もしも心が透明なら

譜久村 火山

ラタタタ…

 私は誰に向かってか分からないまま、お辞儀をする。その時、彼の姿が微かに、だが、確かな輝きを伴って視界の端に写った。眩しい光に照らされて、中央に置かれたピアノ。私はそこに、腰掛ける。もう何度目かも分からないステージ。鍵盤の上にそっと指を這わせる感触が心地良い。でも、心はどうだろうか。


 深呼吸をすると、演奏を始める。この瞬間はいつも、知らない国に迷い込んだかのようなワクワク感と不安に包まれる。でも最近はそんなことすらも楽しむ余裕が出てきた。小学生の頃からの親友、唯ちゃんが考えてくれたセットリスト。一曲目は『暗い雲』だった。深い悲しみを掻き立てるようなリスト晩年の作品。これはリストにとってもかなり実験的な曲だったようだ。唯ちゃんはいつもこの曲を「真奈ちゃんらしい」と言ってくれる。今日もその唯ちゃんは客席で私の演奏を聴いてくれている。彼の隣で。


 鋭いタッチで最後の音を奏でると、立ち上がる。余韻が響き渡った後、客席に向かってお辞儀をすると、雷雨のような拍手がなり響いた。その後も、唯ちゃんが考えてくれた構成にそって曲を演奏していく。何度も練習した曲たちは指が勝手に動いて、意識せずとも完璧に演奏できる。そんな私の能力を“天才“と評する人たちもいた。そうやって言われることは嫌いではないけれど、そう言われた瞬間、その人たちとの距離を感じてしまう。天才という言葉の裏には、俺たちとお前は違う世界の人間だからという意味が含まれている気がする。そのせいで疎外感を覚えてしまうのだ。最初に私のことを天才と言ったのは、確か唯ちゃんだった。


 数曲を終えて、コンサートは休憩に入る。何度目か分からないお辞儀をすると、私はそさくさと舞台袖へ降り、楽屋に戻った。楽屋で一人になると、私は鏡の前の椅子に腰掛けて目を瞑る。ルーティンとしている、瞑想をするためだ。ゆっくりと呼吸を行い、息の出入りする感覚を意識することで徐々に雑念を消すことができる。良い演奏のためには、雑念を排除することが必至だった。ピアノを弾くのに、感情は必要ない。ただ正確に体を動かすだけである。


 だが今日だけは上手くいかない。どうして。ステージから降りる時、唯ちゃんと彼が腕を組んでいるところを見てしまったからだろうか。駄目だ。思考を止めないと。でもそう思えば思うほど、頭の中に自分の声がうるさく響く。


 私は諦めて目を開けた。同時に溜息が出る。後半の演奏、上手くできるだろうか。そればかりが不安である。まだ頭の中は騒々しい。どうしたものかと顔を上げたその時、鏡にその文字を見つけた。さっきはなかったはず。いつ現れたのか分からないその文字は、ルージュで書かれていた。


 I love you.


 たった3語の英単語から構成されたその文章。私はなんだかおかしくなって、笑い声をもらした。私は楽屋に誰もいないことを確認して、スマホで音楽をかける。流したのは普段演奏するようなクラシックではなく、ロックだ。首でリズムを刻んでいると、自然と体が動く。ダンスは得意な方だ。私は気の赴くままに、ステップを踏み、手を広げる。すると気づけば片方の手を胸に当て、もう一方を首に這わせるようにしながら体を捻っていた。その姿が鏡に映った時、まるで自分で自分の首を絞めているようで笑ってしまう。


 気づけば私はまた、ステージの上に戻ってきていた。お辞儀をして椅子に座ると、指を動かす。曲は『ラ・カンパネラ』。今日のセットリストで一番盛り上がる所である。私はいつも通り、精密に楽譜を辿る。唯ちゃんにすごいと褒められたあの日のように。


 だが突然、目の前に白いもやが現れる。胸が締め付けられて苦しい。指に力が入りづらくなっていく。


 駄目だ。ちゃんと弾かなきゃ。そう思って、手首に力を込める。無理に指を動かそうとしたせいで、顔が歪んでしまった。彼に見られてしまったかも。いや、関係ない。私はピアニストで、曲を演奏することが仕事。そんな私を、みんなも彼も唯ちゃんも認めてくれているのだ。そう自分に言い聞かせる。しかしそうやって何かを抑えつけるたび、透明な水に墨汁を垂らすように、心が黒く染まっていく。


 私は顔を上げて、客席を見た。助けて唯ちゃん。私、いつもみたいに弾けない。どうすればいい?力が入らないの。このままいけば、曲を終えられない。私は白い靄の中、必死に唯ちゃんの姿を探した。そして見つけた。唯ちゃんはいつも通り、彼の隣にいた。そして私の演奏を聴いてはいなかった。彼の肩に身を委ねて、彼の手に重ねた自分の手を見ている。あぁ、そうか……。


 もういいや。私は考えることをやめようと思います。


 私は指を動かした。しかし、客席の中で動揺が広がる。私の指は徐々に『ラ・カンパネラ』から外れていった。唯ちゃんも少しして異変に気がついたようである。彼の肩から身を起こし、私へと視線を向けているのが分かる。最初は困惑しているような目をしていたが、それは次第に憎悪へと変わったようだった。今やきっと乙女に相応しくない鬼の形相で私を睨んでいることだろう。知ったこっちゃない。


 私は演奏する。気の赴くままに。目の前の靄が晴れ渡り、心が清く澄んでいく。私は私の気持ちをそのまま音楽にした。少し音楽に精通した人ならば、この音色が恋心を表現していることに気づくだろう。それは恥ずかしい気持ちもあったけれど、笑われたって構わないとようやく思えることができた。


 私は演奏を続けた。ただ彼を想って。


 やがて私の指は安らかに止まった。今感じている思いは、全てピアノで表現し切ったはずである。この後、人々がどうリアクションするのか怖くもあった。でも、それでいい。私は今、人生で最も満たされている。私がピアノの横に立ち、余韻もなくなると、観客から今日一番の拍手が届いた。中には口笛を吹いたり、「ブラボー」と叫んだりする人もいる。唯一、唯ちゃんだけは私を睨み続けていた。でもその横で、彼が立ち上がって私に拍手をしてくれている。それだけで私は満足である。


 Ah……Looking through


 


 


 


 


 

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もしも心が透明なら 譜久村 火山 @kazan-hukumura

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