも、

「国に積み立てておいて、老後の生活の足しにする」

 ということで、ずっと納めてきた年金というものを、政府の役人が、

「消した」

 ということがあった。

 キチンとルール通りにやっていれば問題ないものを、

「ずさんな管理」

 で、国民の大切な年金を消した。

 もっといえば、

「誰がいくらもらうかということが、政府にも分からなくなった」

 というものであった。

 これは、完全な人災であり、本来の会社であれば、倒産してから、賠償問題になるものが、社会問題にはなったが、ほとんど首を切られることはなかったというのは、本来であれば、厳しいはずの公務員としては、醜態であった。

 それこそ、

「外に厳しく、内に甘い」

 と言われるゆえんだということであろう。

 日本という国が、そんなひどい状態になったのは、

「昔からのずさんな管理だった」

 ということであるのだろうが、

 日本という国は、昔から、

「隠蔽体質」

 というのがあるので、本当であれば、大げさになる前に手を打っていれば、何とかなったといえるかも知れない。

 実際に、

「大日本帝国」

 の間では、その隠蔽体質が蔓延していて、そのため、諜報部隊であったりや、特高警察などが幅を利かせ、

「下手をすれば、軍の幹部にまで、諜報による、盗聴であったり、電話の傍受などが行われている」

 という時代だった。

 そこまでしないと、

「治安維持」

 というものができない時代でもあった、

 特に、

「共産主義」

 というものが、

「スパイ」

 をたくさん送り込んできているということもあり、特に、

「国家にとっての、最高機密」

 といっていい情報は、必死に守ろうとしていた。

 しかし実際には、そのほとんどが漏れてしまっていて、国家にとっての機密事項というものが、

「完全に筒抜け」

 となっていることも多かっただろう。

 特に、

「大東亜戦争」

 の頃には、日本の暗号はほとんど、アメリカに傍受され、さらに解読されることで、まったく、作戦が機能しなくなったのだ。

 それまでに、いくら、

「連戦連勝」

 ということで破竹の勢いだったといっても、情報が丸裸にされてしまうと、

「戦争遂行自体」

 というものが、まともにできなくなってしまうということを、日本は分かっていなかったのだ。

 だから、もし、当初の計画通り、

「半年くらいで、和平を持ち掛ける」

 ということをしていたとして、うまくいっただろうか?

