影のない夏

秋待諷月

影のない夏(上)

 今思えば、あの少年は幽霊だったのでしょう。




「どうしたんだ、おまえ」

 白く眩しい夏の日差しをくたびれた学生帽の背後に隠しながら、少年は私を見下ろして怪訝そうに尋ねたのです。

 大きな丸い目がきょろりと目立つ、よく日に焼けた顔は、逆光のせいでさらに黒々として見えました。洗いざらしたランニングシャツから伸びた腕も、木綿の半ズボンから飛び出す細い足も、健康そうにこんがりと焼けていました。

 歳は十かそこらでしょうか。鼻たれ小僧だった私より、二つか三つ上のように見えました。


 それはもう、随分と昔のことだったように思います。


 鮮やかな濃い水色で塗り潰された空の向こうに、大きな入道雲がむくむくと膨れる、八月の朝も遅くのことでした。

 数時間にほんの一、二本の電車が走るばかりの、雑草が生え放題になった単線路の際。茶色く花弁が干乾びた紫陽花の群生の葉影に身を隠して、私は剥き出しの膝小僧を抱えていました。

 明け方、さあ、と音を立てて降った久方ぶりの雨のお陰で、過日の茹だるような熱気が和らいでいたのでしょう。日はあんなにも厳しかったというのに、特に暑いとは感じませんでした。

 その代わりに、今でも私が印象深く覚えているのは、あの時の耐え難い心細さです。

 湿った地面と雨に濡れた紫陽花の葉の隙間に、小さな体を押し込んでしゃがみこんだ私は、きっと、今にも泣き出しそうな情けない顔をしていたのだと思います。

 見知らぬ人に声をかけられたことに驚き、何も話せぬ私と、気長に返事を待ってくれているらしい少年との間に流れる時間を、ジワジワと鳴く蝉の声が取り繕ってくれているようでした。

「どっから来たんだ。いつからそこにいる」

 少年は、これと言って困った様子ではありませんでした。心配する風でも、面白がっている風でもありませんでした。よく言えばさりげない、悪く言えばぶっきらぼう。そんな訊き方です。

 私がどう答えたのかは、残念ながら覚えていません。何も答えなかったのかもしれません。

 そもそも私は、あの時どこからやって来て、いつから、どうして、あそこに蹲っていたのだか、今となってはもう全く分からないのです。

 とにかく少年は、「ふうん」と声に出しながら何事か思案していたかと思うと、急に、私の腕を掴んで引っ張り立たせました。

「そんなところにいたって仕方ないだろ。おれと一緒に行こう」

 真白な歯を惜し気もなく見せて、にかり、と笑った少年の顔は、青空を背景に咲いた向日葵のようでした。




 二人並んで手を繋ぎ、赤錆が浮いた線路に沿って、舗装もされていない道を歩いていきました。

 大きな町から電車で三時間もかかる田舎のことで、ぐるりと見渡して見えるのはただ、青々とした夏の山並みと、若苗が風にそよぐ水田と、広い空と白い雲ばかりです。

 田んぼや畑の緑色の中には、点々と、民家の瓦屋根やトタン屋根が覗きます。頬被りをした女性や、首に手ぬぐいを引っかけた男性が、農具を手に木陰で立ち話をしていました。麦わら帽子を被った男の子が数人、きゃっきゃと歓声を上げながら畦道を駆けていくのも見えました。

 ああ、そうです。夏休みまっただ中のことだったのです。私は両親とともに、祖父の墓参りを兼ねて、父の実家へと帰郷していたのでした。

 夏の空気と見慣れない風景に浮かれた私は、自分が迷子になってしまったらしいことなどどうでもよくなって、新しくできた歳上の友だちと道を行くことに、ただただ、小気味いい興奮を覚えていました。

 ただし少年の出で立ちは、子どもの私の目から見ても奇妙に映りました。私が通う小学校には学生帽の規定などありませんでしたし、彼のシャツもズボンも、当時の服屋ではちょっと見かけないような色や意匠をしており、極めつけには二枚歯の下駄を履いていたのですから。

 そうそう、あの日の私はどこでどうしたものだか、履物を片方しか履いていなかったのです。そんな私を見かねて、少年は自分が履いていた下駄を両方とも貸してくれました。彼はと言えば、照りつける道を裸足のまま平気で歩いていたのですから豪気なものです。

