そうして私は化け物になった

谷地雪@悪役令嬢アンソロ発売中

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 それは私が高校生の時だった。

 高校に入ってすぐ、私は地元でアルバイトを始めた。なんてことはない、普通のスーパーだった。

 時給は700円台。当時の最低賃金が低かったこともあるが、高校生は最低賃金以下でも雇えたし、地元が田舎だったということもある。

 田舎の夜は暗い。スーパーが閉店するのは21時。この時間に営業している店はまずないし、街灯の数も少ない。閉店作業まで終えると店の電気も全て落ちるので、周囲は暗闇に染まった。

 私の家は駅から遠い団地だった。夜道は足元も覚束ないほど暗い。バイトが終わると私は携帯(当時はガラケーが主流だった)から連絡を入れて、親の迎えを待った。

 なるべく明るい場所にいようと、店に近い街灯の下に立つ。手持無沙汰な私は、携帯をカコカコといじっていた。

 

 ふと、視界の端で何かが揺らめいた気がした。


 はっきりとは見ないように、視線だけを僅かに上げる。

 柱の陰に、黒いものが蠢いた気がした。

 目を凝らすが、距離があるせいか、暗闇のせいか、はっきりとはわからない。

 人影のような気もしたが、それは息を潜めるように微動だにしなかった。

 悪いものは、目を合わせるとついてくるという。

 私は意識だけはそちらに向けながらも、決して顔を上げないようにして、時が過ぎるのを待った。

 

 やがて道の向こうから車のライトが見え、だんだんと近づき、迎えの車が到着した。

 ライトを頼りに、私は先ほどの柱の方に視線をやる。

 そこには、何もなかった。

 やはり気のせいだったのだ、と私はほっとした。

 暗闇への恐怖から、ないものがあるように見えたのかもしれない。

 私は軽い足取りで車に乗り込んだ。


 ところが、それは一度では終わらなかった。

 私が閉店までシフトに入っている時。かなり高い確率で、その黒い影は見えた。

 しかし近寄ってくるわけでも、動くわけでもない。

 昼間は何もない。早めにシフトを上がる時にその場所を確認したが、何かが置かれているということもなかった。

 閉店の時間帯になると、どこかの明かりの具合で、ちょうどあそこに影ができるのかもしれない、と思った。


 


 ある夏の夜。私はいつものように閉店作業を終えて、親に迎えのメールを送った。

 すると、ちょっとしたトラブルがあり、迎えが少し遅くなるとの返信があった。

 時間を潰すような場所はどこにもない。暑さによる不快感から私は眉を寄せた。

 勝手に歩いて帰ってしまおうか、と思いつつ、怒られるのが嫌で結局その場に待機する。

 自宅までの道のりには、人目がほとんどない場所もある。

 そもそも親が私をわざわざ迎えにくるのは、姉が不審者に追い回されたことがあるからだった。

 田舎らしく、スーパーにはほとんどの客が車で来るため、店は大通りに面している。

 数メートル先には交番もあった(皮肉なことに、その交番のすぐ裏は有名な痴漢スポットだったが)。

 一人で夜道を歩くよりは、店の前にいた方がまだ安全だろうと思われた。


 その日も影はそこにあった。いつもの柱の陰に、微動だにせずに、それはそこにいた。

 気にならないわけではなかった。けれど、その日もどうせ動かないだろうと思っていた。

 その場所で事故が起こったという話も聞かないし、私はオカルトの類に懐疑的だった。霊的なものはあると信じているが、自分が遭遇するならそうではない、という確信めいた思いがあった。


 果たして、その黒い影も、決してオカルトなどではなかった。


 ぬるりと蠢いた影に、私は肩を震わせた。

 途端、心臓が早鐘を打つ。

 寒くもないのに手が震えた。

 影は緩やかにこちらに向かってくる。

 だんだんと形を成す影から目が離せなかった。

 次第に人の姿を象ったそれは、気さくに手を上げた。


「久しぶり!」


 それは三十代ほどの男性だった。おじさんと呼ぶには憚られるが、若くもなかった。

 高校生の私にとって、成人男性と関わる機会はそう多くない。では誰なのか。

 記憶の中の誰とも結びつかなかった。けれど、私は人の顔と名前を覚えるのが異常に苦手という特性があり、すぐに「知らない」と言い出すことができなかった。それで相手が気分を害することを知っていた。田舎では特に人間関係に厳しい。