 元々の、

「相手の戦意を喪失させ、反戦気分んいさせたところで、和平に持ち込む」

 ということだったのだろうが、そもそもの、

「相手の戦意の喪失」

 というものは、

「真珠湾攻撃においての、だまし討ち」

 ということから、アメリカは、

「戦意を喪失しているどころか、反日感情というものが、湧き上がり、日本が和平を持ち込んでも、後ろ足で蹴られる」

 ということになるのが、オチというものであろう。

 米軍としても、

「これから、反撃が始まる」

 というのに、

「誰が和平などというものを結ぶものか」

 ということになったであろう。

 ひょっとすると、アメリカは、

「日本の和平交渉を待っていたのかも知れない」

 とも言えないか、

 和平交渉を言ってきた時点で、攻撃に入り、逆に相手の戦意をそぐことができるといってもいいだろう、

 相手にとって、

「これしかない」

 という作戦だったものが、ダメになり、今はまだ、連勝街道を突き進んでいるので分かっていないが、いずれこれが、

「地獄への一丁目だった」

 ということに気づくことになるだろう。

 アメリカは、それを待っていたのかも知れない。

 結局、すべての無線が傍受され、丸裸での戦は、

「まるで、外濠と、内濠を埋められて、裸城で戦わなければいけなくなった、豊臣方が籠る、大阪城における、大阪の陣と同じではないか?」

 ということになるのだ。

 つまり、

「戦というのは、丸裸になった時点で、終わりなのだ」

 ということであった。

 それを考えると、大日本帝国が、泥沼に入り込み、

「いずれは降伏してくるだろう」

 と考えたアメリカ側だったが、どんなに不利になっても、降伏しない。

 それどころか、

「虜囚の辱めを受けず」

 という形の、

「戦陣訓」

 というものによって、

「戦闘員、さらには、非戦闘員すべてに至るまで、決死の作戦として、最後の手段である、玉砕という手段に訴える」

 のであった。

「下手に、情けを掛けて、追い詰められた日本の民間人に近づこうものなら、相手は、手りゅう弾を爆発させて、こっちまで命が危ない」

 ということになる。

 そう、当時の日本人は、

「死を恐れずに戦う」

 ということであった。

 それは、軍人であれば当たり前のこと、

 軍人というものが、死を恐れないというのは、

「敵前逃亡銃殺刑」

 ということからも分かるというもので、

「戦争においては、逃げることは許されない」

 というのは、何も日本だけに限ったことではない。

 しかも、その精神を、民間人一人一人に焼き付けられているということは、他の民族から考えれば、想像もできないことだろう。

「日本人は、武士道を下に戦っている」

 と言われるゆえんであった。

 そのうちに、アメリカも、日本が怖くなってくる。

「手負いの獅子」

 は、必死に食らいついてくるというようなもので、

「日本とまともに戦ってはいけない」

 ということになるであろう。

 日本の兵器も最新鋭であり、ゼロ戦などというのは、

「日本において、ジェット気流と、ゼロ戦に出くわせば、逃げろ」

 といわれたほどだ。

 そもそも、日本が、

「大東亜戦争の分岐点」

 といわれた、

「ミッドウェイ海戦」

 において、致命的だったのは、

 確かに、空母4隻を失ったというのは、痛かったが、それよりも、

「熟練のパイロットを数多く失った」

 ということで、それ以降の、航空作戦で、ゼロ戦を乗りこなせる人が、ほとんどいないということになったのだ。

「そんな日本とまともに戦っては、被害が大きい」

 ということと、

「早く戦争を終わらせないと、いけない」

 ということから、アメリカも非常手段に訴えることになるのだ。

 それが、

「本土空襲」

 というものであり、さらに、

「原爆投下」

 という暴挙だったのだ。

 そもそも原爆開発は、

「ナチスが原爆開発を行っているので、アメリカも開発しないといけない」

 という、

「アインシュタインと、シラードからの手紙」

 によって、マンハッタン計画ということで始まったものだったのだが、

「ナチスの降伏」

 と、

「実際には、原爆開発というものを行っていなかった」

 ということで、アメリカも、そこで

「原爆開発をやめればよかった」

 ということなのだろうが、そうもいかなかった。

 というのは、

「戦後における、共産主義国との、対立が、分かり切っていた」

 ということだったからだ。

 特に、ベルリンやポーランド問題。さらに、日本や朝鮮問題などである。

 だから、アメリカは、

「ソ連に対しての絶対的な優位性」

 というものを持つ必要があった。

 だから、原爆開発から、原爆実験までを行っていた。

 その間に平行して、

「日本に落とす」

 という前提で、

「投下候補地」

 を練っていた。

「戦禍に見舞われていないところ」

 あるいは、

「破壊力を図れる大都市」

 などという条件で候補が絞られていく。

 その中で一番問題に上がったのが、

「京都」

 だった。

 政治家や軍は、

「京都に落とすと、その後の占領政策をやりにくくなる」

 ということで反対をしていたが、科学者からすれば、

「破壊力を正確に把握することができる最高の場所」

 ということで、議論となったが、最初の目的地として一番言われたのが、

「ヒロシマ」

 だったのだ。

 広島というところは、

「日本で最初に大本営が置かれた場所だ」

 ということがあったからだ。

 もちろん、軍港の呉が近いということ、広島という土地が戦禍に比較的見舞われていないということも理由だが、大本営の存在が一番大きかったのだ。

 大本営というのは、

「陸海軍の有事における作戦室のようなものであり、昔の本営地ということである」

 もっといえば、

「大本営」

 というのは、軍国主義の象徴で、その最初にあった大本営土地を破壊するということは、政治的に大きな意味を持っているということであった。

 それが、、大日本帝国における、

「屈辱」

 というものでもあった。

 日本への原爆投下によって、戦争が早く終わったというのは間違いないことであろう。

 しかし、本当に、とどめとなったのかどうかは、怪しいところである。

 というのも、日本は、真面目に、

「アメリカの本土上陸を、国民総動員して迎え撃つ」

 という、

「本土決戦」

 というものを考えていた。

 特に、陸軍はその意見が強かった。

 当時の日本において、一番強い力を持っていたのは、

「陸軍」

 であり、その発言力も大きかったといってもいいだろう。

 それが、

「ポツダム宣言受諾」

 ということに動いたのは、もちろん、御膳会議での、天皇の、

「ご英断」

 というものがあったのもその一つだが、

「もうだめだ」

 と考えることが、長崎に2発目の原爆が落とされた時に、あったのだった。

 というのは、

「ソ連の参戦」

 というものであった。

 確かに、ソ連という国は、アメリカ、イギリスなどの、連合国に与していたが、それ以前に、日本とは、

「日ソ不可侵条約」

 というものを結んでいたのだ。

 もっとも、ソ連は、同じ条約を、

「ナチスドイツ」

 とも結んでいて、実際に、

「ヒトラーによって、一方的に破棄される」

 ということで、自国を危うくしたという経験があったので、その報復というわけではないが、

「そんな条約、紙に書いた餅のようだ」

 といってもいいだろう。

 それを考えると、ソ連の満州侵攻というのも、しょうがないといえばしょうがない。

 ただ、日本は、実は水面下で、

「戦争が危なくなってきた時、外交として、不可侵条約を結んでいるソ連の仲介によって、和平条約を結ぼうと考えていた」

 ということであった。

 すでに、戦局は、日本に圧倒的に不利になっているので。どうすることもできないという状態では、誰が考えても、

「仲介をソ連に頼んで、和平を結ぶ」

 ということしか考えられなかったといってもいい。

 政府や軍とすれば、

「本土決戦」

 というのは、その和平交渉のための、一種の時間稼ぎ。

 つまりは、

「国民を盾にして、国防を考える」

 というとんでもないことになっているといってもいいだろう。

 本当に、それしか、日本の取るべき道はなかったということで、それ以外には、

「一億総玉砕」

 ということで、

「日本民族の滅亡」

 ということに本当になっていたかも知れない。

 何しろ、

「捕虜になるくらいなら」

 ということで、

「国民に、青酸カリが配られた」

 という話まであるくらいだ。

 そうなると、

「天皇だけが生き残る」

 ということになり、日本という国は、この世から姿を消していたに違いない。

 そうやって終戦を迎え、大日本帝国は滅亡していくのだった。


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