 話が逸れました。要するに、彼の服装は恐ろしく古めかしかったのです。

 ものを知らない私は、そのことについて深く思いを巡らせることはありませんでした。どちらかと言えば、その何時代も前の服装がいかにも似合う少年に、逞しさや頼もしさを感じていたように思います。

「おれはこの辺のことなら、そんじょそこらのやつらより詳しいんだ。知らない場所なんてないんだぞ」

 溢れんばかりの自信がどこから来たものだか、私には皆目見当が付きませんでしたが、実際、少年は本当に色々なことをよく知っていました。

 例えば、あすこのお地蔵さんの脇の朝顔は、毎年紅紫色の花がつくんだ、だとか。例えば、この時間帯ならば、一番カブトが集まるのはあのクヌギなんだぞ、だとか。

 そして彼の言うとおり、お地蔵様の傍らにはそれは見事な赤紫の朝顔が咲いていましたし、雑木林の奥のクヌギの木では、立派な角の甲虫や鍬形虫が樹液の獲り合いをしていたのです。

 私はすっかり少年に心酔してしまいました。彼が行くところならば、どこへでもついていきたい気分になるほどに。




 夏の日はだんだんと過ぎていきます。空はいっそう青さを増し、山や田畑の緑はいっそう鮮やかです。

 私は少年に連れられるまま、夢中になってあちらこちらへ足を伸ばしました。

 カンカンカン、と唄いながらのんびりとやって来た一両編成の電車を、二人で無闇と囃し立てながら追いかけました。どこまで走っても、少年が息を切らすことはありませんでした。

 煙草屋の店先に繋がれた大きな犬には、なぜだか執拗に吠えられました。怯えて少年の後ろへ隠れる私に、彼は「噛まれやしないよ」と笑いかけて、犬の鼻先を堂々と横切って行きました。

 民家の玄関脇に置かれた水甕の中に、揃って指を突っ込んだりもしました。藻の張った水の中には赤と白の金魚が揺らめいていて、差し入れられた少年の掌の上を、怯える様子もなく心地よさそうに泳いでいました。

 なんという充実した時間だったでしょう。暑さも疲れも忘れて、私は少年と遊び回りました。




 日もすっかり高くなった頃だったでしょうか。通りかかった駄菓子屋の前で、私たちは、朝に遠目に見た男の子たちと行き合いました。

 彼らは全身にぐっしょり汗をかいて、足元には蝉や飛蝗や蟷螂がいっぱい詰まった虫籠を置いて、こちらに気がついた様子もなく、大層幸せそうにアイスキャンデーを齧っていました。切り分けた西瓜やメロンの形をしたものです。赤や緑の汁が玉になって滴って、日の差す地面に点々と染みを作っていました。

 私はなんだか、それが無性に羨ましくなってしまったのです。男の子たちの手元を指差しながら、傍らの少年のシャツをくいくいと引っ張りました。

 少年は私と出会って初めて、弱った顔になりました。

「ううん。あれは食わせてやれないなあ」

 はっきりと却下されたにも関わらず、どうしてもアイスが食べたくなってしまった私は聞く耳を持ちませんでした。それはもう、随分と駄々をこねたのではないでしょうか。

 彼は坊主頭をがりがりと掻きました。落っこちそうになった学生帽を掌で受け止めると、それをそのまま、ぽんと私の頭に被せました。

「分かった。ちょっと待ってろよ」

 帽子に視界を奪われた私の耳に、優しい声がそっと触れました。

 目をぱちくりとさせて、帽子を支えながら面を上げてみれば、少年は綺麗さっぱり、その場からいなくなっていました。

 仰天した私が駄菓子屋を覗き込んでみても、老眼鏡をかけた割烹着姿の女性がうたた寝をしているだけで、少年の姿はどこにもありません。きょろきょろと辺りを見回しても、周囲には民家が数軒と、小さなお寺があるくらいです。

 そうこうするうち、彼はふいと戻って来ました。

 姿を消してから一分と経たず背後に現れた少年は、右手にたっぷりとあんこが乗った団子を二串握り、左手には瑞々しい梨を一つ載せていました。

「これで勘弁してくれるか」

 小さな私の両掌に置かれた、大きな梨のずしりとした重さが、私は今も忘れられません。

 その瞬間に、ふと鼻先を掠めていった、仄かな線香の香りも。

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