 だから私は、その場を切り抜けようとしてしまった。


「お、お久しぶりですー……」


 決して話を合わせてはいけない場面があるのだということを、まだ私は知らなかった。

 適当な相槌と愛想笑いで、ほとんどの会話はなんとかなるのだと思っていた。

 へらりと笑った私に、男は会話が可能と見たのだろう。

 向こうも笑顔で、更に近づいてきた。


「何してんの? バイト終わり?」

「そう、です。親の迎え待ってて」


 暗にすぐに人が来る、ということを伝えたが、相手は引き下がらなかった。


「そうなんだ。待ってる間暇だよね。あ、食べる? バイト終わりお腹空くでしょ」


 男はがさりとコンビニの袋を掲げた。食べ物が入っているらしかったが、見知らぬ相手から貰ったものを口にする気にはなれなかった。


「いえ、お腹空いてないので」

「そう? 遠慮しなくていいのに」


 無理に食べさせる気はないらしい。

 目的が見えなくて、じり、と足が後退する。


「そうだ、連絡先変えた? メール戻ってきちゃってさ。新しい連絡先教えて欲しいんだけど」

「え……あー、携帯、今日持ってなくて」

「いやいや、さっきまで持ってたじゃん」


 男は笑ったが、私は血の気が引いた。相手がこちらに向かってきてから、私はすぐに携帯をポケットにしまっていた。つまり、その前から私を見ていたということだ。


「や……えと、充電切れちゃって」

「マジで? ちょっと見せてよ。切れてすぐなら復活することあるし」

「それは」

「大丈夫だって、すぐ返すから」


 ポケットを押さえるようにした私の手を、男が掴んだ。

 じとりと湿った肌に、全身が総毛立った。

 なまぬるい体温。これは人間だ。生きている人間の温度だ。ああ、氷のような死体の手だったら、どれほど良かったことか。

 幽霊でもゾンビでも宇宙人でも、この男よりはましなのではないかと思った。


 硬直した私の体から、男の手がぱっと離れた。

 不思議に思うと、遠くに車のライトがちらついていた。


「迎え来たみたいだね。じゃ、また今度」


 舌打ちするでも慌てるでもなく、あくまで男は最後まで知り合いのていで、手を振って去っていった。

 ライトはどんどん近づいて、見慣れた車が目の前に止まった。

 乗り込んだ私に、運転席から親が声をかけた。


「遅くなった」

「平気」


 短い言葉だけ交わして、私は黙った。別に普段から車内で会話するでもないから、不自然に思われることはなかった。

 ただどくどくとうるさい心臓だけが不快で、冷房がきいているのに、私は窓を開けて外の音を聞いていた。




 その後、私はバイトを辞めた。

 勉強が忙しくなったからとか、適当に理由をつけた。正直に話して理解が得られるような上司ではなかった。

 さんざん文句を言われたが、元々ひどい職場だったので未練もなかった。


 それからの私は、夜道を歩く度、あの影を探すようになった。

 見つけたいわけではない。部屋で虫を見失った時に似ている。その存在に気づかずにいる方が怖いからである。

 五感を研ぎ澄ませ、全身の神経を尖らせ、目を皿にして周囲をねめつける。

 電柱の陰に、建物と建物の間に、階段の裏に、あの影がないか警戒する。

 毎日。毎日。毎日。

 毎日。毎日。毎日。毎日。毎日。毎日。毎日。毎日。毎日。毎日。毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日。


 蒸し暑い夏の夜。

 街灯の少ない暗い夜道で。

 目を血走らせ、人を刺せそうな何かを握りしめた女に遭遇したとしたら、それは。


 私かもしれない。

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