黒い獣
月代零
その夢の理由
ある日の昼下がり、わたしは家に一人でいた。その時何をしていたのかはよく覚えていない。だが、気が付くと、辺りに「ぐるるるる……」という、低い獣の唸り声のようなものが響いていた。
窓の方を見ると、漆黒の毛皮に覆われ、血のような赤黒い目と、鋭い牙の並んだ口を持った大きな四本足の獣が、窓に取り付いていた。
目が合った。瞬間、獣は口を開けて、咆哮を上げる。空気が震え、窓越しでも生臭い息が伝わってくるようだった。
次いで、獣は丸太のような前足を振り上げ、窓を破ろうとする。その度に、家全体が大きく揺れた。
ガラスにひびが入る。わたしは逃げることも思いつかず、その光景をどうすることもできずに見つめていた。
何度目か獣の前足が振り上げられ、ついに窓が破られた。獣は獲物に襲いかからんと、目を爛々と光らせ、一際大きく吠えた。牙の並んだ口が、わたしを噛み砕こうと迫ってくる。わたしは茫然として、その光景を他人事のように眺めていた――。
そこで目が覚めた。心臓がどくどくと脈打っている。意識には、先程までの恐怖がまざまざと残っていたが、あの光景は夢だったのだ。わたしは化け物に食われたりせず、生きている。それを認識して、ほっと胸を撫で下ろした。
しかし、あの獣の唸り声がまだ聞こえてくる。わたしははっと身をすくめ、音のする方向を探った。
それは、隣で寝ている夫のいびきだった。なんだと、わたしは拍子抜けすると同時に、ほっと息を吐く。
あの獣が出てくる夢は、実家で暮らしている時に度々見ていたものだった。目が覚めると、いつも父のいびきが聞こえてきたので、原因がそれだと気付くのに、そう時間はかからなかった。
実家は古くて狭い、襖で仕切られている二間だけの平屋の建物だった。個人の部屋はなく、一部屋を両親の寝室、もう一部屋を子供たちの部屋として使っており、寝る時も襖は開けっ放しだったので、父のいびきはよく聞こえてきた。
DVで家族を苦しめた父。その恐ろしいイメージと激しいいびきが、あの獣となって夢に現れたのだろう。実家を出た今、あの夢を見ることはもうないだろうと思っていたのだが、夫と結婚したことで、一つ誤算が生まれた。いや、結婚したこと自体は後悔していないのだけれど。
夫も、いびきがうるさい人だったのだ。始めはそれほど気にならなかったものの、ここ最近、仕事の疲れやストレスが溜まっているのか、いびきがひどくなった気がする。
怪獣の咆哮のようないびきは、弱くなったり強くなったりしながら、今も夫の口から漏れてくる。ここまでだと、睡眠時無呼吸症候群なども疑いたくなってくる。病院に行った方がいいかもしれない。
時計を見ると、まだ深夜だった。カーテンの隙間から街灯の明かりが漏れてきて、目が慣れるとうっすらと周りの様子が見て取れる。
もう一度寝ないと、明日に響く。いや、日付が変わっているから、もう今日か。
わたしはタオルケットを身体にかけ直し、目を閉じた。
しばらく見なかった夢だったのに、夫のいびきがあったとはいえ、どうして今更見たのだろう。眠れるだろうか。
ふと、もうすぐお盆だということに思い当たった。あんな父のことなどもう忘れられると思っていたのに、まだわたしを苦しめようというのか。
わたしは湧き上がってきたどす黒い気持ちを押し込めようと、ぎゅっと目を閉じた。
了
黒い獣 月代零 @ReiTsukishiro
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます