影のない夏(下)
申し訳程度の垣根に囲まれた民家の庭先に忍び込み、開けっぱなしだった南向きの和室の縁側に座って、二人で団子を頬張りました。
どうして少年がその家を選んだのかは分かりません。けれどその家にいると、不思議と、遠慮することなく寛いでもいいような気分になりました。
どうやら留守のようで、誰かに見咎められることはありませんでした。防犯意識など無いも同然の呑気な時代でしたから、窓を開け放したままでも平気だったのかもしれません。
和室に置き去りにされたガラスの湯飲みに麦茶が三分の一だけ残されて、たっぷりの結露を浮かべていました。放り出された団扇と、薄く煙を上げる蚊取り線香。家には子どももいるのでしょう。ゴム紐の付いた麦わら帽子と、夏のドリルと日記帳とクレヨンが、和室の隅に放り出されていました。
家人はもしかしたら、随分と慌てて外出したのかもしれません。日に褪せた畳の上では、古めかしい扇風機が、ぶううん、とモーター音を上げながら回り続けていたのですから。風は縁側の隅から南東の空へ抜け、軒下に吊るされた陶製の風鈴を撫でるので、時折、涼やかな鈴の音がリインと歌います。
足をぶらぶらさせながら、口の周りにあんこをべったりつけて食べた団子の、なんと美味かったことでしょう。
裸になった串を庭先にぽいと投げ捨てて、二人で交互に齧った梨は、当たり前ですが、全く甘く感じられませんでした。食べる順番を間違えたと、少年と二人で苦笑いを浮かべたものです。
そうこうしているうちに、むくむくと膨れ上がった暗い灰色の雲が、夕立を連れてきました。
雷の一つも鳴らぬ、静かな雨でした。細かな雨の幕に閉ざされ、辺りは一面、薄い靄がかかったようになります。
地面や沓脱石の色を濃く変色させ、草木を揺らし濡らし、庭に置かれたビニールプールに溜まった水には次々と波紋が描かれました。
蝉も鳴きやんだ夏の午後の中、音も微かに穏やかに降る柔らかな雨脚が快く、私は口をあんぐりと開けて、雨粒の伝う物干し竿をぼうっと眺めていました。
どれだけそうしていたでしょうか。
私の隣で、少年は腰掛けたまま体を仰け反らせ、勢いをつけてひょいと立ち上がりました。
綺麗に芯だけ残した梨を放って、靴も履かない裸の足で、雨のそぼ降る庭の真ん中へと歩いていきます。
私は彼が濡れてしまうことを心配しましたが、彼のシャツもズボンも、雨でその色を変えることはありませんでした。
立ち尽くす少年が、その時何を考えていたのか、私には分かりません。ただただ彼は、私に背を向け、微動もせずに雨空を仰ぎ続けていました。
十分と経たずに雨は止みました。すうと舞い込んだ夕の風が、軒から零れる水滴をきらりと攫っていきます。
ようやく振り返った少年は、橙色に染まり始めた空を背負って、優しい瞳で微笑みながら私に手を差し伸べました。
私は少年の手を取ります。立ち上がり、手を引かれるままに歩き出しました。ぎゅっと握った彼の手は、小さく震えていました。
夕焼けに照らされた田舎道は、ぐねぐねと這う金色の蛇のようでした。
雨に濡れた稲や野菜が、斜陽を浴びて宝石のような光を弾き返していました。
空は赤く、空を映す田んぼの水も赤く、山や、木々や、家々や電信柱は、黒く長く影を伸ばします。
黄昏の日の中でもはっきりと見分けがつく少年の顔は、いつしか憂いを帯びていました。
すっかり寡黙になってしまった彼に置いていかれまいと、私は小走りについていきます。私より背が高い彼の後ろを歩いていても、正面の夕日がいやに眩しく感じられました。
やがて私たちは、山から下る川に架かる橋の上にやって来ました。
欄干から身を乗り出して見下ろした川は澄んでいましたが、流れは早く、うねりは岩に砕けています。上流から流されてきた橙色のビーチサンダルが、渦に呑まれて水の中へと消えていきました。
どこか不安な心持ちで急流を覗き込む私の後ろから、ぽつりと少年の声がします。
「ごめん」
振り向いた私は、少年の顔をまじまじと見つめました。いつの間にか私の頭から取り返していたらしい帽子を、目深に被り直す彼の手が邪魔で、軽く俯く顔をじっくりと見ることはできません。
私には、少年の謝罪の意味が分かりませんでした。だから何も言わず、ただ目をぱちぱちとさせて、彼の言葉の続きを待ちます。
「ごめんな。帰してやりたかったんだけど、やっぱり無理だった」
ああ、と、私は思いました。
きっと少年は、迷子になった私を親元に帰してやろうと、あっちこっちと連れ回していたのだろうと。そして私が不安にならないよう、迷子であることを忘れてしまうくらい、遊ぶことに夢中にさせてくれたのだろうと。
けれどとうとう、私の帰る場所を見つけることができなかったことを、彼は詫びているのだろうと、私は解釈しました。
楽しかったよ、と、私は彼に言います。たった一人で途方に暮れていた私に声を掛け、あんなにも素敵な時間を過ごさせてくれたのですから。
ようやく帽子の唾から手を離し、面を上げた少年は微笑んでいました。
優しく、寂しげな笑みでした。
「いい子だ」
そのとき、どうしてか私には、少年が一瞬にして大層老けてしまったように見えたのです。
皺が寄った目尻と、ゆるりと上がる口元に、どこか見覚えがある気がしました。
父の面差しに似ていると思いました。
他の誰かにも似ていると思いました。
急流がごうごうと唸りを上げています。雨の間は静まっていた蝉たちも、競うようにあちらこちらで鳴き始めていました。
辺り一帯を満たす音の群れに紛れ、からん、と聞こえた微かな響きに、私ははっと視線を落としました。
いつしか、影のない少年の両足は、二枚歯の下駄を履いていました。
私の足には、元々履いていた、片方だけのビーチサンダルが引っかけられていました。
頭を持ち上げ、私はもう一度、少年の顔を見つめます。
元どおりの幼い面立ちに戻った少年は、手を伸ばして私の頭の上に置き、会釈でもさせるように私を俯かせたあと、そっと後ろ頭を撫でてくれました。
「きっとまた、いつかの夏に」
名残惜しげに、彼の指が私の頭を離れていく感触。
からんころん、と下駄が鳴りました。
そうして私が顔を上げた時には、橋の上にはもう、私一人がぽつんと立っているだけだったのです。
赤く焼ける夕凪の空の中に、川のせせらぎと蝉の声とが絶え間なく響き続けます。
夜が迫る町の至る所で、送り火の煙がゆらゆらと上がっていました。
今思えば、あの少年は幽霊だったのでしょう。
あの朝なりたてだったとはいえ、同じ幽霊である私が思うのですから、きっと間違いないのです。
Fin.
使用お題:化・紫陽花・扇風機・金魚・夕立・麦茶・ビニールプール・すいかアイス・ビーチサンダル・夕凪・朝顔・雲・風鈴・からんころん・日焼け・日記帳・渦・蝉
影のない夏 秋待諷月 @akimachi_f
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